2020年11月20日金曜日

こころ 27 「復讐以上に残酷な意味」

 「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉が、「私」とKの間でどのようにその意味を変えるのかについて、「仮定条件/確定条件」という言葉を使うことで、表現の糸口を捉えることができた。

 だが実はまだこの言葉の持つ「残酷な意味」は、本当には捉えられていない。


 先の対比図には、実は一カ所、誤りがある。どこか?


 ここまでこの対比図を使って説明しておきながら実は「誤り」があるというのは何のことだと皆は思うかもしれないが、授業者の経験では、しばらく考えさせているうちに大抵のクラスではこの「誤り」に気づく者が現れる。

 本当は先ほどの対比図を考察する段階で、既に違和を感じてもいい。あるいは「僕はばかだ」を言い換える際の「恋に退く」の違和感も看過しがたい。

 あるいは、この対比図を、単なる論理操作によってではなく、「私」とKの思考を真剣に想像しながら組み立てていこうとした時に、本当はその違和感に気づくべきである。

 どこが違っているか?


 問題は、先の対比図における「道」の対立項の「恋」である。

 「道」を外れている自分を「弱い」というKの苦悩が「恋」を目指していると考えることに違和感があるのだ。

 そもそも「道/恋」という項目は、「私」の視点からのみ見えている対立項なのである。他の三項目がそもそも対義的であるのに比べ、「道/恋」は対義語なわけではない。ここまでは「私」が対立項として捉えている項目のいくつかがKにおいては逆になっているのだと考え、「私」とKの認識のずれを捉えようとしてきたのだが、実はこの対立項目そのものがKの認識を適切に表わしていなかったのである。

 では「道」の対立項は何なのか?


 それでもすぐに発想されないのなら、次の一節を参照しよう。

その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走りださなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出すことのできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きてきたと言ってもいいくらいなのです。


 漱石の誘導に素直に従うならば、「道」の対比項目は「死」だということになる。


    進む ←→ 退く

    強い ←→ 弱い

     道 ←→  恋  →死

    向上 ←→ ばか


 こう考えてみてはじめて、「精神的に向上心のないものは、ばかだ」が「復讐以上に残酷な意味をもっていた」という表現に漱石が込めた真意がわかる。

 図らずもKの現状認識を追認した「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という言葉は、Kの存在をまるごと否定するものであった。

 「私はこの一言で、彼がせっかく積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今までどおり積み重ねてゆかせようとしたのです。」という「私」の意図とは全く逆に、この一言はまさしくKが「せっかく積み上げた過去を蹴散らした」のである。

 「尊い過去」を否定することは、Kにとって生を否定することである。

 つまりこの言葉はKにとって、まるで死刑宣告にも等しいものだったのである。


 以上の考察に基づくと、先に「進む/退く」の考察の際に触れた「彼はただ苦しいと言っただけでした。」の「苦しい」についてもあらためて見直さなければならない。

 先にはこの「苦しい」は、Kにとっては「道を棄てることは苦しい」であり、「私」はそれを「お嬢さんを諦めるのは苦しい」と解釈したと考えることで、一応は二人のすれ違いの様相は整理できるように見えていた。

 だがこのような解釈では、「私」の捉えたKの苦悩と、K自身の苦悩の間に、実はそれほどの違いはない。

 本当にKが自らの信じてきた道だけが大事なのだとしたら、「退けるのか」と問われたとき言下に「できない(退けない)」と答えればいいだけのことだ。

 だが「退けない=道を棄てられない」とすぐに答えられずに「苦しい」と言うとすれば、それは選択の岐路に立つことの苦悩を意味することになる。選択することが「苦しい」のなら、それは「道」を棄てることの「苦しさ」を示すだけでなく、Kにとって選択肢のもう一方「恋」の重みをも必然的に証し立ててしまう。

 これは「苦しい」を、選択に伴う苦悩であると捉える以上、必然的に生ずる論理的機制である。

 だがそもそも、道を棄ててお嬢さんに突き進むという行動をKが選択肢として想定しているという前提自体が「私」の錯覚なのである。

 実は本文を、「私」の思い込みを排して読んでいくと、Kが具体的にお嬢さんに対して進みたがっている(そしてそれを信仰が妨げている)と見なせる記述はない。ただ「私」の疑心暗鬼だけがそのような選択の迷いを錯覚させているのであり、読者もまたすっかりそうした仮初めの問題の前にKを置いてしまう。

 「私」とKの認識のズレの本質はここにある。

 「私」はKの苦悩を、「道か恋か」の選択の苦悩だと捉えている。

 だがKにとって少なくとも「恋」は「道」との選択の対象ではない。

 「私」にとって選択はこれから行われる〈仮定〉の問題であり、Kにとっては〈確定〉された現状に対する決着のつけ方の問題である。

 「退けるのか」という問いに答えるのが難しいのは、それだけ「退く=道を棄てる」ことが難しいということなのではなく、「お前は退いた自分をどうするのか」、という問いかけがその後ろに控えていることをK自身が自覚しているからである。「苦しい」というKの言葉には、退いた先にある「自己所決」が既に含意されているのである。


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