「羅生門」の読解において、「行為の必然性」と、そこから導かれる「主題」を結びつける論理を、まずは一般的に通用している理解に基づいて確認した。
これに納得できるのなら読解は別の切り口で行われるべきだ。例えば作品成立の背景を探るとか、いわゆる「鑑賞」をするとか。
だがそもそも、こうした通説に落ち着くつもりがないから、わざわざ「一般的な」などと言っているのだ。
こうした通説にはなぜ納得できないか?
都を襲う災いの余波で職を失った下人は、確かに「極限状況」に置かれているようにみえる。「(手段を)選んでいれば、築土の下か、道端の土の上で、飢え死にをするばかりである。」という状況に置かれた下人に、老婆は「生きるための悪は許される」と言う。だから引剥ぎをしたのだ。
論理的にはまことにもって腑に落ちる。整合性に疑問はない。
だがこうした把握は、「羅生門」というテキストを、小説として読んだ印象と乖離している。
「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。
だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。
なぜか?
下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。
つまり状況設定として確かに「極限状況」と呼んでも良い要件は示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのである。
「極限状況」が「行為の必然性」を支えるならば、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って―どんどん腹が減って―こなければならない。
そもそも「飢え死にか盗人か」という問題設定は、読者にとって本当にリアルな「問題」と感じられるだろうか?
「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ、と思う。
「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。迷う余地があるということは「極限状況」などではないということだ。
小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。現実がどう被害を受けるわけでもなし、そもそも小説は奇妙な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。
だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体が、小説読者にとって不可解なのである。こいつは何を迷っているんだ? というのが読者の素朴な感想のはずだ(少なくとも授業者はそうだった)。
ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。
小説の読解は読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。
「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、そうした違いを無視して観念的に設定されている。この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけである。
勿論下人がそれをすることの前で迷っていたのも事実だ。「極限状況」は、肉体的には描かれていないが、確かに下人の行為を動機付けるものとして意識されてはいる。だが、意識されてはいるものの、確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、小説としての「行為の必然性」を支えるほどの論理的強度を持たない。
それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」をそのようには考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずだ。読者を「極限状況」に曝すはずだ。下人の窮状を体感させるはずだ。
それをしていない以上、「極限状況に露呈される人間存在の悪」などという大仰な主題設定はこの小説を読んだ実感とはかけ離れていると考えるべきなのである。芥川には、そんなつもりはない。このような読みは単に小説をまともに読んでいないというだけなのだ。
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