2020年11月20日金曜日

こころ 26 「精神的に向上心のないものはばかだ」

 「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉についてさらに考察を進めよう。

 まず「私」の認識について確認する。この言葉は「私」にとって「復讐以上に残酷な意味をもっていた」と語られている。

 この「復讐」とは何か? また「復讐以上に残酷な意味」とは何か?


 「復讐」については、この言葉がKから発せられた房州旅行の場面を読んでいない皆には若干考えにくいが、教科書本文からでも推測はできる。

 「私」はかつてこの言葉によってKに軽侮され、自尊心を傷つけられた。「復讐」とは同じことをKに仕返すことを意味している。

 一方「復讐以上に残酷な意味」とは、続く一文で「私はその一言でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです」と解説されている。

 「以上」で示される大小関係についてはっきりと認識しておきたい。

 つまり「私」にとっての「残酷」さの大小は

Kの自尊心を傷つける < Kの「恋の行手を塞ぐ」

なのである。

 これはその前の会話における「苦しい」の解釈と論理的に整合している。

 Kの「苦しい」は「私」にとって「お嬢さんを諦めるのは苦しい」という意味に解釈される。それが「実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。」と強調されている。

 お嬢さんを諦めることがこれほど「苦しい」と言っているKをそこに追い込むのは、確かに「残酷」である。


 だがこの言葉の「残酷」さはそれだけではないように感じる。

 読者が感じる「残酷」さは、K自身の言葉によって自分自身を追い詰めるという、自らの手で自らの首を絞めさせるような巧妙な方法の持つ逃げ道のない構造にもよっている。あくまで「私」が言っている「意味」は上記のとおりだが、読者はこうした構造からも「残酷」のニュアンスを感じ取っている。

 さらに、それだけではない。この言葉はそれ以上の意味でも「残酷」であり、そのことに、漱石は自覚的である。「復讐」と「復讐以上に残酷な意味」という表現によって重ねられた「意味」について読者に考えさせる注意喚起は、その延長上に、「私」が思いもしなかった「意味」があることへ読者の思考を誘う。


 Kにとって、この言葉はどのような意味だと考えればいいのか?


 考察の緒としてまず次のように考えてみる。


「僕はばかだ」を「僕は〈  〉から〈  〉に〈  〉つもりだ」と言い換えてみよう。空欄には上から順に「強い/弱い」「道/恋」「進む/退く」のどちらが入るか?


 先の対比図によれば、「私」にとって「僕はばかだ」は「僕は強いから進むつもりだ」とKが言っていることになる。これが「居直り強盗のごとく」の意味である。

 同様にKにとっての対比項目をそのまま代入すると「僕は弱いから退くつもりだ」と言っていることになる。

 だがこの言い換えは何かヘンだ。Kはそういうつもりで「僕はばかだ」と言っているのだろうか。

 この違和感の原因は何か?


 対比軸の上下(左右)を間違えているのではない。この言い換えの文型が不適切なのだ。単に対比の項目を逆にするだけではKの真意を表わすことはできないのである。

 どうしたらいいか?

 Kの言う「僕はばかだ」を先の対比を使ってもう一度言い換えてみよう。


私 僕は強いから進むつもりだ。(居直り強盗)

K 退いているような自分は弱い。(力に乏しい)


 これならば、Kの言っているニュアンスにいくらか近づいているように思える。

 ここから何がわかるか?

 つまり「私」はKが「これから」どうするつもりなのかを言っているように受け取ったのだが、Kは「今」を表現しているのである(この「これから/今」は各クラスでさまざまな言い方が提案された。「意志/現状」「決意/自虐」など)。

 とすると「私」とKとの間で「精神的に向上心のないものはばかだ」はどのような認識の違いを示しているか?


 この、「私」にとっての「意味」とKにとっての「意味」の違いは、こんなふうに表現することができる。つまり「精神的に向上心のないものはばかだ」は「私」にとって「仮定条件」のようなものであるのに対して、Kにとっては「確定条件」のようなものだ…。

 どういう意味か?

 「仮定条件/確定条件」といえば古典文法だ。

 接続助詞「ば」は、上の活用語が未然形のときは「仮定条件」を表わし、已然形の時は「確定条件」を表わす。それぞれにお約束の口語訳がある。これを使って、「私」とKの認識の違いを表現してみよう。


 「私」の言った「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という台詞は、構造的に「精神的に向上心のないもの」と「ばか」が、相互に仮定として置かれているのだと言える。もし「精神的に向上心のないもの」であるとするなら、その者は「ばかだ」、あるいは、もしその者が「ばかだ」とすると彼は「精神的に向上心のない」者だ、というように。

 つまりどちらか片方の結論を覆したければもう一方の仮定を棄てればいい、という選択の岐路に相手を立たせたうえで、「平生の主張」をたてにして「これまで積み上げた過去」の方向に誘導することを意図しているのである。

 「精神的に向上心のない」「ばか」であることを認めたくないならば恋愛を諦めればいい。恋愛を諦めることが「苦しい」としても、少なくともその場合「精神的に向上心のあるもの」として自らの立ち位置は保てる。「私」の自覚する「残酷」は、そのような逃げ道を残している。

 一方Kにとっての苦悩は「選択」の苦悩ではない。Kは既に自らを「精神的に向上心のないもの」=「ばか」=「弱い」と見なしているのである。


 つまり二人にとって「精神的に向上心のないものはばかだ」は次のようにその意味を変えるのである。


私「もし向上心がないのならば、そいつはばかだ」〈仮定条件〉

K「向上心がないのだから、君はばかだ」〈確定条件〉


 「私」が仮定として語るテーゼは一般論だが、Kにはそれが自分自身の現状を指摘したものであるかのように響く。


 読者には「私」が言ったような「意味」でしかこの言葉を読むことはできない。この〈仮定〉がもつ「残酷」さは、お嬢さんを諦めさせることである。

 だがKの関心が、最初から一貫して自らの裡なる苦悩に向けられているとすると、Kに対して「私」が「厳粛な改まった態度」で「言い放」った「精神的に向上心のないものはばかだ」なる台詞は、Kの苦悩をそのまま追認するものであり、いわばKの存在をまるごと否定してしまっているのである。

 これはまだこの言葉の持つ「残酷」さを捉える端緒に過ぎない。


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