2021年4月28日水曜日

ぬくみ 3 近代という問題

 具体的な手がかりとして、まず「『である』ことと『する』こと」と「ぬくみ」に共通する「近代」という言葉がどのような意味で使われているかを確認する。


 「『である』ことと『する』こと」における「近代」はもう充分馴染んでいるだろうか。

 165頁や169頁下段の記述から、「である」価値・論理から「する」価値・論理への移行を意味していると捉えられる。

 一方「ぬくみ」では次のように言っている。

「近代化」という形で、人々は社会のさまざまなくびき、「封建的」と言われたくびきから身をもぎ離して、自分が誰であるかを自分で証明できる、あるいは証明しなければならない社会を作り上げてきた。少なくとも理念としては、身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会を目指して、である。「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的コンテクストから自由な個人ということだ。

 「近代(化)」を共通項としてこれら二つの文脈を重ねてみる。

 何が言えるか?


 「封建的」な社会が「である」社会であることは「『である』ことと『する』こと」で述べられている。つまりそこにある「血縁・地縁」などの「くびき」「社会的コンテクスト」は丸山の言う「である」論理である。

 鷲田はそこから「身をもぎ離」すことが「近代化」だという。

 丸山の「『である』ことと…」の「近代化」は上記の通り「である」から「する」への移行なのだから、丸山と鷲田、二人の言う「近代」は一致していると見なせる。

 「身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも」という羅列は見事に「である」論理を列挙していて、それらに「囚われない『自由な個人』」とはつまり「する」論理にしたがって動く存在だということだ。

 「自由」が「する」論理に基づくことは「『である』ことと『する』こと」でも述べられている。つまり「自分が誰であるかを自分で証明しなければならない」とは「不断の検証・行使」が必要だということだ。


 さらに、「ぬくみ」から「する」論理・価値を表わす言葉を探そう。何か?

 勘の良い者はすぐに指摘した。「資格」や「条件」である。

 「である」論理から解放された「自由な個人」はむしろ「寂しい」。人々は「資格」や「条件」といった「する」価値を示し続けなくては社会に存在し続けることができない。それに疲れた人々は、むしろ「このままの」自分(223頁)=「である」価値を認めてほしいと思っている。


 整理してみよう。

である/する

 左辺から右辺への移行が近代化である。

    封建社会/近代社会

 血縁・地縁、身分・性・民族/個人

 社会的コンテキスト/個人

 これらは一対一対応になっているわけではない。大体左辺か右辺かが示されている、というくらいだ。

 さてこうして「する」化=近代化が生み出すのは、大規模にシステム化された社会だ。

 そこでは、個人は「資格」「条件」が求められる。

    /システム化

    /資格・条件

 これらはなぜ「する」論理なのか?

 説明のために「する」価値・論理の言い換えのバリエーションから適宜選ぶ。

 たとえば「機能」「業績」「実用の基準」「効率」などが想起されれば良い。

 「システム化」された社会は「実用の基準」に基づいて「効率」的に運用される「する」論理で動いているし、「資格」はそうした社会で個人が持つ「機能」のことだ。

 そうした「不断の検証」に疲れた人々は「このままの」自分を認めてもらうことを欲する。これは「『である』ことと『する』こと」の「それ自体」「かけがえのない個体性」などと対応される。

 「このままの」自分/

      それ自体/

かけがえのない個体性/


 「ぬくみ」は単独では対比が見えにくく、それが趣旨を理解しにくい原因のひとつなのだが、こうして「である/する」図式を援用することによって、鷲田の捉えている現代社会のあり方が対比構図にはまってくると、その主張が明瞭になる。


ぬくみ 2 読み比べる

 ところで「ぬくみ」とは何か?

 本文中には一度も「ぬくみ」という言葉が登場しない。

 とりあえず「ぬくみ」という単語はどういう言葉なのか?

 「甘み」と「甘い」という関係から「ぬくみ」は「ぬくい」という形容詞の名詞形であると推測される。「ぬくい」は関西圏で使われる傾向のある言葉で、関東圏にとっては「あたたかい」の方が馴染みがある。それを名詞化するならば「あたたかみ」あるいは「あたたかさ」であり、「ぬくい」も、「ぬくみ」よりは「ぬくもり」という名詞の方に馴染みがある。

 本文中に登場しないこの言葉を、先ほどの一文要約に使ってみる。

 既に作った文によっては操作は難しくない。「現代の人々はつながりを求めている。」を、そのまま「現代の人々はぬくみを求めている。」と言ってしまえばいいのだ。


 実は「ぬくみ」という文章は、教科書の2部の冒頭に収録されているからという理由だけで読み出したのではない。

 前項の通り、部分的に難しいと感ずるところはなく、なのにつかみ所のない文章だ。読解によって何かが明らかになっていくわけではないから、単体では取り上げる気にはならなかったかもしれない。

 だが、年度始めに取り上げる意義はある。読み比べには使える文章なのである。

 読みながら、それを想起していただろうか?


 お相手は「『である』ことと『する』こと」である。

 考え方の基本方針は了解されているか?

 本文から根拠を引用して、と指定すると、似た趣旨のことを言っていると感じられる箇所をそれぞれの文章から指摘する、というのがとりあえずの発想になってしまうが、それがなぜ似ていると感じられるかは、全体の論旨の中ではじめて納得される。

 したがって、考え方の基本方針は、昨年度の読み比べでもやったように、「である/する」図式に、「ぬくみ」の論旨を位置付ける、という方向で論を立てることである。

 「ぬくみ」のどこがどのように「である/する」図式に対応するのだろうか?


 それでもとっかかりが掴めなかったら、直截的な手がかりとして、共通する語彙に注目する。

 何を取り上げるか?


 もちろん重要な語彙、いわゆるキーワードでなければ手がかりにはならない。

 そうした条件にあてはまるのは「近代」という語である。


ぬくみ 1 主旨を捉える

 年度の最初はイレギュラーな形で「羅生門」の再読をしてみたが、ここからはレギュラーなサイクルで教科書や「ちくま評論選」を読む。

 一つ目は教科書の「第2部」の冒頭に収録されている鷲田清一の「ぬくみ」だ。

 鷲田清一の名に覚えがなければならない。

 可能な限り、前に読んだ文章は作者名とともに覚えておいた方が良い。次に読む時に、前に読んだことがある筆者の文章だと思えるだけで、なにほどか受け入れる態勢ができる。内容を覚えてあればなお良い。似たようなことを言っている可能性がある。内山節はどの文章でも大抵同じようなことを言っている。

 鷲田清一は入試でも再頻出の文筆家だから、ああ、あの人か、と思うだけでいくらか有利になることは間違いない。

 ところでどこで?


 昨年度第4回の一斉テストに出題した、「ある」と「いる」をキーワードにした文章2本のうちの一つ、「ある」には、相手を「所有」するという意味合いがあり、「いる」には相手に対する「問安」の姿勢があるという文章の筆者である。出題は早稲田大学。読みにくい文章だったはずだ。


 さて「ぬくみ」もまた、決して読みやすい文章ではない。だが一方で難しいことを言ってはいない、とも思う。なんだか焦点が定まらない文章だ。

 これは、この文章が明確な対比に基づいて論が進んでいないことと、明確な「問い」が立てられていないことによる。

 逆に言えば対比が明確だったり、「問い」が明確だったりすると、立論の枠組みが捉えやすいということでもある(それはすなわち簡単だということにはならないが)。

 だから、ぼんやりした印象の文章には、こちらから対比を探したり、問いを立てたりすることが有効なのである。


 ところが、さらに「ぬくみ」では対比を探すことも問いを立てることも容易ではない。対比も問いも、明確には語られない。

 となると、この文章が何を言っているかを捉え、そこから遡ってそれが何に対比されているのか、どんな問いに答えているのか、と考えるしかない。


 そこでもう一つのメソッドは「要約」だ。

 条件をつけよう。単文の一文、5文節以内。

 シンプルな形にするのは核心部分を捉えるためであり、それだけ頭が整理される。情報量が少ないと使い回すのに便利だ。


 こういう時はまず主語を決める、というのが迷ったときの一つの方法だ。

 大抵は主語が想起されているときには、述語も同時に想起されている。何らかの述語で受けられそうだという見込みがあるから主語として有効だろうと見当がつくからだ。

 主語と述語が決まったら、そこに最低限必要な補語(形容句や目的語、条件節など)を補う。


 皆、だいたい同じ文になるんだろうと予想して聞いてみると、意外なほどバリエーションに富んだ文になった。そしてそれぞれ、本文の主旨を的確に捉えているように感じる。

 厳密に言えばその要約文の適否についての評価に差をつけることもできるのかもしれないが、要約の要諦は、要約する、という頭の働きにあるのであって、要約文の適否は二の次だ。よほど見当外れでない限り、それぞれ良い、といった反応をしておいた。いや、実際にどれも的確だったのだ。


