2020年11月27日金曜日

こころ 34 第3の仮説

 この夜のエピソードには、物語を展開させるはたらきがある。このエピソードによって、「私」が次の行動を起こし、物語が動く。

 だが、このはたらきをもってこのエピソードの「意味」が説明しきれたわけではない。

 なぜか?

 これではこのエピソードの意味がこのエピソードの前後で完結してしまって、四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない、という視点がすっぽり抜け落ちてしまっている。何のために四十八章でこのエピソードを読者に想起させたのかわからない。

 ただこれは仮説Bを否定するものではない。少なくともこのエピソードがそのような「意味」を持っていることは事実であり、否定できない。

 ただ、充分ではない、のである。


 仮説Bでは説明できない、四十八章の自殺の発見の場面とこのエピソードのつながりについて考えよう。四十八章でこのエピソードを想起することを読者に要求する漱石の意図について考えるために、まずは両者をつなぐ糸口を考える。

 四十八章の場面とこのエピソードの共通点は何か?


 Kが襖を開けたことである。

 これが何の意味をもっているか?

 これだけでは考えようがない。次のようないくつかの記述を読むことで、このことの意味をはじめて考えることができるようになる。

私は書物を読むのも散歩に出るのも厭だったので、ただ漠然と火鉢の縁に肱を載せてじっと顎を支えたなり考えていました。隣の室にいるKも一向音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。/十時頃になって、Kは不意に仕切りのを開けて私と顔を見合せました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。(三十五章 180頁)

私はKが再び仕切りの襖を開けて向うから突進してきてくれればよいと思いました。私にいわせれば、先刻はまるで不意うちにあったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。それで時々眼を上げて、を眺めました。しかしそのはいつまで経っても開きません。そうしてKは永久に静かなのです。(三十七章 182頁)

そのうち私の頭は段々この静かさに掻き乱されるようになって来ました。Kは今の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になって堪らないのです。不断もこんな風にお互いが仕切り一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいて私はこっちから進んでを開ける事ができなかったのです。(三十七章 183頁)

私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寝ないのかと越しに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶がありました。何をしているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。(略)私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は無論越しにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。ところがKは先刻から二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。(三十八章 185頁)


 上の記述から、「襖」について何が考えられるか?


 それぞれの文脈を意識的に読み進めていけば、「襖」が「二人の心の壁(距離・隔たり…)」を表していることはすぐにわかる(「エヴァ」の「ATフィールド」だ)。

 「仕切り」は空間を仕切るものであると同時に、二人の心を仕切っている。

 こういうの何と呼ぶか?

 すぐ想起できなければだめだ。おなじみの「象徴」である。

 「ホンモノのおカネの作り方」から「少年という名のメカ」「ミロのヴィーナス」「山月記」「ロゴスと言葉」、全ての教材で象徴について考察した。「おカネ」「少年」「手」「虎になる」すべて象徴だ。「ロゴスと言葉」では言語のもつ「象徴化」作用について考察した。

 ここでの「襖」もまた、「羅生門」における下人の頬の 面皰 にきび と同じく、典型的な「象徴」である。

 「象徴」とは何か?

 復習だ。適切に説明できるだろうか。

 象徴とは、ある具体物がある抽象概念を表していると見なすことである。

 この場合は、襖(具体物)が、心の距離(抽象概念)を「象徴」していると考えられるのである。

 ここからこの場面についてどのようなことが考えられるか?


 襖を象徴として見ると、襖を開けるという行為はすなわち、Kがこのとき「私」に心を開こうとしていたことを示すということになる。つまり、この深夜の訪問はKから「私」への不器用なアプローチだということになる。

 この場合、問2についてはどのように表現したら良いか?

 敢えて言えば「話をしたかった」が近いか。

 そうなると、何を話したかったのか、またなぜ話すのをやめたのか、という疑問が浮上してくる。

 だがそれも、明確に何かを話したかったわけではなく、ただ話しかけたかっただけなのだと考えてもいい。「覚悟」という言葉を口にして、昼間の逡巡に一定のけりをつけたKが、すぐその夜に再開したい話などあろうか。

 話しかけるだけなら(まして眠っているかどうか確かめるだけなら)襖を開ける必要はない。実際に三十八章では「私はまだ寝ないのかと襖越しに聞」き、その後で襖越しに「おい」というやりとりが繰り返される。

 つまり問題は話すことより、「襖を開ける」というのが象徴的な行為だということだ。

 むしろ明確な用件などなく、それが「私」の目からはKの行動が不可解なものとして映る意思疎通の齟齬が、基本的な「こころ」のテーマにつながっているのだと考えてもいい。Kの「意図」などというものは、このエピソード自体が「意味」ありげであることから要請される、いわば「幻」なのではないか。

 つまり極論してしまえば、Kが何のために襖を開けて「私」に話しかけたのかは、K自身にさえ自覚されていなくともいい。「大した用でもない」は、Kにとって正直な言葉なのかもしれない。


 では問1「エピソードの意味」はどうなるか?

 四十八章の自殺の場面を読む読者にこのエピソードを想起させることで、Kが自殺する前になぜ襖を開けたままにしたのかを考えるための注意を喚起し、あわせてその参考となる、という機能をもっているということになる。

問1の仮説C 「襖」という共通性から、自殺する際に襖を開けたKの心理を推測させる手掛かりを与える。

問2の仮説c 「私」に話しかけたかった

 2のcは、具体的な話題が前提されていないという意味では、bの「特に意味はない」と変わらないが、bが積極的に意味を読み取るべきではないというという「意味」であるのに対し、Kの心情をこのように読み取るべきだという「意味」である。


 これでこの問題に結論が出たことになるだろうか?


 またしても、ならない。

 なぜか?


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