「極限状況」と「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えられないとする根拠を、それぞれ「論理的強度」という言葉で説明した。
一般的な解釈は、確かにわかりやすい。むしろあまりにわかりやすいとも言える。その意味では、論理的整合性はある。
だが、強度が足りない。引剥ぎという行為の意味について、確かにそうだと感じられる説得力がない。
それだけではない。こうした論理による「行為の必然性」に納得しがたい理由は他にもある。
その、最も大きな根拠は何か?
誰もが「羅生門」を読むと、その異様なまでに詳細な心理描写に違和感を抱くはずだ。
執拗に描写される下人の心理は、その一つ一つに共感できないばかりか、にわかには理解しがたい飛躍によって急変する。
こうして描写される「心理の推移」には何の意味があるのか?
以前書いたように、小説に書かれていることには必ず意味がある。特別な意味はない、という「意味」でさえ、そう確定されるまでは、それは「完全な」解釈にはいたっていないということだ。
まして「羅生門」の異様な心理描写が特別な意味を持たないなどとは、到底納得できるものではない。
「羅生門」における下人の「心理の推移」は、一般的にも「羅生門」の主題としてたびたび語られてきた。
ところが一般的な「エゴイズム」論的「羅生門」把握では、「極限状況」と「老婆の論理」を短絡させてしまえば、それだけで下人の「行為の必然性」は説明されてしまう。
そこに「心理の推移」が意味するものは組み込まれておらず、宙に浮いている。
これが、従来の「エゴイズム」論が「羅生門」という小説を適切に捉えているとは思えない最大の理由だ(このことを正しく指摘したA組Oさん、G組Oさん、E組T君、とても鋭い)。
それどころかむしろ「心理の推移」を丁寧に追うほどに、それは「極限状況」+「老婆の論理」=「行為の必然性」論との齟齬を明らかにするはずだ。
例えば、悪に対する憎悪にかられるのは、はっきりと「極限状況」と論理的に矛盾する。本当に「極限状況」に置かれているなら、悪に対する憎悪など生じたりする余裕はないはずである。
「勿論、下人は、さっきまで自分が盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。」という一節には、はじめの問題設定である選択の前での迷いが、実はまるで拮抗していないことが、図らずも露呈している。というより、「極限状況」があっさり念頭から消え去ってしまうことを「勿論」と言い放つからこそ、作者には「極限状況」を描く気はないのだと考えるべきなのである。
ではなぜ迷いが念頭から消え去ることは「勿論」と言うべきことなのか。この部分からは、この「勿論」から導かれる論理を読み取る必要がある。だがそれは決して自明なことではない。
あるいは、老婆を捕らえて「ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな得意と満足と」に浸る姿の脳天気さも、どうみても「極限状況」に置かれている者の切迫感とは相容れない。
「心理の推移」を丁寧に追うほどに、「極限状況において露呈するエゴイズム」などといった大仰な主題把握が、小説本文の細部を無視した図式的なものであることが明らかになってくる。
わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、可能なのは、下人のその不安定な心理こそが、根拠の貧弱な「老婆の論理」を鵜呑みにして引剥ぎをさせたのだ、と「行為の必然性」を説明する立論である。
こうした論を立てるならば、主題は「人間の心理は移ろいやすく不安定だ」とでもいうことになる。さる大御所は「善にも悪にも徹底し得ない不安定な人間の姿」と言う。これは「人間存在の悪」を描こうとしているのだ、という「羅生門」把握を相対化してしまう。「悪」もまた移りゆく一過程となる。
確かに、推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえる。
だがそれでは、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は逆に、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたまある時点でそちらに傾いた、ということになるのだから。そのような人物は、次の瞬間にはまた、自分の行為を反省して恥じるかもしれない。
だが「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手を面皰から離して」引剥ぎをする下人の行為には、何かしら、この物語における決着点を示しているという手応えを感ずる。それは、途中に描かれる心理のような「推移」の一過程とは違う、この物語の主題に関わる決着点であるという感触である。それは「不安定な心理」説とは相容れない。
したがってこれもまた一つの「羅生門」理解のための小手先の理屈に過ぎない。
「極限状況」と「老婆の論理」に「行為の必然性」の根拠を求める従来の「羅生門」理解では、「心理の推移」を追うことは、無意味どころか、そうした作品把握と矛盾するはずである。
一方で詳細な心理の描写には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずである。
そう考えると、老婆の長台詞に至る前までの「心理の推移」こそが「勇気」を生んでいるのであって、老婆の言葉は、単なる時間経過のBGMとまではいわなくとも、最後のだめ押しくらいに捉えればいいということになる。
おそらくそれが論理的にバランスの良い「羅生門」解釈なのだ。
「心理の推移」が「行為の必然性」に決着する、どのような論理を考えなければならないか?
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