2021年4月16日金曜日

羅生門 3 通説

  さて、今回の限定的な読解では、前回の「問い」に対して、読解をもって「答え」ようとする前に、一般的にそれがどのように考えられているかを確認してしまう。それが妥当だと考えられるのなら読解はそれで終わりだ。

 はたして?


 あらためて、下人はなぜ引剥ぎをしたのか?

 この問いに対する一般的な答えは次のようなものだ。

極限状況において、老婆の語る論理を得たから。

 何のことか?


 また、ここから導かれる主題にも、一般的な答えがある。

 「一般的」ということで、例によってWikipediaから引こう。

『羅生門』は、芥川龍之介の小説。『今昔物語集』の本朝世俗部巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を基に、巻三十一「太刀帯陣売魚姫語第三十一」の内容を一部に交える形で書かれたものである。生きるための悪という人間のエゴイズムを克明に描き出した。

 「生きるための悪という人間のエゴイズム」?


 さて、こうした「行為の必然性」と「主題」は、どのような関係になっているのか? 下人の引剥ぎをこのように理解することは、なぜこの小説をこのように理解することになるのか?


 まずは「行為の必然性」についての上記の説明「極限状況において、老婆の語る論理を得た」が何を意味しているかを確認しよう。

 ここで言う「極限状況」とは何か?

 有名な文学者は「羅生門」を評して、「極限状況に露呈される人間存在の悪」などという。この「極限状況」とは?

 「状況」をもたらす要因を二つに分けて指摘してみよう。


1.天災により都が荒廃していること(社会的状況)

2.主人に暇を出されていること(個人的事情)


 二つが揃って、下人の置かれた「極限状況」を構成している。

 まず災害による人命の損失やそれにともなう人心の荒廃が語られる。仏具は打ち壊されて薪とされ、物語の舞台となる羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。

 そうした中で下人は行くあてもない。それが「俺もそう(引剥ぎ)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた状況を招いている。

 こうした状況を指して一般的に「極限状況」と呼んでいるのである。

 そしてこれが引剥ぎという「行為」を要請している。


 次に「老婆の語る論理」とは何か?

 老婆は語る。

死人の髪の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、みな、そのくらいなことを、されてもいい人間ばかりだぞよ。(略)せねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。

 ここに見られるのは、いわば「悪の容認の論理」である。「悪いこと」は「しかたがない」のである。

 「悪いこと」をしなければ飢え死にしてしまうと言う「極限状況」に置かれた下人は、「悪いこと」をしても「しかたがない」という「老婆の論理」を得て、引剥をする。

 こうして「行為の必然性」は説明されてしまう。この論理はあまりに明白で疑問の余地がない。


 だが実は「老婆の論理」には厳密に言うと二つの論理が混在しており、そこから導かれる主題も二つの系統に分かれる。

 二つの要素とはどのように分離できるか?


1.生きるための悪は許される。

2.悪人に対する悪は許される。

 これらはどのようにして「行為の必然性」を支えているのだろうか?


 「極限状況」と直接に結びつくのは1だ。生命の危機に直面しているという「極限状況」に、生きるためならば悪も容認されるという「老婆の論理」が結びつけば、生きるために引剥ぎをすることに何の疑問もない。理に落ちすぎるほどだ。

 では2は「行為の必然性」を支えてはいないのだろうか?

 実は2に「行為の必然性」の根拠を見出す解釈にも、一定の支持がある。

 自分が髪を抜いている死人の生前の悪事を暴くことで自らの行為を正当化する「老婆の論理」を老婆本人にそのまま投げ返しているのだという解釈である。

 この解釈を支持する根拠も挙げられてはいる。

 例えば、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と「嘲るような」声で念を押すのは、自己正当化の論理がそのまま自分に返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだというのである。

 また、老婆の着物なぞが果たして売り物になるのか、という疑問をC組のIさんが提示した。売り物にならない着物を老婆から奪ったのだとしたら、それは「生きるための悪」ではなく、老婆の論理をそのまま老婆自身に投げ返したということではないか。

 引剥ぎという行為の「意味」は、生きるためという実用性にあるのか、それともなんらかの象徴性にあるのか?

 面白い問題提起だ。


 この点について考える興味深い材料がある。元ネタである『今昔物語』の盗人は、老婆の着物だけでなく、他の死人の着物や老婆が抜いた死人の髪も一緒に持ち去るのだ。

 このことは何を意味しているか?


 『今昔物語』の盗人は最初から盗人なのだから、その引剥ぎは純粋に実用的な意味しかない。これは「羅生門」の下人が剥ぎ取る老婆の着物もまた、物語中で売り物としての価値を持っていると見なしてよいことを示していると考えられる。

 一方でどこまでも実用性を追求するなら、下人もまた老婆の全ての持ち物を奪ってもよさそうなものだ。それが老婆の着物だけに限定されていることは、「羅生門」における下人の引剥ぎが、純粋に「生きるため」の必要に基づく行為ではなく、老婆に対してのみ示された象徴的な行為であることを示していると考えることもできるのである。


 こうして論理づけられた「行為の必然性」と「エゴイズム」という主題は、どのような関係になっているのか?


 「老婆の論理」の1と2のどちらを採用するかによって、「エゴイズム」の意味するものは違ってくる。また、それらの間には、微妙な齟齬、矛盾がある。

 1ならば、「エゴイズム」とは、老婆と下人が等しく持っている「生きるためのエゴイズム」であり、物語はその容認を表現していることになる。

 2ならば、「エゴイズム」とは、自己正当化の論理を語る老婆のエゴイズムであり、物語は老婆への処罰という形でそうした「エゴイズム」を痛烈に批判していることになる。


 「一般的」といいながら、二つの通説を提示した。

 はたしてこのどちらかが適切な「羅生門」理解なのだろうか?


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