2020年10月13日火曜日

こころ 5 「主題」と「動機」の整合性

 「エゴイズムと倫理観の葛藤」と、「動機」の選択肢を黒板の左右に列挙して、それらを見比べる。

 これらの「動機」には「主題」と整合的であるものと不整合なものがある、それぞれどれか?

 整合的というのは、納得できる因果関係が認められるという意味だ。

 前述の通り、「こころ」がどんな小説であるかという把握は、Kがなぜ死んだのかという把握と密接に関係している。

 Kの自殺の動機と「こころ」の主題の間にはどのような論理があるのか?


 あらためて、「こころ」が「エゴイズムと倫理観の葛藤」を描いた小説であると捉えるとはどういうことかを考えてみよう。

 「エゴイズムと倫理観の葛藤」という主題における「エゴイズム」と「倫理」とは何のことか?

  • エゴイズム お嬢さんを自分のものにしたいという利己心
  • 倫理 卑怯なことをしてはならないという良心

 この二つは対立する。なぜか?

 もちろん「利己心」という言葉はもともと否定的な意味合いで使われる言葉だから、そもそも倫理観と対立することは語義的に当然のように思える。

 だが具体的に「こころ」において「利己心」と「倫理」がなぜ対立することになるのか、という問いに答えることは案外に難しい。直ちにその論理を語れる者はほとんどいない(ということで各クラスでこれを答えた人は素晴らしい)。

 だが「答え」を聞いてしまえば呆気ないほど明らかなことだ。


 「私」は基本的にKに敵わないと思っており、正々堂々とした戦いではお嬢さんを自分のものにすることができないと思っているのである。したがって、お嬢さんを自分のものにするには、何かしら卑怯なことをせざるを得ない。だがそれは倫理観に抵触する。

 「葛藤」とは対立する価値がからみあうことだ。この葛藤の末「私」は「エゴイズム」を優先する。となれば倫理に反するしかない。

 そしてそれによってKが自殺する。これが「友人を死に追いやった」という「私」の罪悪感につながっている。倫理観に反する行為なのだから、罪悪感もいっそう強い。

 つまり「エゴイズムと倫理観の葛藤」という主題把握は、動機①②と整合的である。というよりむしろこの主題は、Kの自殺の動機を①や②と捉えたところから把握された「物語」なのである。


 一方③はこうした主題把握と不整合である。

 ③はK自身の問題であり、「動機」が③ならば、「私」の「エゴイズム」が「友人を死に追いやった」ことにはならないからだ。


 だがこのような「不整合」を、とりたてて「不整合」とはみなさない、ということも可能かもしれない。

 確かにKの自殺はK自身の問題だ、だがお嬢さんへの執着がその実行を踏み止まらせていたのだ、その生への紐帯を「私」の卑怯な裏切りが断ち切ったのだ。つまり③がKの自殺のもともとの動機だとしても、最終的にそれを実行に踏み切らせたのはやはり①②であり、その原因となった「私」の「エゴイズム」の罪は否定できないのだ。

 なるほど、自殺の動機をどれか一つに限定する必要などないのであって、いくつかの要因が重複して人を死に追いやるのだと考えてもいい。さっきそうしたではないか。

 だが、「重み付け」の想定において、①②の合計と③の重みのバランスはやはり問題だ。「エゴイズム」が主題だという把握は、やはりどうしても①②の重みが大きくならなければならない。③の方が大きいとすれば、それは「エゴイズム」を主題とする把握とは別の主題把握を必要とするはずである。


 ③がKの自殺の動機の大きな部分を占めているという見解は、一般的な読者にとってはあまり意識されていないが、国語の授業における扱いとしては常識である。

 なのにどうしてそれが「エゴイズム」主題観と不整合であるとは一向に語られないのか?

 実はこれには明確に説明できる理由がある。それはいわば「盲点に入る」からである。


 ヒントとして提示したのは、「こころ」が一人称小説であるという点だ。教科書収録部分は遺書の一部なのだから、一人称なのは当然である。

 すると?


 Kの自殺の動機を①②と見なすのは、「私」の認識に基づいているのである。「エゴイズムと倫理観の葛藤」という主題は、「私」の目から見た「こころ」という物語の把握だ。


 面白いことに、宿題の段階では、①②を挙げた者が多い。それが、授業で聞き直すと支持の大勢が③へと移行する。

 なぜこんなことが起こるのか?

 秋休みの宿題は、時間をかけないでやりなさい、と指示した。教科書を学校に置いてある人は夏休みに読んだ記憶で答えなさいとも指示した。

 そうすると、人物関係や出来事の推移といった物語の大きな枠組みや主題と整合的な①②が意識されるのではないか。

 ところが授業であらためて教科書を開いて考える段になると、我々読者はもう少し客観的に、公平に、Kの心情を熟慮するようになる。話し合いを通して妥当な解釈についての合意が形成される。

 そうすると、③が妥当なように思える者が増えるのである。


 一般に理解されている「こころ」の主題は、Kの死を「私」が「追いやった」ものとみなすことによって成り立っている。「エゴイズム」とともに「罪の意識」「罪悪感」という言葉が頻出するのはKの死を「私」のせいだと見なしているからに他ならない。「私」の目から見れば、事態はそのように把握されている。

 だがそれは読者が意識的に考えたKの自殺の動機と不整合だ。

 つまり「エゴイズム」主題観は、雑に考えたときにのみそう見える「こころ」観なのである。

 では自殺の動機を③だと考えるならば、「こころ」の主題をどう捉えるべきなのか?

 実は宿題の段階で「エゴイズムと倫理観の葛藤」という表現には収まらない主題を考えている者もいる。その中には、とても鋭い把握をしている者もいる。

 だが本人がそれを意識しているわけでは、おそらく、ない。

 その人には、ごく自然に「こころ」がそのような物語に見えたということなのだろう。

 「こころ」はどのような問題を提起した小説なのか。

 結論にいたるには、丁寧で根気強い考察が必要となる。


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