 授業者の想定していた文も紹介する。

現代の人々はつながりを求めている。

 ほぼこれと同じ文を考えている人は勿論いた。だからといって唯一の「正解」だというわけではない。

 たとえばここから対比問いを立てることもできないわけではない。

 「つながりを求めている」というのは、「つながりがない」ということを言っているのだから「つながりがある/ない」という対比になっているのだとはいえる。

 だがこの文章は殊更に「つながりがある」状態を対比に用いて、「つながりがない」状態を明らかにしようとはしていない。「ある/ない」の対比はあまりに自明な対比であって、あらためて論ずるようなことではないからだ。

 では問いは?

 上の要約が答えになるような問いなのだから「現代の人々はどうなのか?」といったところだろう。

 だがこれも立ててみればあまりに自明で、答えから無理矢理立てた問いに過ぎない。


 当然「現代人はなぜつながりを求めているのか?」と問いたくなる。だが、この文章から、この問いに対する明確な答えを抽出することには、少々のハードルがある。

 あるいは「つながりを求めているとどうなるのか?」といった問題意識も見てとれる。とりあえず「つながりを求めている」という現状を指摘した上で、それがどのような問題につながるかを考察しているのだ。だがこれもまた明確な答えを抽出するのは容易ではない。

 とはいえ、どちらも鷲田にはその問題意識はあるはずだ。それを読み取るためにはまた別の問題設定が授業には必要である。


2021年4月23日金曜日

羅生門 11 主題

 以上のような授業者の結論は、先にも言ったように、ここまで述べてきたような問題設定に基づく論理の積み重ねによるものではない。発想は、ある時に突然、結論として降りてきたのだった。下人のうちに最初に燃え上がった⑤の「憎悪」の描写が表しているものを何とか言葉にしようと考えているときに不意に、下人が最初「悪」に踏み出すことを躊躇ってのはそのせいだったのだと気づいたのだった。それが「観念としての悪」「幻想としての悪」という表現として形になった時、「行為の必然性」に至る論理、「羅生門」の主題へと結びつく論理が拓けた。

 だから「なぜ勇気が出なかったのか?」という問題設定は、本当は解答から遡って設定された架空の問題だ。

 だがみんながそれを意図的に考えるには、考えるべき問題が何なのかを明らかにする必要がある。「なぜ引剥ぎをしたのか?」が解き明かすべき謎であることは考えてみればすぐに皆に共有される問題でもある。最終的な到達地点がどこなのかを見据えた上で、そこにいたる道筋をみんなで辿る。

 授業とはそうしたものだ。結論の提示や、その理解が重要なのではなく、そこに到る道筋を、周りの皆と、ひたすらテキスト情報を検討し、論理を構築することで辿る過程こそが学習なのである。


 二点つけ加える。

 「羅生門」の読解においてはこれまでも、下人の頬の「面皰」が解釈の対象とされてきた。このことはいくつかのクラスで問題点として提案された。

 この「面皰」は、いうまでもなく象徴だ。面皰という具体物は、何らかの抽象概念を表わしているとしか読めない。

 これをどのような象徴であると解釈するかは、「羅生門」という小説をどのような小説であると解釈するかということと整合的でなければならない。

 「エゴイズム」論によれば、面皰が象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人は良心を棄てて、悪にはしったのだ。

 そして先の結論によれば、面皰はそのまま「空疎な観念」(=幻想)の象徴だということになる。

 頬に面皰をもつ下人は「空疎な観念」に支配された人間であり、その象徴たる「面皰」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかないのである。

 また「面皰」を「若さ・未熟さ」の象徴であると見なす解釈も古くからある。これは「エゴイズム」論とセットだったから、つまり、古い道徳を棄ててエゴイズムを受け入れることこそが人間の成長だといっているのである。

 だが「空疎な観念」こそ「若さ・未熟さ」の特徴だ。現実を正しく認識せずに幻想の中で希望を抱いたり絶望したり憤ったり悲しんだりすることこそ若者の特権だ。

 その意味で、面皰から手を離すことは、やはりある種の成長を意味しているのである。


 現在我々の目にする末尾の一文「下人の行方は、誰も知らない。」はどう受け取ったらいいのか?

 その不確定な未来にひらかれた余韻を味わう以上に、徒らな解釈をすべきだとは必ずしも思わない。

 ただ、「下人の行方」に待ち受ける「黒洞々たる夜があるばかり」の闇もまた、幻想の潰えた後の苦い現実認識を示しているのだろうか。


 引剥ぎという「行為の必然性」は、それを容認する「老婆の論理」によって保証されるわけでも、「極限状況」の深刻化によって保証されるのでもなく、ただその行為を阻んでいた幻想が消滅することによって生じている。というよりむしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自ら確認している、と言うべきかもしれない。

 引剥ぎという行為は現実的な実用性に基づいていると同時に、それが他ならぬ老婆に向けられることで、下人の現実認識を宣言するための象徴的な行為になっているとも言える。


 このような読解による「羅生門」とはどんな小説か。「羅生門」の主題とは何か。

 これはいわば、空疎な観念による幻想から覚めて卑小な現実を認識する話、である。


羅生門 10 結論の提示と最終考察

 なぜ物語の最後で下人には盗人になる「勇気が生まれてきた」のか?

 この疑問を解く鍵は、むしろなぜ始まりの時点では「勇気」がもてなかったか、を考えることにある。

 最初の時点で拮抗していたa 正義b 悪のバランスは、途中完全にaに傾く。

下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう

そして最後には完全にbに傾く。

飢え死になどということは、ほとんど考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 最初の拮抗がこのように極端にバランスを変えるのはなぜか?


 aとbが拮抗しているといっても、現状のままでは「飢え死に」をするのだから、つまりデフォルトはaだ。ということは、なぜbに進めないかが問題である。

 そして先に言及したとおり、最初の時点でbに進めなかった理由として、aの引力が強かったからという以外に、bの抵抗が強かったから、と考えてもみる。

 盗人になることを妨げていた下人の「a 正義感」が力を失ったことで盗人になれたのか?

 「b 悪」に対する抵抗が弱まったことで盗人になる「勇気が生まれてきた」のか?

 いずれにせよ、これを「老婆の論理」によって説明しようとするのが従来の「エゴイズム」論だ。

 だがこれから提示しようとしているのは、下人の奇妙な「心理の推移」こそがその変化を引き起こしたのだ、という論理である。

 どのような論理か?


 結論はこうだ。

 下人が「勇気」をもてなかったのは―「悪」に踏み出すことをためらっていたのは―下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば観念としての「悪」である。


 観念?

 これはおそらく高校生の生活にはない語彙だ。

 勿論、言葉としては誰しも聞いたことがあるだろう。だが問題は、この言葉がどのような場面で、どのような意味合いを帯びて使われる言葉か、ということだ。「語彙」というのは「知ってる言葉」ではなく「使える言葉」だ。

 こういう時は、例によって対比の考え方を用いる。

 「観念」の対義語は?

