2020年10月27日火曜日

こころ 13 「二、三日の間」の意味

 「私」が奥さんに、お嬢さんとの婚約を談判したのは、Kが自殺する土曜日から遡る五日前の月曜日であるとの結論が出た。

 だが本当はその前に、もう一方の、「二、三日」と「五、六日」は重なっていない、足すべきだという主張の根拠についての検討がなされているはずだ。この説の根拠はどのように提示されているか?


 「二、三日」と「五、六日」が重なっているか重なっていないかという問題の要点は、両者を区切る切れ目、カウンターをリセットして日数を数え直す起点を認めることができるかどうかという点にある。つまり「二、三日」と「五、六日」を連続した日数だと見なして合計してしまった人は、その切れ目があると主張しているのである。

 その切れ目は何か?

 逆に重なっていると主張するには次の疑問に答えなくてはならない。

「二、三日の間」(201頁)という記述はなぜ必要なのか?


 実際に「足すべき」派が根拠として挙げたのもこれである。

 小説は現実ではない。作者によって創られることで初めてこの世に存在する。したがって小説中に書かれてあることには原則として必ず意味があるはずだ。

 このテーゼはなまなかには無視できない。「二、三日」が「五、六日」に含まれる途中経過であるとすると、そうした記述はなぜ必要なのか。「二、三日」と書かれているのは、それが「五、六日」とは独立した別の期間だからではないか。

 「二、三日」の後にあらためて「五、六日」を数え始めたにせよ、「二、三日」に続けて「四、五、六日」と数えていったにせよ、その終わりに何事もないのならば「二、三日」と数えるという思考がそもそも生じないはずだ。作者の中で何かが意識されているから「二、三日」という経過が示されたのである。

 それは何か?


 「二、三日」という期間を示す記述の終点の候補は明確には見つからない。それでも挙げるならば例えば次のような記述がかろうじて指摘できる。

私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。(201頁)

私はこの間に挟まってまた立ちすくみました。(202頁)


 これらは「二、三日」の終わりの区切りをなしているのであって、同時にそこを始まりとして「五、六日」と数え直したのだとも考えられるだろうか?


 この点にも関わる注目すべき着眼点を提出してくれた人がいる。

 「五、六日たった後」の直前の「同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ちすくみました。」の「また」に着目するのである。

 「また」は反復を表わす副詞だ。とすればこれ以前にも「立ちすく」んでいる状態があったということだ。その二つの、対置される「立ちすくみ」状態が、「二、三日」と「五、六日」として読者に提示されているのではないか。

 だが「二、三日」の「立ちすくみ」は、どのような意味で「五、六日」の「立ちすくみ」と対置されるのか。④から⑥までは常に逡巡が継続していたのではないか。


 「二、三日」と「五、六日」を区切って、それらを対置する要素はなかなか見つからない。

 一方「また」が示す「対置」についても納得できる解釈が必要だ。

 授業では二つのアイデアが提示された。

 一つ目は④当日に、Kに言えなくなってしまっていることと、それ以降の「五、六日」を対置しているという解釈だ。④当日の「立ちすくみ」については、例えば46章末尾の「卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのがいやになったのです。」などがそれを表現しているといえる。

 だが、当日の「立ちすくみ」と、それ以降の「五、六日」であれ「七~九日」であれ、継続する「立ちすくみ」を、どのような意味で区切るというのだろうか。当日から⑥まで、「私」は一貫して「立ちすくみ」続けていたのではないか。


 もう一つは、④「談判」以前と以降の「立ちすくみ」を対置しているという解釈だ。「私」は④以前も、お嬢さんを好きだとKに言わなければならないと感じているのに言えずにいた。そして行動を起こした④の談判=婚約の成立以降は、いよいよ言わなければならないという圧力は高まったというのに、それでも言えない。

 この二つが対置されているのだ、という解釈である。これは長い文脈を一掴みにする力強い把握である。

 談判の前後の「立ちすくみ」は、その切迫感において区別される充分な必然性があるから、これらを「また」で対置しているのだと考えることは腑に落ちるが、一方で、読者にそれだけの視野を要求していると考えることに無理があるようにも感ずる。


 どちらも興味深いが、いずれにせよ「また」が直ちに「二、三日」と「五、六日」を区切る根拠になるとは言い難い。

 同時に、何と何が対置されるのかについても完全には納得しきれない。


 やはり推論の過程としては先述の「継続」と「始点」についての考察の妥当性は高く、「二、三日」は「五、六日」に含まれると考えられる。







 ならばなぜ漱石は「二、三日」という途中経過を書き込んだのか?


0 件のコメント:

コメントを投稿