2020年10月30日金曜日

こころ 17 曜日を特定する意義

  長い推理過程を経て、教科書収録部分の曜日が確定した。

月曜 ① 上野公園を散歩する

   ② 夜中にKが「私」に声を掛ける

火曜 ③ 登校時にKを追及する

月曜 ④ 奥さんと談判する

木曜 ⑤ 奥さんがKに婚約の件を話す

土曜 ⑥ 奥さんが「私」に⑤の件を話す

土曜 ⑦ Kが自殺する


 ここまでの推論の過程を認めるとして、それを本当に漱石が想定していたと皆は信じられるだろうか。これは徒に深読みしているだけではないか(ここまでの授業のあちこちで、ホントに作者はそんなこと考えてるんですか? と言いたかった者は多いかもしれない)。

 だがこうして推論を重ねてみた感触では、漱石は周到にこうした設定をした上で書き進めていると思えた人も多いはずだ。

 それでも以上の推論に牽強付会な印象があると感じられるとすれば、そこには次のような誤解があるかもしれない。

 ここまでの推論は日程の記述から曜日を特定しているが、作者漱石がこのように考えたと言っているわけではない。逆だ。漱石の中では、曜日が先に想定されていて、それに基づいて日程が表現されている、と言っているのである。

 曜日の設定は、あくまで作者が書く上での想定だ。それを逆に辿って、記述から曜日を推論するのにこのように手間が掛かることが、この考察が穿ち過ぎであるような印象を与えてしまう。

 そしてまたこれは、こうした曜日を語り手である「私」が覚えているということでもない。「私」にはそれぞれの出来事の配列と、その間のおおよその時間経過と、Kが自殺した晩の曜日「土曜日」が認識されているだけだろう。

 だから、漱石がこうした曜日の設定を読者に読み取らせるつもりがあったと言っているわけでもない。こちらが勝手に、作者の創作過程を推測しているのだ。

 ただ「こころ14」で推理した「運命の皮肉」については、それに気づく読者がいることを期待していたはずだ。あのような付合を示す符牒が意図されていない偶然だと考えることは難しい。漱石は注意深く読んでいる読者にだけでも気づいてもらうことを期待して書いたはずである。

 そしてそこに気づいた時の戦慄は、決して小さなものではなかった。


 3時限にわたって、物語内を流れる時間を把握するための推論をしてきた。

 一方で、こちらが一方的に説明してしまえば、以上の推論過程の概略と結論を10分程度で語ることも可能ではある。

 だがそんなふうに読解の結論を知ることには大した意味はない。「二、三日」と「五、六日」の関係をどう考えたらいいのか、なぜ「二、三日」が示されているのか、「二日あまり」とは何か、などの問題点を発見したり、解釈の根拠を文中から探したり、自分の思考を客観的に点検してみたり、妥当な結論へ向けて推論したり議論したりすることにこそ、国語科としての学習の意義があるからだ。

 そしてそうした過程は、それ自体、楽しかったはずである。


 こうして共有された認識は、この先、物語の展開に沿った登場人物の心理を読み取っていく上で、それを実感として想像したり議論したりするための根拠になる。


 その中でもとりわけ重要なのは、「奥さんがKに婚約の件を話す」が木曜日だということを確認することである。

 この出来事は、当の木曜日の時点では物語の前面には表れることなく、それが表面に浮上するのはの土曜日である。そしてその晩にKは自殺する()。

 こうした情報提示の仕方によって、読者は⑤と⑦がきわめて近い時期に起こったかのように錯覚してしまう。そしてそれはそれら二つの出来事の因果関係を殊更に意識させることになる。

 つまり、Kはお嬢さんと「私」の婚約を知って(また、「私」の卑怯な裏切りを知って)自殺したのだ、と考えてしまうのである。

 このような解釈はただちに「エゴイズムと罪」をテーマとする小説としての「こころ」観を成立させる。

 私の「エゴイズム」がKを死に追いやったのだ。

 だが、ここには実は語られないまま経過していた「二日あまり」がある。これが意味するものは、よくよく考えなければならない。

 ⑤の木曜日から⑦土曜日までの「二日あまり」、Kの心にはどのような思いが去来していたのか?

 これはKの自殺に至る心理を考察するための重要な認識である。

 授業の最終段階で再考する。


 さて次は「覚悟」の考察である。

 ①のエピソードにおいてKが口にした「覚悟」が、「自殺の覚悟」だとすると、Kは自らそう宣言してから12日後にそれを実行に移したことになる。

 そう解釈することは妥当か?


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