Kが婚約の事実を知っていることを「私」が奥さんから聞いた、その晩のうちにKは死んでしまったのだと読者は読む。それが自然な読みだ。これは間違っていないのだろうか。
⑥と⑦は本当に同じ日の出来事なのか?
そもそもどうして、そうだと感じられたのだろうか?
⑥から⑦にかけて、日を跨いでいる記述がないから、という根拠が挙がる。だが日並み日記じゃないんだから、次の日になったかどうかが常に書いてあるとは限らない。実際にエピソード間は日程が跳んでいる。
だが、実はこれは一つの有力な推論の根拠である。
論理的には、書いていないことは、あるともないとも言えない。つまり確定できない。すべての事実を小説が記述しているわけではない。
だが、書く方が自然なことが書いていない場合は、それがないものと見做す方が自然なのである。
この考え方は小説を読む上では重要である。この先何度も使われる考え方として心に留めておきたい。
上の考え方を応用したのが例えば次のような考察である。
「しかし今さらKの前に出て」という表現からは、奥さんから話を聞いた(⑥)後、Kが自殺する(⑦)までに「私」はKと会っていないと考えられる、したがって⑥と⑦の間にそれほどの時間経過があるはずがない、と考えることはできないか?
これは2年前の授業でも出た意見だが、今年もいくつかの班から出た。
だがこれを決定的な根拠とすることはできない。
むしろ、⑥の後にKとは会っていると考えるべきなのだ。
奥さんはKのいないときを見計らって「私」に⑤の件を話したのだろうが、その後Kは帰宅して、「私」と夕飯を共にしているはずだ。それが日常なのだから。⑥が土曜だとすれば、その晩にKが自殺したのだから、Kが夕飯時に帰らなかったという特別なことがあれば、それこそ書かない方が不自然だ。
したがって、「私」はKが既に婚約の件について知っていることを承知の上で、夕飯の席でKの顔色を見ているはずなのである。
だがそうした場面は描かれない。といって、書かれていないから小説世界にそのようなものは存在しない、ということにはならない。あることが自然なことは、書かれていなくとも「ある」とみなすべきであり、特別なことは書かれていない以上「ない」とみなすべきなのだ。
もちろんこの「自然/特別」というのは程度問題だから、「ある/ない」の見做し方も程度問題である。奥さんから話を聞いた後で「私」がKと夕飯の席で顔を合わせるなどという想像だに緊迫した場面こそ「特別」なのだから、それこそ描かない方が「不自然」だと言えなくもない。確かにそれは書かれるべき必然性のある場面かもしれない。
実はこの問題の結論として、以下に述べる推論から、やはり⑥は土曜日だと考えられるのだが、とすると「土曜の晩でした」という限定の仕方は、不自然をおしてまであえてそう書く必然性があったことを示しているのである。
「土曜」という曜日の明示がなぜなされるのか?
これはなぜ曜日を土曜に設定したのかという問題と、なぜそのことを明示するのか、という問題を含んでいる。前者は作者とKの意図に係わる問題で、後者は遺書の記述の必然性に係わる問題である。
考えられることを列挙してみる。
まず作者の都合からいうと、翌朝が日曜日であることによって、奥さんや下女が早くに起きてこないことに必然性を与えているのだ、という理由が考えられる。
次にKの意図から言えば、自殺した自分の姿を、奥さんや下女ではなく「私」に発見してもらう可能性を高めたかったからかもしれない。
さらに語り手の「私」の視点から言うと、上の事情により翌日が日曜日であったことから、Kが自殺したのは土曜日の晩であったことが印象づけられて記憶に残り、遺書の中に記述されたのだと言える。
だがこのようにして明示された「土曜」は、⑥をそれ以前の日のどこかであると読ませるほどには強く作用していないと思われる。
それよりも強く⑥と⑦が日を跨いでいないと感じさせる理由は、先の引用と同じ、「私が進もうかよそうかと考えて、ともかくも翌日(あくるひ)まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。」という表現である。
どうしてここから、⑥と⑦が同日内の出来事であると言えるのか?
以下に授業中に提出された推論過程を列挙する。
1
「土曜の晩」でわざわざ時間帯を「晩」と明示することは、その陰でそれ以外の何かを「夕方」や「昼間」だと言っているように感じられる。つまり奥さんが「私」に話したのがその「夕方」や「昼間」だと言っていることになる。
これは先ほどの「⑥は土曜ではないのではないか」と同じ論理を、別の言葉に適用して使っている。⑦が「土曜の晩」というから⑥が「土曜」ではないのでないか、というのと同様に、自殺が「晩」というからこそ⑥は同じ土曜日の「夕方」や「昼間」なのだ、とも考えられるのである。
2
「ともかくも」という副詞は、それが当座の決定であることを示す。決定までに日を跨いでいたら「ともかくも」という表現は、今更何を、と感じられてしまう。だから逆に言えば、決定を迫られるような事態が生じた時点(⑥)から、まだそれほど時間が経っていないと感ずる。
3
「翌日」という時間経過を表す語は、その起点となる「本日」を必然的にかつ潜在的に前提する。それは筆者と読者に共有された認識のはずである。となればそれがどの日であるかわからないような時点を前提するのは不自然であり、即ち⑥のあった日が「本日」として定位される。それは「翌日」を迎えることのなかった土曜日に他ならない。
4
ここでいう「進もうかよそうか」は、「話そうか黙っていようか」である。この躊躇が二日に渡っていたとすると、今更「進む」と「よす」が等価な選択肢になるのはおかしい。そこまで既に「よ」しているのに、いまさら「よそうか」もない。「言う」ことの実行のみが「翌日まで待とう」という「決心」の内容となるはずだ。
以上、いくつもの推論を根拠として挙げることができる。このうちのひとつでも明晰に語ることができれば上出来である(授業中にそれを発表した人たちには大いなる拍手を送りたい)。
こうした細部が⑥から⑦にかけての時間経過が日を跨いでいないと読者に感じさせるのである。読者はこれらの細部を整合的に解釈して、⑥と⑦が同じ土曜日の出来事であると捉えているのである。
繰り返すが、これは答えるには難しい問いだ。正しく読むことより、自身の読みの生成過程を自覚することの方がはるかに難しい(実際に、上の推論の根拠のいくつかも、授業者には思いつかなかったのを生徒が指摘したものだ)。
さて、ここらで一度宣言しておく。
「曜日の特定」という課題は、このレベルの論理的推論とその説明を要求しているのだ、と。
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