授業第1回は二つの動画を視聴した。
ここには、動画の視聴という行為がみんなの注意を引きつけやすく、導入にあたって関心を喚起する動機付けとして有効だろうという下心もある。
だがそれぞれの動画には、それを見せることによって考えさせたい問題もある。
NHK Eテレの「Rの法則」は、みんなと同じ高校生に「こころ」を紹介する番組だ。
テレビ番組としては、ああいうふうに雛壇高校生に反応させて一般視聴者の共感を呼び込もうしているのはやむを得ない。それが「こころ」に対する興味をひくことになってもいよう。
だがあのようにして「こころ」という物語を知った気になることと、「こころ」という小説を読むことはまるで違うことは心得なくてはならない。
何が問題なのか?
まず、小説本文を読んでいない出演者に、小説中の問題について考えさせることがどれほど見当外れなのかを番組は全く考慮していない。
読書をして得た認識を、自分の問題として捉え直すことはもちろん大事なことだ。自分だったらどうするか、とは常に考えるべき問題である。
だが、実際に作品を読んでいない者に対して、物語の設定や粗筋を説明した上で、そこに描かれる問題についての選択や是非を問いかけるのは、いわゆる「道徳」の授業であって、国語科授業における作品の受容とは別だ。
小説は精妙に計算された描写や形容によって、微妙な心理を描き出している。読者はそうしたテキスト情報から、「物語」を構築する。
それなのに、本文を読んでいない者が登場人物の「気持ち」についてあれこれ語ることが、まるで見当外れなものになるかもしれないという危険についての注意は、視聴者には伝えられない。これがまるで「こころ」という小説についての考察であるかのような誤解を視聴者に与えることになっている。
このことの問題点については番組制作者も自覚的ではあるのかも知れない。一般視聴者向けにはこれで仕方がないと割り切っているのかもしれない。
だが以下に指摘するような問題点は、おそらく自覚されていない。
例えば「羅生門」の設定や粗筋を説明して「あなたは、生きるための悪は許されると思うか?」などと問いかけるのは間違っている。「羅生門」はそのような問題を読者に問いかけてはいない(のだが、本文を実際に読む国語の授業においてさえ、世間ではしばしばそのような問いかけが行われている)。
「こころ」においても、設定や粗筋から想定される「問題」が、あたかも「こころ」の主題であるかのように語られることがある。
「Rの法則」で取り上げられていたのは、まさしく典型的なそれである。
小説では全く問題になっていないことが問題として取り上げられている。
何が間違っているか?
番組冒頭から「親友と同じ人を好きになったらどうする?」と問いかけられる。
これは確かに小説中でも「私」が直面する問題である。これを「三角関係」と表現するのも間違っていない。
番組ではこの問題を「恋愛か友情か」と言い換える。始まって間もなく、字幕でそう視聴者に伝えられる。高校生の一人が「友情の方が大事だから(友人に譲る)」などと言う。
こうした語られ方に、視聴者は別段違和感を抱かない。番組制作者もそれが特別おかしなことだとは思っていないはずだ(もちろん問題を大衆迎合的に強調していることくらいは自覚しているだろうが)。
この何が問題か?
「私」が迷い、悩み、足掻き続けることになる「問題」は「恋愛か友情か」という選択ではない。小説中で「私」は一度としてそんな選択に悩んだりはしていない。
それは本文をその気になって読み返せばすぐわかることである。
これは、設定と粗筋から導き出されたマヤカシの問題なのである。
だが設定と粗筋を頭に入れて「こころ」という物語を思い返した時、そこで「私」が「恋か友情」という問題に悩んでいたように錯覚することは、大いにありうることでもある。
そうした錯覚に基づいて「こころ」が語られ、そこで読者に突きつけられることになる「問題」が紹介される。出演者が「深すぎる」などと受け止める。
だが「こころ」が読者に投げかける「問題」は本当はこれではない。
「私」が何に悩み、そこでどのような問題に直面することになるか?
それは本文の読解によってしか明らかにはならない。
「Rの法則」は、一般的に「こころ」がどのように受け止められているかを知る上で簡便な資料だ。ここに語られる「こころ」と、授業で読解していくことによって浮かび上がってくる「こころ」がどれほど違うものなのかを実感するためにも、この印象を覚えておいてほしい。
もう一つ有名な文学作品数編をアニメ化した、「青い文学」というテレビシリーズから、「こころ」の回を、その一部分だけ視聴した。
全編はレンタルなどでも見つかるかもしれない。作画やカメラワークなど、アニメーションとしての質も高く、とりわけBGMやSEなどの音響の演出と、Kを演じた小山力也の声がとても良い。ただ、かなり大胆なアレンジをしている(あの衝撃的なKのキャラデザ以外に、ストーリー的にも)ので、原作ファンからは賛否がありそうである。これを見て「こころ」がわかった気になってはいけない。
さて、ここで見てほしかったのは、アニメ化にあたって、前後編に分けて、それを「私」の視点とKの視点から描き分けるという、きわめて興味深い試みをしていることである。
同じ状況をそれぞれの視点から描き分けた二つの場面は、実に面白い。教科書収録場面より少し前の三十三章のエピソード、雨中のすれ違い(原作では雨上がりで泥濘の道をすれ違う)の場面が、最初「私」の目から描かれる。その後、同じ場面が今度はKの目から描かれる。
それぞれが、互いの目から描かれたときに、どれほどその相貌を変えることか。
お互いに相手が何を考えているのかわからない「魔物のように」見えてくる(この表現は教科書184頁にある。そこではKを表したものだが、逆にKから見れば「私」もまた「魔物」だったのかも知れないのだ)。
すれ違いざまにKの言う「悪いな」のニュアンスの違い!
表面的には、隘路のすれ違いで道を譲ってもらって「悪いな」である(石畳を外れると水溜まりで、長靴に水が浸みこむ描写がある)。
それが「私」の目からはまるで、Kが「お嬢さんをいただいてしまって『悪いな』」とでも言っているかのように感じられる。それはKのふてぶてしい勝利宣言だ。
ところがKにとっては、自らの平生の広言に反して女に心を奪われている自らの状況を「私」に非難されることを恐れて弱々しく懺悔しているように感じられるのである。「日頃偉そうなことを言っておきながら今の自分は…」。
この「視点が違うと物事が違って見える」という認識を、これからの読解に活用する。
それは、何が小説内「事実」で、どこに主観のフィルターがかかっているかを選り分けていく繊細な読解作業である。
あくまでテキストにある情報から、表面的に見えている「物語」とは別の「物語」を浮かび上がらせるのである。
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