 むしろ「観念」という形容で考えてみるとわかりやすい。

 「観念の対義的な形容は「現実である。

 つまり「観念」とは、頭の中だけに存在する、現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉なのだ。


 この結論に基づいて、ここまで考察してきた問題を捉え直してみよう。

 物語の冒頭、門の下で下人の頭にあったのは観念としての、幻想としての「悪」であった。

 冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。

 最初にそのことが読者の前に示されるのは、「憎悪」の描写を通してである。この描写を検討し直してみよう。

 先ほどの分析によって明らかになった⑤「憎悪」の特徴を確認しよう。


 「憎悪」の対象が一般化されていること、にもかかわらず短絡的に断定されていること。

 下人の認識に根拠づけられた明晰性がないこと、にもかかわらずその情動が過剰であること。

 そして読者にも理解できるような常識的な判断の余地を残しながらあえてそれを否定していること。

 さらに「憎悪」を引き起こした事態が解決していないのに、その後で急速に冷めてしまうこと


 「憎悪」のこのような性質は全て、対象となる「悪」が観念的であることを示している。それは「現実的ではない」ということだ。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。

 「むしろ、あらゆる悪に対する反感」という「憎悪」の一般化、抽象化は、「憎悪」の対象が具体的ではなく、実体のない幻想としての「悪」であることを表している。

 「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」も、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。「勿論、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、冒頭の問題設定がそもそも観念的だったからである。「忘れる」ことは「勿論」だ、というのは、現実に依拠してない難問を、下人が頭の中だけで弄んでいたことを示している。

 下人は、幻想としての「悪」という観念に対して憎悪の炎を燃やしている。

 だからこそそれは、過剰になりやすい。観念は現実から遊離しているがゆえにしばしば激情を誘発する。イデオロギー闘争が激化しがちなのは、イデオロギーが「観念」的だからである。

 例えば、戦争における「敵」もまた、観念によって膨れあがった幻想なのだろう。太平洋戦争における「鬼畜米英」のキャンペーンも、イスラム社会がテロを「聖戦」と呼ぶのも、戦争においては、殲滅すべき敵を現実存在以上のものとみなす必要があるからだ。


 下人の「憎悪」の激しさもまた、その対象が観念的だからだ。⑥の、老婆を取り押さえる時に下人を支配する「勇気」は、観念に支配された者の蛮勇である。

 観念としての「b 悪」が幻想で膨れあがるとき、それに拮抗する「a 正義感」もまた釣り合いをとるべく膨れあがる。それは内実を伴わない空虚な泡である。下人の「憎悪」は空疎な正義感を燃料として燃え上がる。


 続いて「得意と満足」がおとずれる。ここでもまたその変化は、理由が明らかになる前に生じている。つまりこれらの心理は、対象の善悪についての現実的・合理的な判断に基づいていないのである。その「満足」は、事態の根本的な改善には何ら関係のない自己「満足」だ。

 現実に依拠していない激情は熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から空虚な幻想だったからである。


 「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」というのは、つまり髪を抜くという行為に何か禍々しい理由のあることを期待していたことの裏返しにほかならないが、これも、下人が「憎悪」を抱いていた「悪」が、幻想として膨れあがっていたことを示している。

 「悪」が現実的な、卑小なものであることがわかると、幻想に拮抗して膨れあがった自らの「正義」が萎んでしまって、下人はがっかりする。自分が正義であると信ずることは快感だったのだ。

 そして浮上してくるのは再び⑧「憎悪」である。⑤がふくれあがった幻想としての「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、⑧の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」である。悪は「憎悪」の対象であるとともに「侮蔑」の対象にもなったのだ。先ほどの⑤と⑧の「憎悪」の比較によって確認された共通点と相違点は、すべてこうして説明できる。

 そうした下人の変化が分かっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。老婆の語る「悪の容認の論理」が下人に口実を与え「勇気」を生んだわけではない。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めて(醒めて)いく(老婆の話を「冷然として」聞く)。


 下人の現状認識は最初から観念的だった。

 「極限状況」もいささか観念的にとらえられているが、同時に現実の問題でもある。

 それよりも「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定こそ観念的なのだ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するような「問題」は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのである。

 老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。

 「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認である。ここに付せられた「嘲るように」という形容は、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲である。

 つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられているのである。


2021年4月20日火曜日

羅生門 9 -「勇気」を持てなかったのはなぜか

 下人の「心理の推移」が、どのような論理によって引剥ぎという「行為の必然性」を導き出すのか?


 だがこれは依然として解答の難しい問いだ。

 そこで「心理の推移」と「行為の必然性」を結びつけるために、問いを変形する。

 「なぜ引剥ぎをしたのか?」という問いには、直前の段落から「~から」の形で答えられる一節が探し出せる。どこか?


 「勇気が生まれてきた」である。もちろんこれは「盗人になる勇気」だ。⑤「憎悪」から⑨「冷然と」までの「心理の推移」は、直接には下人の心に「盗人になる勇気」を生んだのである。それが「引剥ぎ」という「行為」に結果する。

 したがってまずは問いを「なぜ『勇気が生まれてきた』のか?」と置き換えよう。


 奇妙な心理の推移の果てに、この「勇気が生まれてきた」という帰結がある。

 だがそれはなぜかと考えることは依然として難しい。

 実は授業者にとっても、そのような問題設定から始めて、後に述べる結論に至ったわけではない。手の内を明かせば、「心理の推移」について分析しているうちに不意に授業者が「わかった」と思ったのは、「勇気が生まれてきた」理由ではなく、冒頭で「勇気が出なかった」理由だった。

 そこでさらに問いを変形する。

⑩「勇気が生まれてきた」のはなぜか?

ではなく、

②門の下で「勇気が出なかった」のはなぜか?

と考えるのである。

 そして「出なかった」理由の解消こそ「生まれてきた」理由である。


 ここからの議論のために問題を整理しておこう。

 門の下で下人にあった②「迷い」とは何か?


a 飢え死にをするb 盗人になる

という選択肢の間に揺れる逡巡である。

 この選択はどのような論理の対立か?

 従来の主題設定からすれば

a 正義b 悪

あるいは

a 良心・倫理b 利己心・エゴイズム

だろうか。

 このとき、bを選ぶ勇気が出ないのはなぜか?


 従来の主題把握に拠れば、「b 悪」を選ぶことを肯定する「老婆の論理」をまだ持っていなかったから、ということになる。

 だが老婆が語る理屈は下人にも既にわかっていたことだ。わかっていてできないでいたことを、単に開き直っていいと言っているだけの口車に乗って、その真似をして引剥ぎをすることに、大仰な主題を想定するのはばかげている。

 もう一つ、下人はまだ自分の置かれた状況を真剣には考えていなかったからだ、という理由も考えられる。つまりまだそれほどお腹が空いていなかったのだ。

 勿論そんなふうに読むこともできない。そのように考えるならば、この小説は、自らの置かれた「極限状況」を自覚して、それに対峙する話、ということになる。つまり、小説内で徐々に下人を飢えさせ、焦燥感にかられるように進行しなければならない。だが先述の通りこの小説にはそのような過程は描かれていない。


 bを選べないのは、aの引力が強いから、というのが自然な論理だ。つまり、なぜ「勇気」を持てなかったのかといえば「正義感・良心・倫理感」が強いから、ということになる。これは⑤の分析とも合致する。⑤の悪に対する激しい「憎悪」は下人の正義感の強さの表れなのである。

 だがこうした解釈は、⑦「安らかな得意と満足」や⑧「失望」との間で強い違和感を生ずる。老婆の行為がどのような意味で「悪」なのかが明らかにされていないのに、それを問うことなく取り押さえただけで「安らかな得意と満足」を感じるのは「正義」か。「鬘にしようと思った」という「平凡」な答えよりもっと「非凡」な、「許すべからざる悪」を期待するのは「正義感」か。


 では何がbを選ぶことを下人に躊躇わせているのか?

 この機制を解き明かす鍵は、授業者の想定によれば、先ほどの⑤「憎悪」の分析である。

 分析された「憎悪」の描写の特徴は、下人の「憎悪」がどのようなものであることを示しているか? それはすなわち、その対象となる「悪」を下人がどう捉えていることを示しているか? そうした認識と下人が「勇気」を持てなかった理由とはどのような論理をなしているのか?

