2021年4月16日金曜日

羅生門 2 問いを立てる

  これまでのテキスト読解でも常に、そのテキストが「何を言っているか」を考えるための、それぞれのテキストにあわせた「問い」を考えてきた。「問いを立てる」ことは読解のための有力なメソッドだ。

 そうした問いは、読解の最初の段階で明らかなこともあれば、とりあえず読解を進めながら、徐々に浮上してくる場合もある。

 「こころ」ならば「Kはなぜ自殺したか」だし、「山月記」ならば「李徴はなぜ虎になったか」だ。「少年という名のメカ」は最初のうちはわからない。だが考えていくうちに「『少年』とは何を象徴しているか」というのが一つの有力な問いとして浮かび上がってくる(問題は「メカ」ではなく「少年」なのだった)。

 「問いを立てる」というメソッドは、評論の読解でも実践してきた。「ホンモノのおカネの作り方」ならば「おカネとはどういうものか?」だし、「ロゴスと言葉」なら「言葉とはどういうものか?」だ。「ミロのヴィーナス」なら「腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」だし、「南の貧困/北の貧困」は「貧困はどのようにして生ずるのか?」だ。

 ちなみに「『である』ことと『する』こと」はちょっと難しい。あらためて考えなければ「問い」の形で表現できない。授業者ならば「『である/する』という枠組みで社会の問題を考えると何が見えてくるか?」といった表現をするところだ。

 これらの「問い」は、その文章がそもそもそうした問題に答えるべく考察を展開しているということだが、その「問い」と、文中で語られる「答え」(「問題」と「結論・主張」)を把握することが、その文章を読むことの中心にあるということでもあるから、読者もまたそうした「問い」を共有することになる。


 さてでは、「羅生門」を読むための中心となる「問い」とは?


 実は去年「山月記」の授業の冒頭でもこのやりとりをした。

 「羅生門」理解の最大公約数的「問い」は? と聞いて、すぐに適切な答えが出てきたクラスと案外に手こずったクラスがあったが、一応どこのクラスでも確認したのだった。

 思い出せというのではない。あらためて考えてみる。

 「羅生門」を一読した今、最も大きな謎は何だと感じらているか? 「羅生門」がひとまず「わかった」と思うためには、何がわかればいいのか?


 最大の問いは明らかだ。それを提示すれば皆、それが最重要の問いであることにただちに同意するだろう。

 だがそれを考えるためにいささかの回り道をしよう。


 この小説は『今昔物語』の一編 「羅城門登上層見死人盗人語」(らじょうもんのうわこしにのぼりてしびとをみたるぬすびとのかたりけること)を元にしている(もう一つ別の説話のエピソードも途中に組み込まれてはいるが、話の大筋は「羅城門…」だ)。

 これを読み比べることによって、「羅生門」という小説を相対化することができる。

 話の骨格の共通点とともに、いくつかの相違点を指摘することができる。

 最大の相違点は何か?

 近代小説の特徴である詳細な情景描写や心理描写によって、単にテキストの量が増大していることは言うまでもない。門の上層に上った理由や、老婆から奪い取る物に違いもある。

 だが最も重要なことは、原話の「盗人」が「羅生門」では「下人」となっていることである。

 これは何を意味するか?


 「盗人」と「下人」の違いが、小説「羅生門」における最大の謎を生んでいる。

 すなわち「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」である。

 むしろこれが「羅生門」において最大の謎だと感じられるからこそ、「盗人」と「下人」の違いが重要であることに気づくのだ。そうでなければ「盗人」と「下人」というそれぞれの呼称は相違というより単なる翻訳としか思えないはずだ。

 だから「盗人」と「下人」が「相違」として感じられることと、「羅生門」において下人が引剥ぎをしたことの意味が重要なのだという認識は表裏一体である。

 盗人が盗みをするのは当然だ。そこに謎はない。

 一方「羅生門」の終わりで下人が老婆に対してはたらく引剥ぎは、読者の当惑を誘う。なぜそうするのかが、にわかにはわからない。

 そしてこの引剥ぎの意味の重要性から遡って、芥川が「盗人」を「下人」に変えたことの意味に思いを致す。


 なぜこの行為の意味が、「羅生門」という小説にとって最重要の謎だと感じられるのか?


 「羅生門」では、冒頭で行為に対する迷いが提示され、その行為が実行されて終わる。つまり迷いとその解決をつなぐ論理が物語の背骨を構成している。物語全体がこの問題と回答の対応の中で把握されるように感じられるのである。

 そしてその行為は、読者にとって自然に受け入れることのできない、看過できない違和感とともに提示されている。行為の実行に、ある飛躍が感じられるのである。ここには何かがあるはずだという感触を感じさせる。この行為は何を意味しているのか。そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない課題が読者に提示されている。


 問題は「行為の必然性」である。

 「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いを、引剥ぎという「行為の必然性」をどのように論理づけるか? と置き換えよう。

 こうした抽象化は思考にとって重要な手続きである。問題の焦点を明らかにし、議論の利便性を増す。

 だが、「行為の必然性」が明らかになることが即ち「この小説は何を言っているか」が明らかであるということにはならないかもしれない。この「問い」が、小説全体を捉えるには不適切なのかもしれないのだ。

 「行為の必然性」は、「これは何を言っている小説か?」という問いに対する答えとどのように結びつくか?

 「これは何を言っている小説か」という認識のことを我々は通常「小説の主題」と言い習わしている。

 つまり「行為の必然性」が、どのようにこの小説の主題を構成することになるのかが問われなければならない。

 これは、「行為の必然性」から主題が導かれるということでもあるが、「行為の必然性」を説明する論理の妥当性が、どのような主題を構成するかという納得によって確信される、ということでもある。両者は相補的なのだ。下人がなぜ引剥をしたのかを納得するということは、「羅生門」をどういう話と受け取るかという話でもある。


 『今昔物語』の原話では「行為の必然性」が問題になってはいない。盗人にとっての盗みは、わざわざ語られることもないほど当然でありすぎて、だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。

 だからこの原話では、何を伝えたい話なのか――それが「主題」だ――がわかりにくい。だがそれは「羅生門」という近代小説を通して「今昔物語」を見てしまうからであって、この挿話の主題は、盗人の「行為」にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という「状況」そのものを読者に伝えることなのである。だから「羅城門登上層見死人盗人語」とは簡にして要を得た「あらすじ」であり、そのまま「主題」の在処を示している。

 一方、芥川によって書かれた小説「羅生門」には、明らかに「行為の必然性」を「主題」の把握にいたる論理的な一貫性の中で捉えなければならないと感ずる。芥川はそのような意図をもって原話を小説として書き直している。


 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?

 そして、「羅生門」の主題とは何か?


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