2021年4月20日火曜日

羅生門 8 不自然な心理たち

 下人の心理の推移を追う。

 老婆の行為を目撃した下人の心には、奇妙な⑤「憎悪」が燃え上がる。

 その描写はいかにも不自然だ。

 この不自然さは、「合理的には、それ(老婆の行為)を善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」という作者による客観的な分析と、「激しい」「松の木切れのように、勢いよく燃え上がり出していた」という強調が衝突することに因る。「憎悪」に充分な合理性がないと言いつつ、それが不自然なほど過剰に「激しい」と形容されているのである。

 さらにそれが「あらゆる悪に対する反感」と急に一般化された上で、分からないにもかかわらず「それだけですでに許すべからざる悪」と決めつけられている。焦点はぼかされ、一般化され、短絡的に断定される。

 この、矛盾する方向性が、この「憎悪」を奇妙なものに感じさせている。


 さて、そうした「憎悪」から湧き起こる⑥「勇気」によって、下人は老婆を取り押さえる。

 その後におとずれる⑦「安らかな得意と満足」もまた不自然である。

 なぜか?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。

 説明はされている、にもかかわらずちっとも腑に落ちない。

 まず、そんな場合か、と思う。この脳天気さはどうみても「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 そしてこれは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「雨の夜に」「羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが根拠になるのかが読者にはわからない。読者にわからない根拠が、わざわざ挙げられている。

 さらに問題なのは⑤の「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問が解消する前にこの「満足」が訪れているという点である。

 これもまた、「憎悪」の分析の際の、老婆が「悪」であると判断する合理的理由はないことと対になっている。「理由」がわからずに生じた「憎悪」は、その「理由」についての疑問が解消する前に消滅する。

 ということはつまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということである。

 このことが意味するのは何か?


 次の⑧「失望」も勿論不自然だ。

 ここでは、この記述を反転させてみる。「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを期待していたことになる。

 なぜ下人は「非凡」な答えを期待するのか?


 またこの時再び「憎悪」が浮上してくる。

 ここでは⑤と⑧の「憎悪」の共通点相違を確認しよう。

 まず、共通点は?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、⑤の「憎悪」を受けていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だが、分析を求めると、どうも相違点ばかりが挙がってしまう。

 では相違点は?

 ⑤が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、⑧は老婆という限定した対象に向けられている。それは⑤が、老婆の行為の理由が分かる前に生じた「憎悪」であるのに対し、⑧は、わかってから生じた「憎悪」であるということによる。

 対象が不特定か特定か。

 また、⑤が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、⑧の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」。

 こうした差異は何を示しているか?

 では、共通点は?

 「また前の」という形容をつけて⑤との共通点を示しているのは、⑧もまた「悪に対する憎悪」にほかならないということを強調するためである。

 共通点に基づく比較によって浮かび上がる相違点。相違点を超えて確認されるべき共通点。

 これもまた「行為の必然性」を説明する論理の中に適切に意味づけられなければならない。


 ⑨の「冷然」は⑧の「冷ややかな侮蔑」を引き継いでいると考えられる。

 そして⑩の「勇気」こそ「羅生門」読解の焦点なので、この考察は後に譲る。


 ⑪「嘲るように」「咬みつくように」は?

 「嘲る」が⑧の「侮蔑」と響き合っているように感じられることは認めていい。

 こうした形容に見られるのは、老婆に対する不快感だろうか。敵意だろうか。いずれにせよ、そうした形容が付される論理を、引剥ぎという行為に及ぶ必然性の中に位置づける必要があることを意識しておく。


 以上のような「心理の推移」を最終的な「行為の必然性」、つまり「主題」に結びつける論理が必要だ。右に見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。

 「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。

 とすればその論理とは何か?


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