 大詰めだ。


羅生門 8 不自然な心理たち

 下人の心理の推移を追う。

 老婆の行為を目撃した下人の心には、奇妙な⑤「憎悪」が燃え上がる。

 その描写はいかにも不自然だ。

 この不自然さは、「合理的には、それ(老婆の行為)を善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」という作者による客観的な分析と、「激しい」「松の木切れのように、勢いよく燃え上がり出していた」という強調が衝突することに因る。「憎悪」に充分な合理性がないと言いつつ、それが不自然なほど過剰に「激しい」と形容されているのである。

 さらにそれが「あらゆる悪に対する反感」と急に一般化された上で、分からないにもかかわらず「それだけですでに許すべからざる悪」と決めつけられている。焦点はぼかされ、一般化され、短絡的に断定される。

 この、矛盾する方向性が、この「憎悪」を奇妙なものに感じさせている。


 さて、そうした「憎悪」から湧き起こる⑥「勇気」によって、下人は老婆を取り押さえる。

 その後におとずれる⑦「安らかな得意と満足」もまた不自然である。

 なぜか?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。

 説明はされている、にもかかわらずちっとも腑に落ちない。

 まず、そんな場合か、と思う。この脳天気さはどうみても「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 そしてこれは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「雨の夜に」「羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが根拠になるのかが読者にはわからない。読者にわからない根拠が、わざわざ挙げられている。

 さらに問題なのは⑤の「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問が解消する前にこの「満足」が訪れているという点である。

 これもまた、「憎悪」の分析の際の、老婆が「悪」であると判断する合理的理由はないことと対になっている。「理由」がわからずに生じた「憎悪」は、その「理由」についての疑問が解消する前に消滅する。

 ということはつまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということである。

 このことが意味するのは何か?


 次の⑧「失望」も勿論不自然だ。

 ここでは、この記述を反転させてみる。「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを期待していたことになる。

 なぜ下人は「非凡」な答えを期待するのか?


 またこの時再び「憎悪」が浮上してくる。

 ここでは⑤と⑧の「憎悪」の共通点相違を確認しよう。

 まず、共通点は?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、⑤の「憎悪」を受けていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だが、分析を求めると、どうも相違点ばかりが挙がってしまう。

 では相違点は?

 ⑤が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、⑧は老婆という限定した対象に向けられている。それは⑤が、老婆の行為の理由が分かる前に生じた「憎悪」であるのに対し、⑧は、わかってから生じた「憎悪」であるということによる。

 対象が不特定か特定か。

 また、⑤が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、⑧の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」。

 こうした差異は何を示しているか?

 では、共通点は?

 「また前の」という形容をつけて⑤との共通点を示しているのは、⑧もまた「悪に対する憎悪」にほかならないということを強調するためである。

 共通点に基づく比較によって浮かび上がる相違点。相違点を超えて確認されるべき共通点。

 これもまた「行為の必然性」を説明する論理の中に適切に意味づけられなければならない。


 ⑨の「冷然」は⑧の「冷ややかな侮蔑」を引き継いでいると考えられる。

 そして⑩の「勇気」こそ「羅生門」読解の焦点なので、この考察は後に譲る。


 ⑪「嘲るように」「咬みつくように」は?

 「嘲る」が⑧の「侮蔑」と響き合っているように感じられることは認めていい。

 こうした形容に見られるのは、老婆に対する不快感だろうか。敵意だろうか。いずれにせよ、そうした形容が付される論理を、引剥ぎという行為に及ぶ必然性の中に位置づける必要があることを意識しておく。


 以上のような「心理の推移」を最終的な「行為の必然性」、つまり「主題」に結びつける論理が必要だ。右に見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。

 「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。

 とすればその論理とは何か?


羅生門 7 不可解な「憎悪」

 「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出さねばならない。


 まずは実際に、下人の心理の読み取れる表現を、物語の時系列順に本文中から挙げてみよう。


①「Sentimentalisme」(→「憂鬱・感傷」など)

②「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」(→「迷い・逡巡」など)

③「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」(→「慎重・不審・緊張」など)

④「六分の恐怖と四分の好奇心」

⑤「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」

⑥「(悪を懲らしめる)勇気」

⑦「安らかな得意と満足」

⑧「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」

⑨「冷然と」

⑩「(盗人になる)勇気」

⑪「嘲るように」「咬みつくように」(→「老婆に対する反感・敵意」など)


 ②や③は描写や形容から浮かび上がる心理を、適宜言い換えてある。

 また⑥の「勇気」は該当箇所の本文中にはない語だが、後から「さっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕らえたときの勇気」と語られる「勇気」を時間順の位置においたものだ。


 この「心理の推移」を追う過程で、どんな考察がなされるべきか?

 ④の「恐怖・好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが素直に納得される心理だ。

 問題は⑤の「憎悪」からである。この「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。

 解釈を言葉にするのは容易ではない。だが取り組む意義はある。授業者の見通しによれば、この部分の考察こそが「羅生門」理解の鍵となるからだ。


 この部分の考察にあたって「なぜ憎悪が湧いてきたか」と考えるのは難しい。そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいるからだ。自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。単に「わからない」という結論が出てしまってそれきりになる。

 「憎悪」をめぐるあれこれの描写や形容を分析せよ、とは言いたいのだが、「分析」というのが何を考えることなのかは明らかではない。

 こう考えてみよう。

 読者が感ずるこの不自然さはどこから生じているか?

 皆、おかしいとは感じているはずだが、どこがおかしいのか?


 分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。これができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件だ。「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げるよう求めているのだ。

 そしてこの「憎悪」の不自然さは、いくつもの要因から成り立っている。ただ一つの理由によるのではない。複数の要因を列挙する必要がある。

 「憎悪」の「おかしさ」として各クラスで挙がったのは次の諸点。

・激しすぎる。過剰

・対象がなぜか一般化する。

・自分が被害者でもないのに憤っている。

・自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。

・老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。

・「勿論」が二度使われているが、何が読者に了解されるべきなのかわからない。

 さらにこうした特徴は、相反する方向性をもっている。

 対象の一般化自分が害を受けないことや理由の不明は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれない。そうした納得がない。

 だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。


 こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。


 下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。 

 といって完全に「わからない」というだけではない。「わからない」と納得していいのだ、といった形で「わかる」ことができるわけでもない。下人の「憎悪」を、読者はそれなりに推測して、そこに一定の納得をするからだ。

 下人が老婆の行為を「悪」と決めつけるのはどのような理屈によるのだと読者は考えるか?

 死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか?

 とりあえず読者はどう理解しているのか?


 「盗みだから」ではない。本文には「下人には、勿論、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。

 あるいは「下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけですでに許すべからざる悪であった」とあるから、「雨の夜に」「羅生門の上で」が悪いことの根拠なのか?

 だがこれがなぜ悪いことだと判断できる根拠になり得るのか、読者にはわからない。

 ではとりあえず読者としてはどのように理解しているのか?


 おそらく読者はここで下人が老婆を「悪」と決めつけるのは、死体の損壊を、死者への冒涜のように感じているのだろう、というように納得している。

 だがそれで素直に腑に落ちはしない。そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか、羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか、そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に引き起こす。

 だからこそ、ここには「極限状況」などない、と言えるのだが、作者はそうした不自然さを充分承知の上でそのことを読者に明言してみせる。

従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。

 つまり下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような「死者への冒涜」といった理屈にさえ依拠していないのである。

 挙げ句に「雨の夜に」「羅生門の上で」などというわけのわからない根拠を殊更に挙げてみせる。

 つまりここでの下人の「憎悪」は、全く理解することができないものとしてのみ描かれているのではなく、半ばは納得の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定されているのである。

 読者は居心地の悪い宙吊り状態におかれる。


 この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感しにくいという意味でも不自然だが、それだけではない。こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがにわかにわかりにくいことが、この部分を「不自然」と感じさせているのである。下人の心理が不自然である以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことこそ「不自然」なのである。


 ここまで考えておけば、あらためて「なぜ下人の心には憎悪が湧いてきたか?」と問うてもいい。

 この「憎悪」の描写から、「行為の必然性」を導く機制はいかにして見出されるか?

 この「憎悪」の描写から、読者は何を読み取るべきなのだろうか?


