2020年11月10日火曜日

こころ 18 何の「覚悟」か

 ここからの展開は、「私」とKが上野公園を散歩する「下/四十~四十二」章の読解である。

 この部分の精密な読解は、知的興奮を味わえる高度な考察の果てに、目も眩むような「コペルニクス的転回」による認識の更新が訪れるはずである。


 みんなは既に通読してあるはずなので、授業は本文を順に扱う必要があるわけではない。ここでは核心といっても過言ではない次の一節について最初に考える。

    彼は卒然「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、―覚悟ならないこともない。」とつけ加えました。彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。(「下/四十二」192頁)

 この「覚悟」とは何をする「覚悟」か?


 考えうる候補は次の三つ。

 1 お嬢さんを諦める「覚悟」

 2 お嬢さんに進む「覚悟」

 3 自己所決する「覚悟」

 1は文脈に従った素直な解釈だ。

 2は、そのまま読み進めると、翌日に「私」がたどりつく解釈である。

 問題は3だ。どうしてこんな解釈が可能なのか?


 だが3を支持する者は多い。

 3のみ、もしくは1と3の意味を含むニュアンスだと考える者は、事前の調査によれば受講者の3分の2に及ぶ。

 それらの者は、そうは考えない3分の1の者に向けて、Kの「覚悟」に自殺の意味合いが含まれていると考えることの妥当性を説かなければならない。


 さて、「覚悟」に自己所決の「覚悟」を読み取ることはありうることだとして、その妥当性を主張するのはそれほど簡単なことではない。

 だが一度そうだと思ってしまうと、もうそのように思うことが当然のように感じられる。それでもあらためて考えてみる。

 そのような論理はどこから生じたのか?

 またその妥当性は何に支えられているのか?


 Kがその言葉を口にする場面で、そこに自殺の意味合いがあることに「私」が気づくことはありえないのだが、そもそも読者もそのように解釈することは不可能だ。

 この解釈は、後ろまで読み進めて、実際にKが自殺することを知って、振り返ってみたときにしか成立しない。

 そしてそう考えたときに、ある程度の説得力、納得感があるのももっともだ。

 だがその妥当性の根拠を説明しようとすると、それはKの自殺の動機を説明することになってしまいがちだ。

 導入の展開でKの自殺の動機を考えたが、その時に③「道を外れた自分を許せない」という動機を考えた者は多い。その説を繰り返してしまうのだ。

 Kがこの月曜日の時点で自殺する動機が既にあったことは、Kが自殺の意味で「覚悟」を口にすることがありうることの前提ではある。だがそれは、この時口にした「覚悟」がそれを示すと考えることとは別だ。

 問題は、この場面でKがそれを吐露したのだと考える必然性を説明することである。

 それはなかなかにやっかいな論証だ。


 自殺の意味合いが含まれているか否かの検討をいったん措いて、まず1と2について検討する。

 まず会話の時点で「私」はこの「覚悟」を、「お嬢さんを諦める覚悟」だと思っている。そのつもりでKに「覚悟はあるのか」と迫ったからだ。

 ところが「私」は翌日「四十四」章(195頁)には「お嬢さんに進んで行く覚悟」だと考える。


 なぜ「私」は「覚悟」を前日と反対の意味に考え直してしまったのか?


 なぜ考え直したかは、本文を着実に追えば明らかだ。そのことはそのまま説明されている。

 だが実は、その論理は案外に追いにくいのだ。


 「私」の認識が「諦める」から「進む」に転換する論理を確認する。

 まず、「私」がKの「覚悟」について考え直した直接の契機は何か?

 これもまた、全員が直ちにそれと指摘できるわけでもない。だが的確に論理を追えば、それが上野公園の翌日、Kに問い質した際の「強い調子で言い切った」Kの口調であることは確認できるはずだ。

 これをきっかけとして「私」はどう考えたか。

 「私」が「覚悟」の意味を考え直す際の思考の流れは次のように説明されている。

    私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。(略)私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうといちずに思い込んでしまったのです(195頁)。

 この「例外」はその前の次の部分を受けている。

 Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔な訳も私にはちゃんと呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです(195頁)。


 この一節の「一般」「例外」とは何か?

 聞いてみるとこれも、ただちに全員が正解するというわけではない。「一般」は「精進・禁欲」で、「例外」は「お嬢さんに恋していること」だと答える者は案外に多い。確かにKの性格の「一般」は「精進」なのだし、恋していることはKにとっての「例外」的な事態に違いない。

 だがこのように考えるのは間違っている。「一般」=「精進」/「例外」=「恋」ではなぜダメか?

 先の引用の「例外」に「恋」を代入して「恋ではないのかも知れない」とすると中略以降と矛盾するのである。「恋ではない」と考えたから「恋に進む」のだと考えた、などというのは意味不明だ。また、「例外ではない=一般である=精進」だと考えたら「恋に進む」の意味に解釈するはずはない。

 「ダメ」だと判断できること自体も必要だし大事だが、それよりこうした、「なぜダメか?」の根拠を述べることにこそ高度な国語力が必要である。


 さてでは「一般/例外」は何なのか。これはもともと難しい問いではない。確認に過ぎない。「つまり」で言い換えられている前後を対応させるだけだ。

 「果断に富んだ=一般/優柔な=例外」である。

 先の「例外」に「優柔」を代入すると「優柔ではない」となり、「果断に富んだ彼の性格」と論理的に整合することになる。


 ではここで言う「果断/優柔」は何を指しているか?

 「果断=思い切ってお嬢さんにアプローチする/優柔=言い出せずに思い悩む」である。

 では「優柔な訳」とは何か?

 Kの「平生の主張」が恋に進むことを妨げているのである。


 ここまで確認してやっと問える。

 なぜ「私」の解釈は反転したのか?


 四十三章の終わりにKが「強い調子で言い切」った(195頁)ことで、Kが「鋭い自尊心を持った男」であることにあらためて気づいた「私」は、「覚悟」についても「一般=果断に富んだ=お嬢さんに進む」意志を示しているのではないかという推論につながったのである。


 さて、1が、全く反対の2に変わった論理はわかった。

 ここまで確認して、考察したい問題はこの後である。

 「覚悟」の解釈は、なぜ反対になりうるのか?


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