この後、会話は、これもまた重要な「精神的に向上心のないものはばかだ」に続く。
だが、この言葉は、以上のような「私」とK、それぞれにとっての意味の違いとしてただちに語るのは難しい。「進む/退く」が逆方向を示しているように、「向上/ばか」が反対方向を指しているわけではない。その点については二人の認識は一致している。
だがやはり、この言葉を口にした「私」の意図とは違った形で、Kはこの言葉を受け止めるのである。
考察の難しい「精神的に…」より先に、まずはその言葉に対するKの反応について検討する。
Kは「僕はばかだ」と言って返す。
「僕はばかだ」/(略)私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいことに気がつきました。
ここでは「しかしそれにしては」によって、「私」とKの認識のズレが明瞭に示されている。
Kにとってこの言葉はどのような意味であり、それが「私」の耳にはどのように聞こえるか?
この一節で、明らかに解釈の必要性を感じさせるのは「居直り強盗のごとく」という比喩である。
だが「『居直り強盗のごとく感ぜられた』とはどういうことか?」という問いに、後述のように答えるのは難しくない。
だがそのような了解が、どのような論理に拠っているのかを明らかにするのは、毎度のように容易ではない。これはなかなかに興味深い考察となる。
段階を追って展開してみよう。
まず「居直り強盗」とは何か?
まずは文脈から推論してみる。「永訣の朝」の「永訣」と同じで、知らなければ知らないなりに文脈から考えてみる。その後で辞書で確認する。
居直り強盗…こっそり盗みにはいった者が家人に発見され、その場で強盗に変ること
つまり「居直り強盗」とは、最初「泥棒」のつもりだったが、見つかってから「強盗」になることだ。
問題はこの後である。
「居直り強盗」は「泥棒」「強盗」とはどこが違うか?
隣接する語との差異を明らかにすることで問題を明確にするというのは毎度の「対比」の考え方である。
Kの言葉が「私」には「居直り強盗のごとく」感じられたというのだが、では、Kの行動がどのようであれば「泥棒のごとく」と感じられ、どのようであれば「強盗のごとく」と感じられたはずなのか?
まずはこう答えがちである。
「泥棒」は不当に他人のものを得ようとするときに、行為の最中には人に見つからないようにそれを遂行しようとする。
「強盗」は、相手の前に姿を現したうえでそれを遂行しようとする。
「泥棒」は「こそこそ」、「強盗」は「堂々と」だ。
この語義からすると「私」に知られないようにお嬢さんを自分のものにしようとすれば「泥棒のごとく」であり、堂々とアプローチすれば「強盗のごとく」と感じられた、ということになる。
だが「私」がKの言葉を「居直り強盗のごとく」感じたということは、「私」はKを「泥棒」だと思っていたということだ。
つまりこの説明では「私」がKを「泥棒のごとく」感じることと「居直り強盗のごとく」感じることの違いは表せないできない。
問題は「泥棒」と「居直り強盗」を分かつ分岐点である。そこまでは「泥棒」と「居直り強盗」の違いは存在せず、その瞬間に両者は分岐する。
そこには何があるか?
「家人に見つかる」である。
両者の違いは何か?
見つかった時に逃げるか否かである。
この「見つかる」は、この場面の何に対応するか?
「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という言葉である。これは言わば、お前の犯罪行為を見つけたぞ、という指摘である。
ということは、「私」は「精神的に…」という言葉、つまりお前自身の「平生の主張」に反するではないかという指摘をすればKが逃げる(=お嬢さんを諦めると言明する)はずだと想定しているのである。
これが、「私」がKを泥棒だと見なしていたということの意味である。
ここまで考えて、当初の問いの答えが明らかになる。
Kの言葉が「居直り強盗のごとく感ぜられた」とはどのような意味か?
すなわち、「精神的に向上心のないものはばかだ」というK自身の言葉によって、Kが引き下がらざるをえない状況に陥って(つまり泥棒行為が見つかって逃げるしかない状況で)、かえって居直ってお嬢さんに突き進む(=「ばか」であることを認める=強盗をはたらく)かのごとき返答をしたのかと「私」は受け取ったのである。
これが「居直り強盗のごとく」という比喩の意味だ。
では「強盗」は?
「ばかだ」という指摘は「見つけたぞ」という意味だから、泥棒ならば逃げるはずだ。Kがよもや「ばか」であることを自ら認めると「私」には思いもつかなかった。
一方「強盗」は最初から隠れるつもりがない。つまり「強盗のごとく」とは、Kが日頃の主張に反することを隠さずに堂々とお嬢さんに突き進もうとすることを指す。
とすれば、Kが「強盗」だとすれば、そもそも「精神的に…」がKに対して「恋の行く手を塞ぐ」効果を持つとは期待できないということだ。
「私」はそのような想定はしていなかったのである。
先述の通り、こうした結論を述べること自体はそれほど難しくない。読者はこの比喩がそのような意味であることを自然に読み取っている。だが、こうした比喩の理解がどのような論理に拠っているのかは、このようにたどってみて初めてわかることなのである。
そしてもちろん、こうした結論を理解することが国語の学習なのではない。「わかる」ことは目的ではない。自分でわからなければならないし、わかるはずである。
ただそれがどのようにもたらされた認識なのかを分析することが、ここでの学習としての意義なのだ。
さて、以上の考察で「僕はばかだ」というKの言葉を「私」がどう受け取ったかは明らかになった。だがKはそういう意味で言ったのだろうか。
もちろんそうではない。「しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しい」のである。
これもまた、最初に確認した「覚悟」の際の「卒然」「独り言のように」などと同じく、「私」とKの間に認識の食い違いがあることを示している。
Kはどのような意味で「僕はばかだ」と言ったのか?
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