2021年4月16日金曜日

羅生門 6 「心理の推移」を追う意味

 「極限状況」と「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えられないとする根拠を、それぞれ「論理的強度」という言葉で説明した。

 一般的な解釈は、確かにわかりやすい。むしろあまりにわかりやすいとも言える。その意味では、論理的整合性はある。

 だが、強度が足りない。引剥ぎという行為の意味について、確かにそうだと感じられる説得力がない。

 それだけではない。こうした論理による「行為の必然性」に納得しがたい理由は他にもある。

 その、最も大きな根拠は何か?


 誰もが「羅生門」を読むと、その異様なまでに詳細な心理描写に違和感を抱くはずだ。

 執拗に描写される下人の心理は、その一つ一つに共感できないばかりか、にわかには理解しがたい飛躍によって急変する。

 こうして描写される「心理の推移」には何の意味があるのか?

 以前書いたように、小説に書かれていることには必ず意味がある。特別な意味はない、という「意味」でさえ、そう確定されるまでは、それは「完全な」解釈にはいたっていないということだ。

 まして「羅生門」の異様な心理描写が特別な意味を持たないなどとは、到底納得できるものではない。


 「羅生門」における下人の「心理の推移」は、一般的にも「羅生門」の主題としてたびたび語られてきた。

 ところが一般的な「エゴイズム」論的「羅生門」把握では、「極限状況」と「老婆の論理」を短絡させてしまえば、それだけで下人の「行為の必然性」は説明されてしまう。

 そこに「心理の推移」が意味するものは組み込まれておらず、宙に浮いている。

 これが、従来の「エゴイズム」論が「羅生門」という小説を適切に捉えているとは思えない最大の理由だ(このことを正しく指摘したA組Oさん、G組Oさん、E組T君、とても鋭い)。


 それどころかむしろ「心理の推移」を丁寧に追うほどに、それは「極限状況」+「老婆の論理」=「行為の必然性」論との齟齬を明らかにするはずだ。

 例えば、悪に対する憎悪にかられるのは、はっきりと「極限状況」と論理的に矛盾する。本当に「極限状況」に置かれているなら、悪に対する憎悪など生じたりする余裕はないはずである。

 「勿論、下人は、さっきまで自分が盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。」という一節には、はじめの問題設定である選択の前での迷いが、実はまるで拮抗していないことが、図らずも露呈している。というより、「極限状況」があっさり念頭から消え去ってしまうことを「勿論」と言い放つからこそ、作者には「極限状況」を描く気はないのだと考えるべきなのである。

 ではなぜ迷いが念頭から消え去ることは「勿論」と言うべきことなのか。この部分からは、この「勿論」から導かれる論理を読み取る必要がある。だがそれは決して自明なことではない。

 あるいは、老婆を捕らえて「ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな得意と満足と」に浸る姿の脳天気さも、どうみても「極限状況」に置かれている者の切迫感とは相容れない。

 「心理の推移」を丁寧に追うほどに、「極限状況において露呈するエゴイズム」などといった大仰な主題把握が、小説本文の細部を無視した図式的なものであることが明らかになってくる。


 わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、可能なのは、下人のその不安定な心理こそが、根拠の貧弱な「老婆の論理」を鵜呑みにして引剥ぎをさせたのだ、と「行為の必然性」を説明する立論である。

 こうした論を立てるならば、主題は「人間の心理は移ろいやすく不安定だ」とでもいうことになる。さる大御所は「善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿」と言う。これは「人間存在の悪」を描こうとしているのだ、という「羅生門」把握を相対化してしまう。「悪」もまた移りゆく一過程となる。

 確かに、推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえる。

 だがそれでは、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は逆に、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたまある時点でそちらに傾いた、ということになるのだから。そのような人物は、次の瞬間にはまた、自分の行為を反省して恥じるかもしれない。

 だが「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手を面皰から離して」引剥ぎをする下人の行為には、何かしら、この物語における決着点を示しているという手応えを感ずる。それは、途中に描かれる心理のような「推移」の一過程とは違う、この物語の主題に関わる決着点であるという感触である。それは「不安定な心理」説とは相容れない。

 したがってこれもまた一つの「羅生門」理解のための小手先の理屈に過ぎない。


 「極限状況」と「老婆の論理」に「行為の必然性」の根拠を求める従来の「羅生門」理解では、「心理の推移」を追うことは、無意味どころか、そうした作品把握と矛盾するはずである。

 一方で詳細な心理の描写には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずである。

 そう考えると、老婆の長台詞に至る前までの「心理の推移」こそが「勇気」を生んでいるのであって、老婆の言葉は、単なる時間経過のBGMとまではいわなくとも、最後のだめ押しくらいに捉えればいいということになる。

 おそらくそれが論理的にバランスの良い「羅生門」解釈なのだ。

 「心理の推移」が「行為の必然性」に決着する、どのような論理を考えなければならないか?


羅生門 5 「老婆の論理」の嘘

 次に「老婆の論理」を検討する。

 まず「老婆の論理」を前項の2「悪人に対する悪は許される」と見なす解釈ではどうか?

 これは1「生きるための悪は許される」という、直球ど真ん中の解釈に比べると、いくぶん変化球でコーナーをついている。

 だがこれは狙い過ぎてボールになっている。

 なぜか?


 まず、2の主旨を採ると「極限状況」との関係が不明になる。「悪人に対する」などという限定をしてしまえば、相手が悪人であるかどうかを確認してからでないと引剥ぎをできないことになる。相手を選ぶ余裕があるのなら、追い詰められた「極限状況」という前提と論理的に矛盾する。

 じゃあそもそも「極限状況」に拠らずに「行為の必然性」を考えてしまえばいいのでは?

 つまり、下人が老婆の着物を剥ぎ取るのは、老婆の言葉を老婆自身に投げ返すことで、そこに潜む「エゴイズム」を断罪しているのだ…。

 これはなかなか魅力的な解釈だ。引剥ぎの直前に見せる下人の態度は、こうした解釈にふさわしいようにも思える。

 だが、こう考えると、物語の主人公はむしろ老婆ということになってしまう。自らの利己的自己正当化の論理によって逆に自らがしっぺ返しをくらう物語として「羅生門」を捉えることになるからだ。星新一や「ドラえもん」によくあるアイロニカルな因果応報譚。

 そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。


 それに、これでは結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。

 引剥ぎをするにあたって生まれてきた「勇気」とは「さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と明確に書かれている。これはこの行為が冒頭の迷いに対する決着であることを示している。単に老婆の論理を老婆に投げ返したのだという説明は、小説全体の把握と乖離している。

 つまり2は老婆の自己正当化を支える口実になってはいるだけで、そこには確かに「エゴイズム」の気配はあるが、「羅生門」という小説の核心である下人の「行為の必然性」を支える根拠にはなっていないのである。


 では王道、1「生きるための悪は許される」と「極限状況」を結びつけ、そこに「生きるための悪」=「エゴイズム」という主題を見出す解釈はどうか?


 既に「極限状況」が描かれていないことから、これが「行為の必然性」を支えるという論理は破綻している。

 それだけではない。よく考えてみると、そもそも老婆の語る論理が勇気を生んでいるという因果関係には、実は納得できるほどの根拠はない。

 老婆の語る論理は、物語の冒頭、下人が羅生門の下で考えていた次のような認識とどう違うのか。


この「(飢え死にしないために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。


 老婆の認識は、それを聞く以前から下人が理解していた状況認識と変わらない。「(生きるために悪を肯定する)よりほかにしかたがない」という文言は下人の思考に既に見られる。わかっていてできなかったのだ。老婆が何かしら下人の知らなかった認識や論理を語っているわけではない。


 勿論自分でわかっていて動けなかったことでも、他人の言葉で聞くと動けるようになるということもある。あるいは他人の言葉を免罪符として、実行しにくい行為に踏み切ることもある。

 では、そうした心理を描くことを主題としているのだと解釈することはできるだろうか?

