四十三章、上野公園で重要な会話を交わした晩、Kは既に四十八章で「私」が目にすることになる遺書を書き上げていたのではないか?
この解釈について真面目に検討しよう。
こう考えることの妥当性についての重要な論点は、物語に直截描かれていない「事実」をどこまで認めるか、という問題だ。
すなわちここでは、「私」が目を覚ますまで、つまりKが襖を開けて「私」に声をかけるまでの間、Kは何をしていたのか、という想像である。
語り手の「私」から見ればKが襖を開けてこちらに声をかけるまでの時間は存在しない。これは「私」だけでなく読者にとってもそうなのである。そうした時間のことをどこまで考える必要があるか。
一般に、物語にとってのあらゆる展開の可能性の中で、直接描かれていない場面・時間は、とりあえずまだ存在はしていない。エピソードとエピソードの間、場面と場面の間は跳んでいる。そしてそれについて想像しなければならない必要が常にあるわけではない。登場人物は、観客の目の前に登場する直前にスイッチを入れられて舞台に登場するロボットのようなものに過ぎないのかもしれない。
だが物語によっては、書かれていない時間・場所で起きた出来事について想像することが読者に要請される場合もある。
ミステリーなどは、語られている場面の裏で何が起こっていたかという想像こそが物語享受の作法の核心だ(コナン君が語る黒タイツ人間の行動の顛末だ)。
そうしたジャンル的特性に限らず、書かれていない時間について読者に想像を促す必然性をもった物語は、それだけ豊かなものになりうるはずだ(もっとも、ミステリーでは結局物語内で語られてしまうのだが)。
このエピソードにおいて、この想像は要請されているのだろうか。Kの「その時間」は物語にとって存在したのだろうか?
そうした想像の要請を受け入れるためには何が必要か?
何をもってそれを小説世界にとっての「事実」と見なすか?
書いていないことを解釈によって作品内の「事実」と見なすためには、その解釈につながる情報を作者が意図的に文中に書き込んで読者に提示していると見なせなければならない。それは後から振り返って読み直したときにはじめて気付くようなものでもいい。とにかく、そのためにわざわざ書いたと見なせる符牒=サインが見つかることが、そうした解釈の正統性を根拠づける。
文中で否定されていない解釈、というだけなら、どれほど突飛な解釈でも、文中で言及されていないならば否定されていることにはならないし、整合的に成立するというだけでも解釈の幅はかなり広く確保される(実はKは宇宙人でしたと言っても、それを否定する言及はない)。
だが小説は現実ではないのだから、読者が解釈すべき物語世界の限界については、作者が文中に何らかのサインを書き込んでいることによって保証されると考えるべきなのである。
先に、書いてあることにはすべて整合的な解釈ができるはずだと述べたが、同時に、書くべきことが書いていなければ、それはないものと見なす、とも述べた。これは解釈の妥当性を判断する上での、裏表の条件である。
書くべきこととは、書かれている事柄の解釈に大きな影響を及ぼすような事柄であり、それ以外は常識の範囲で想像すればよい(だからKが宇宙人だったり超能力者だったりする可能性については、それを否定する証拠が書かれていなくとも特に考えなくていい)。
出来の悪いミステリーは、結末で突飛な真相が語られて、唖然としてしまうことがある。読者と作者の知恵比べであるはずのミステリーの作法は、真相へのヒントや伏線が読者に提示されていることだが、それを守らない「何でもあり」のミステリーは、いたずらに虚仮威しに走る下手物だ(と思うのだが、メフィスト賞受賞作品でもそういうのがあって、それはつまり同賞には論理パズルとしての「本格物」というこだわりがないということなのかもしれない)。
ここでも「遺書は上野公園の散歩の晩に書かれたものだ」という、文中で明示されていない「真相」を読者に伝えるべく漱石が残したサインが見つからないことには、こうした解釈を採らなければならない必然性はない。それはトンデモ仮説にすぎない。
Kが遺書を書いていたという、小説に書かれていない時間を読者に想像させるべく作者が書き込んだサインは見つかるのか?
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