 こうした心理を描いているのだという解釈は、むしろ近代的自意識の産物としての「エゴイズム」主題論には馴染みがいい。


 だがこれを「行為の必然性」と見なすことにはやはり不全感がある。

 仮にそのような心理を示したい小説であるならば、最後の引剥ぎの直前に、老婆の語ることに対し、そのことは既に自分もわかっていたことだという認識を下人に語らせるはずである。そうでなければ読者にはこうした心理が「行為の必然性」を支えているという小説の主題の在処が伝わらない。

 実際、下人が老婆の論理をどう受け取ったのかは判然としない。そんなことはとうにわかっていたことだと、下人は感じたのかどうか。

 引剥ぎ直前の言葉からすると、むしろ下人は先の2「悪人に対する悪は許される」の方にこそ反応しているようにも見える。だがそれは上記の通り、下人自身の問題に対する答えにはならない。


 老婆の言葉の、何が下人を動かしたのか、実はよくわからない。

 にもかかわらず「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えるとする論理を組み立てなければならないという要請から、こうした理屈が生み出されている。

 これは因果関係が転倒している。なるほど老婆の言葉は下人に引剥ぎをさせる論理を備えていると感じられるからそこに「行為の必然性」の根拠を見出しているのではなく、そこに根拠があるはずだと考えるから、その論理を捻り出しているのだ。

 なぜそのような要請があると感じられるのか?

 「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えているという解釈は、疑われることのない大前提として一般に共有されている。

 なぜか?


 老婆の長台詞の後に「これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」と書いてあるからである。

 この明白な一文の存在は否定できない。老婆の長広舌の静聴と「勇気が生まれてきた」の間に因果関係があることは疑いの余地がないように見える。世の中の全ての「羅生門」論は、「老婆の論理」を―肯定的にであれ否定的にであれ―「行為の必然性」を支えるものとして前提している。

 この論理を否定することは難しい。実際に別の論理を提示することでしか、この因果関係を否定することはできない。

 だが、この時点で考えられる抜け道を示す。


 次の二つの表現はどう違うか?

これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

これを聞いて、下人の心には盗人になる勇気が生まれてきた。


 「これを聞いて」は、老婆の言葉が以下に続く「勇気が生まれてきた」の原因であることを示している。つまり老婆の言葉は引剥ぎをすることの根拠になっているのである。

 だが原文の「これを聞いているうちに」は、言葉通りに解釈すれば、「勇気が生まれて」くる間の時間経過を示しているだけだ(D組のKさんの言葉を借りれば、この場合は老婆の言葉がBGMのようなものであってさえ構わないということになる)。

 一般的な「エゴイズム」論は、「これを聞いているうちに」を無自覚に「これを聞いて」と言い換えているのである。「老婆の論理」と「行為の必然性」の間にある因果関係は決して疑われることはない。

 だがそうした因果関係があると本当に見なさなければならないのか? 文字通りの時間経過を表わしていると考えることはできないのか?


 ともあれ「老婆の論理」は下人にとって新しい認識ではないにもかかわらず、それが「行為の必然性」を支えているはずだという前提があるから、こうした解釈が小説から離れて人工的に考えられているのである。


 だが授業者にとって、こうした「通説」が腑に落ちない最大の理由は、こうした解釈が面白くないからだ。

 生きるための悪を肯定する、などという認識を芥川がこの小説によって表現しているとは到底思えない。そうした主題を想定しているとしても、それがおよそこのように説得力のない形で作品として成立するはずだと考える作者がいるなどとは到底信じられない(だからといって、こうした通説を信奉する人々が、「羅生門」を失敗作だと捉えているわけであるまい)。

 それでも、下人が引剥ぎをすることの必然性は読者にわからなければならないはずである。芥川はその論理を意識的に作品に書き込んでいるはずである。その信頼がなければ「羅生門」を読むことはできない。

 その論理とは何か?

羅生門 4 「極限状況」の嘘

 「羅生門」の読解において、「行為の必然性」と、そこから導かれる「主題」を結びつける論理を、まずは一般的に通用している理解に基づいて確認した。

 これに納得できるのなら読解は別の切り口で行われるべきだ。例えば作品成立の背景を探るとか、いわゆる「鑑賞」をするとか。

 だがそもそも、こうした通説に落ち着くつもりがないから、わざわざ「一般的な」などと言っているのだ。

 こうした通説にはなぜ納得できないか?


 都を襲う災いの余波で職を失った下人は、確かに「極限状況」に置かれているようにみえる。「(手段を)選んでいれば、築土の下か、道端の土の上で、飢え死にをするばかりである。」という状況に置かれた下人に、老婆は「生きるための悪は許される」と言う。だから引剥ぎをしたのだ。

 論理的にはまことにもって腑に落ちる。整合性に疑問はない。

 だがこうした把握は、「羅生門」というテキストを、小説として読んだ印象と乖離している。


 「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。

 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。

 なぜか?


 下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。

 つまり状況設定として確かに「極限状況」と呼んでも良い要件は示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのである。

 「極限状況」が「行為の必然性」を支えるならば、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って―どんどん腹が減って―こなければならない。


 そもそも「飢え死にか盗人か」という問題設定は、読者にとって本当にリアルな「問題」と感じられるだろうか?

 「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ、と思う。

 「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。迷う余地があるということは「極限状況」などではないということだ。

 小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。現実がどう被害を受けるわけでもなし、そもそも小説は奇妙な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。

 だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体が、小説読者にとって不可解なのである。こいつは何を迷っているんだ? というのが読者の素朴な感想のはずだ(少なくとも授業者はそうだった)。

 ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。


 小説の読解は読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。

 「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、そうした違いを無視して観念的に設定されている。この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけである。


 勿論下人がそれをすることの前で迷っていたのも事実だ。「極限状況」は、肉体的には描かれていないが、確かに下人の行為を動機付けるものとして意識されてはいる。だが、意識されてはいるものの、確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、小説としての「行為の必然性」を支えるほどの論理的強度を持たない。

 それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」をそのようには考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずだ。読者を「極限状況」に曝すはずだ。下人の窮状を体感させるはずだ。

 それをしていない以上、「極限状況に露呈される人間存在の悪」などという大仰な主題設定はこの小説を読んだ実感とはかけ離れていると考えるべきなのである。芥川には、そんなつもりはない。このような読みは単に小説をまともに読んでいないというだけなのだ。


羅生門 3 通説

  さて、今回の限定的な読解では、前回の「問い」に対して、読解をもって「答え」ようとする前に、一般的にそれがどのように考えられているかを確認してしまう。それが妥当だと考えられるのなら読解はそれで終わりだ。

 はたして?


 あらためて、下人はなぜ引剥ぎをしたのか?

 この問いに対する一般的な答えは次のようなものだ。

極限状況において、老婆の語る論理を得たから。

 何のことか?


 また、ここから導かれる主題にも、一般的な答えがある。

 「一般的」ということで、例によってWikipediaから引こう。

『羅生門』は、芥川龍之介の小説。『今昔物語集』の本朝世俗部巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を基に、巻三十一「太刀帯陣売魚姫語第三十一」の内容を一部に交える形で書かれたものである。生きるための悪という人間のエゴイズムを克明に描き出した。

 「生きるための悪という人間のエゴイズム」?


 さて、こうした「行為の必然性」と「主題」は、どのような関係になっているのか? 下人の引剥ぎをこのように理解することは、なぜこの小説をこのように理解することになるのか?


 まずは「行為の必然性」についての上記の説明「極限状況において、老婆の語る論理を得た」が何を意味しているかを確認しよう。

 ここで言う「極限状況」とは何か?

 有名な文学者は「羅生門」を評して、「極限状況に露呈される人間存在の悪」などという。この「極限状況」とは?

 「状況」をもたらす要因を二つに分けて指摘してみよう。


1.天災により都が荒廃していること(社会的状況)

2.主人に暇を出されていること(個人的事情)


 二つが揃って、下人の置かれた「極限状況」を構成している。

 まず災害による人命の損失やそれにともなう人心の荒廃が語られる。仏具は打ち壊されて薪とされ、物語の舞台となる羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。

 そうした中で下人は行くあてもない。それが「俺もそう(引剥ぎ)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた状況を招いている。

 こうした状況を指して一般的に「極限状況」と呼んでいるのである。

 そしてこれが引剥ぎという「行為」を要請している。


 次に「老婆の語る論理」とは何か?

 老婆は語る。

死人の髪の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、みな、そのくらいなことを、されてもいい人間ばかりだぞよ。(略)せねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。

 ここに見られるのは、いわば「悪の容認の論理」である。「悪いこと」は「しかたがない」のである。

 「悪いこと」をしなければ飢え死にしてしまうと言う「極限状況」に置かれた下人は、「悪いこと」をしても「しかたがない」という「老婆の論理」を得て、引剥をする。

 こうして「行為の必然性」は説明されてしまう。この論理はあまりに明白で疑問の余地がない。


 だが実は「老婆の論理」には厳密に言うと二つの論理が混在しており、そこから導かれる主題も二つの系統に分かれる。

 二つの要素とはどのように分離できるか?


1.生きるための悪は許される。

2.悪人に対する悪は許される。

 これらはどのようにして「行為の必然性」を支えているのだろうか?


 「極限状況」と直接に結びつくのは1だ。生命の危機に直面しているという「極限状況」に、生きるためならば悪も容認されるという「老婆の論理」が結びつけば、生きるために引剥ぎをすることに何の疑問もない。理に落ちすぎるほどだ。

 では2は「行為の必然性」を支えてはいないのだろうか?

 実は2に「行為の必然性」の根拠を見出す解釈にも、一定の支持がある。

 自分が髪を抜いている死人の生前の悪事を暴くことで自らの行為を正当化する「老婆の論理」を老婆本人にそのまま投げ返しているのだという解釈である。

 この解釈を支持する根拠も挙げられてはいる。

 例えば、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と「嘲るような」声で念を押すのは、自己正当化の論理がそのまま自分に返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだというのである。

 また、老婆の着物なぞが果たして売り物になるのか、という疑問をC組のIさんが提示した。売り物にならない着物を老婆から奪ったのだとしたら、それは「生きるための悪」ではなく、老婆の論理をそのまま老婆自身に投げ返したということではないか。

 引剥ぎという行為の「意味」は、生きるためという実用性にあるのか、それともなんらかの象徴性にあるのか?

 面白い問題提起だ。


 この点について考える興味深い材料がある。元ネタである『今昔物語』の盗人は、老婆の着物だけでなく、他の死人の着物や老婆が抜いた死人の髪も一緒に持ち去るのだ。

 このことは何を意味しているか?


 『今昔物語』の盗人は最初から盗人なのだから、その引剥ぎは純粋に実用的な意味しかない。これは「羅生門」の下人が剥ぎ取る老婆の着物もまた、物語中で売り物としての価値を持っていると見なしてよいことを示していると考えられる。

 一方でどこまでも実用性を追求するなら、下人もまた老婆の全ての持ち物を奪ってもよさそうなものだ。それが老婆の着物だけに限定されていることは、「羅生門」における下人の引剥ぎが、純粋に「生きるため」の必要に基づく行為ではなく、老婆に対してのみ示された象徴的な行為であることを示していると考えることもできるのである。


 こうして論理づけられた「行為の必然性」と「エゴイズム」という主題は、どのような関係になっているのか?


 「老婆の論理」の1と2のどちらを採用するかによって、「エゴイズム」の意味するものは違ってくる。また、それらの間には、微妙な齟齬、矛盾がある。

 1ならば、「エゴイズム」とは、老婆と下人が等しく持っている「生きるためのエゴイズム」であり、物語はその容認を表現していることになる。

 2ならば、「エゴイズム」とは、自己正当化の論理を語る老婆のエゴイズムであり、物語は老婆への処罰という形でそうした「エゴイズム」を痛烈に批判していることになる。


 「一般的」といいながら、二つの通説を提示した。

 はたしてこのどちらかが適切な「羅生門」理解なのだろうか?


羅生門 2 問いを立てる

  これまでのテキスト読解でも常に、そのテキストが「何を言っているか」を考えるための、それぞれのテキストにあわせた「問い」を考えてきた。「問いを立てる」ことは読解のための有力なメソッドだ。

 そうした問いは、読解の最初の段階で明らかなこともあれば、とりあえず読解を進めながら、徐々に浮上してくる場合もある。

 「こころ」ならば「Kはなぜ自殺したか」だし、「山月記」ならば「李徴はなぜ虎になったか」だ。「少年という名のメカ」は最初のうちはわからない。だが考えていくうちに「『少年』とは何を象徴しているか」というのが一つの有力な問いとして浮かび上がってくる(問題は「メカ」ではなく「少年」なのだった)。

 「問いを立てる」というメソッドは、評論の読解でも実践してきた。「ホンモノのおカネの作り方」ならば「おカネとはどういうものか?」だし、「ロゴスと言葉」なら「言葉とはどういうものか?」だ。「ミロのヴィーナス」なら「腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」だし、「南の貧困/北の貧困」は「貧困はどのようにして生ずるのか?」だ。

 ちなみに「『である』ことと『する』こと」はちょっと難しい。あらためて考えなければ「問い」の形で表現できない。授業者ならば「『である/する』という枠組みで社会の問題を考えると何が見えてくるか?」といった表現をするところだ。

 これらの「問い」は、その文章がそもそもそうした問題に答えるべく考察を展開しているということだが、その「問い」と、文中で語られる「答え」(「問題」と「結論・主張」)を把握することが、その文章を読むことの中心にあるということでもあるから、読者もまたそうした「問い」を共有することになる。


 さてでは、「羅生門」を読むための中心となる「問い」とは?


 実は去年「山月記」の授業の冒頭でもこのやりとりをした。

 「羅生門」理解の最大公約数的「問い」は? と聞いて、すぐに適切な答えが出てきたクラスと案外に手こずったクラスがあったが、一応どこのクラスでも確認したのだった。

 思い出せというのではない。あらためて考えてみる。

 「羅生門」を一読した今、最も大きな謎は何だと感じらているか? 「羅生門」がひとまず「わかった」と思うためには、何がわかればいいのか?


 最大の問いは明らかだ。それを提示すれば皆、それが最重要の問いであることにただちに同意するだろう。

 だがそれを考えるためにいささかの回り道をしよう。


 この小説は『今昔物語』の一編 「羅城門登上層見死人盗人語」(らじょうもんのうわこしにのぼりてしびとをみたるぬすびとのかたりけること)を元にしている(もう一つ別の説話のエピソードも途中に組み込まれてはいるが、話の大筋は「羅城門…」だ)。

 これを読み比べることによって、「羅生門」という小説を相対化することができる。

 話の骨格の共通点とともに、いくつかの相違点を指摘することができる。

 最大の相違点は何か?

 近代小説の特徴である詳細な情景描写や心理描写によって、単にテキストの量が増大していることは言うまでもない。門の上層に上った理由や、老婆から奪い取る物に違いもある。

 だが最も重要なことは、原話の「盗人」が「羅生門」では「下人」となっていることである。

 これは何を意味するか?


 「盗人」と「下人」の違いが、小説「羅生門」における最大の謎を生んでいる。

 すなわち「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」である。

 むしろこれが「羅生門」において最大の謎だと感じられるからこそ、「盗人」と「下人」の違いが重要であることに気づくのだ。そうでなければ「盗人」と「下人」というそれぞれの呼称は相違というより単なる翻訳としか思えないはずだ。

 だから「盗人」と「下人」が「相違」として感じられることと、「羅生門」において下人が引剥ぎをしたことの意味が重要なのだという認識は表裏一体である。

 盗人が盗みをするのは当然だ。そこに謎はない。

 一方「羅生門」の終わりで下人が老婆に対してはたらく引剥ぎは、読者の当惑を誘う。なぜそうするのかが、にわかにはわからない。

 そしてこの引剥ぎの意味の重要性から遡って、芥川が「盗人」を「下人」に変えたことの意味に思いを致す。


 なぜこの行為の意味が、「羅生門」という小説にとって最重要の謎だと感じられるのか?


 「羅生門」では、冒頭で行為に対する迷いが提示され、その行為が実行されて終わる。つまり迷いとその解決をつなぐ論理が物語の背骨を構成している。物語全体がこの問題と回答の対応の中で把握されるように感じられるのである。

 そしてその行為は、読者にとって自然に受け入れることのできない、看過できない違和感とともに提示されている。行為の実行に、ある飛躍が感じられるのである。ここには何かがあるはずだという感触を感じさせる。この行為は何を意味しているのか。そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない課題が読者に提示されている。


 問題は「行為の必然性」である。

 「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いを、引剥ぎという「行為の必然性」をどのように論理づけるか? と置き換えよう。

 こうした抽象化は思考にとって重要な手続きである。問題の焦点を明らかにし、議論の利便性を増す。

 だが、「行為の必然性」が明らかになることが即ち「この小説は何を言っているか」が明らかであるということにはならないかもしれない。この「問い」が、小説全体を捉えるには不適切なのかもしれないのだ。

 「行為の必然性」は、「これは何を言っている小説か?」という問いに対する答えとどのように結びつくか?

 「これは何を言っている小説か」という認識のことを我々は通常「小説の主題」と言い習わしている。

 つまり「行為の必然性」が、どのようにこの小説の主題を構成することになるのかが問われなければならない。

 これは、「行為の必然性」から主題が導かれるということでもあるが、「行為の必然性」を説明する論理の妥当性が、どのような主題を構成するかという納得によって確信される、ということでもある。両者は相補的なのだ。下人がなぜ引剥をしたのかを納得するということは、「羅生門」をどういう話と受け取るかという話でもある。


 『今昔物語』の原話では「行為の必然性」が問題になってはいない。盗人にとっての盗みは、わざわざ語られることもないほど当然でありすぎて、だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。

 だからこの原話では、何を伝えたい話なのか――それが「主題」だ――がわかりにくい。だがそれは「羅生門」という近代小説を通して「今昔物語」を見てしまうからであって、この挿話の主題は、盗人の「行為」にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という「状況」そのものを読者に伝えることなのである。だから「羅城門登上層見死人盗人語」とは簡にして要を得た「あらすじ」であり、そのまま「主題」の在処を示している。

 一方、芥川によって書かれた小説「羅生門」には、明らかに「行為の必然性」を「主題」の把握にいたる論理的な一貫性の中で捉えなければならないと感ずる。芥川はそのような意図をもって原話を小説として書き直している。


 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?

 そして、「羅生門」の主題とは何か?


2021年4月7日水曜日

羅生門 1 再読の意義

 年度の冒頭は、1年半前に読んだ文章を再読する。

 なんのために?

 読むこと、議論することに対する頭の使い方、つまり国語力が、どれほど当時とは変わったか、各自、自分の成長を実感してほしいからだ。

 もちろん、読解の行き着く先は前回と同じではない。読解内容そのものを再現するつもりはない。当時とは違った自分たちの力を実感しながら、考察の先に広がる新しい光景に出会うことを期待してもいる。


 どんな文章を授業で読むにせよ、常に共通した思考の目標は、とりあえずは「この文章は何を言っているか」と考えることだ。

 これは「とりあえず」に過ぎない。実際には、その文章から得られた認識を現実世界にどう応用するか、といった思考が求められるのだし、自らも発信することも必要になることがあるのは言うまでもない。

 とはいえテキストを目の前にして「とりあえず」は「何を言っているか」を考えることは、当面の目標である。

 同時に、これは思考の目標であり、学習の、授業の目標ではない。授業を通して「この文章は何を言っているか」が理解されることが求められているわけではない。

 学習の、授業の目標は国語力を伸張することだ。

 だから授業者は「この文章は何を言っているか」を解説するなどして、皆に理解させることを目標とはしない。それは皆が自分で考えるべきことだ。そこで提示されたテキストについて、みんなは「この文章は何を言っているか」と考えなくてはならない。そうした思考が、国語力の伸張という学習の目標へ向けて踏み出す第一歩だからだ。


 同じ文章を読み返しても、そこに立ち上がってくる認識はそのたび違う。

 それは切り口の問題でもある。昨年度も、1年の教科書に載っている鈴木孝夫「ものとことば」、内山節「不均等な時間」を、別のテキストと読み比べるために読み返した。そうして読む文章の「意味」は、それぞれの文章を単独で読んだときとは違うはずだ。

 また、昨年書いたように、テキストの「意味」とは常にテキストと読者との間に生ずる一回性の出来事だ。そこから立ち上がってくる認識はそのたびに変化する。だから、読者であるみんなが変わっていたら、既にテキストの「意味」は変わっているはずなのだ。

 変わっていなければならない。


 そのことを実感してもらうために再読するのは、「羅生門」だ。

 えっ、今頃また!? と思ってほしかったのだが、必ずしも反応が明らかではなかったのは、まだみんな新しいクラスに遠慮しているのかもしれない。

 授業で扱う文章は、長い文章の一部が切り取られている場合もある。とりわけ評論ではそういう場合が多い。小説でも「こころ」などのように、一部しか授業で扱わない場合もある。テストでは基本的に小説でも一部が切り取られて出題される。

 どうであれ、そこに提示されている範囲のテキストについてとりあえずは「何を言っているか」を読み取ろうと思考するという意味では評論と小説に違いはない。

 だが、「羅生門」のように完結した小説の読解には、評論の読解とは違った思考の方向性が求められる場合があるのも確かだ。評論のように、筆者の主張を読み取る、というほど単純な方向性では読解していけない。

 「単純な」というのは「簡単な」ということではない。難しい評論は難しい。だがやることは「筆者の主張を読み取る」ことであることは間違いなく、その意味では「単純」なのだ。

 ところが小説の読解は、そもそも「筆者の主張」などというものがテキストに書かれているわけではない。仮にそういうものが創作の原点にあったとしても、完成した作品がそれを体現しているとは限らない。

 とりあえずどのような出来事が起こっているのか、誰が何をしているかが具象レベルで把握できたとしても、それがその小説の「意味」を表わしているわけではない。小説の読解は、そうした出来事の具体的な表れの上に、ある抽象的な「意味」を見出す思考だ。


 昨年度の読解で、そのことが最も強く感じられたのは、「少年という名のメカ」だったはずだ。

 「こころ」や「山月記」は、そこに描かれている問題がどのようなものかは、比較的わかりやすいと感じられる(もちろん「こころ」は実はそんなに単純ではないのだし、「山月記」は「わかった」ことを言葉にするのが難しいのだが)。

 それに比べて「少年という名のメカ」を読むことは、まずそれをどのような枠組みで読むべきかが自明でないという点で大いなる困難があった。一読して、まずは「何これ?」という感じなのだ。

 だから、「少年という名のメカ」の読解においては、その「枠組み」をめぐる考察そのものが問題であった。


 「羅生門」は「少年という名のメカ」ほどの奇矯さは感じないかもしれない。だが「こころ」「山月記」よりはよほど、「わからない」と感じられて然るべき小説だ。

 既に授業を通じて読んだみんなは、「羅生門」が「わかっている」のだろうか?


 「羅生門」は、そこに起こるドラマのありようを具体レベルで受け取ることはできる。舞台も時間も(時代も季節も)、下人が何をしているのかもわかる。心理も詳細に描写されている。

 だが、だからといってそれが、小説として「何を言っているか」は自明だと言えるだろうか?


 いや、もったいぶってそんなふうに言わなくてもいい。自明ならば授業で取り上げる必要はないのだ。小説は娯楽だ。あるいは芸術だ。ただ読んで楽しめば良い。

 だが「羅生門」という小説が「何を言っているか」は自明なはずはない、というのが授業者の見込みである。「羅生門」は「わからない」はずなのだ。だからまずそこを目指して読解する(「わかる」から出発したとしても、その問題を何か別の問題に結びつけるとか、その魅力がどのようにして生まれているかを考えるとか、読解-考察の可能性は「わかる」で終わるわけではないのだが)。

 年度初めの再読として読む「羅生門」は、とりあえずはこの「これは何を言っている小説か」だけを考える。

 勿論「教える」わけではない。テキスト情報をどのように解釈することが、どのような「意味」として把握されるかを考えるのだ。みんな自身が。

 そのことを通して、テキスト読解の経験値のこれまでの積み重ねが、当時とはいかに違った読解を可能にするかを実感してもらいたい。


 はたして「羅生門」とは、何を言っている小説か?