なぜ物語の最後で下人には盗人になる「勇気が生まれてきた」のか?
この疑問を解く鍵は、むしろなぜ始まりの時点では「勇気」がもてなかったか、を考えることにある。
最初の時点で拮抗していた「a 正義/b 悪」のバランスは、途中完全にaに傾く。
そして最後には完全にbに傾く。
最初の拮抗がこのように極端にバランスを変えるのはなぜか?
aとbが拮抗しているといっても、現状のままでは「飢え死に」をするのだから、つまりデフォルトはaだ。ということは、なぜbに進めないかが問題である。
そして先に言及したとおり、最初の時点でbに進めなかった理由として、aの引力が強かったからという以外に、bの抵抗が強かったから、と考えてもみる。
盗人になることを妨げていた下人の「a 正義感」が力を失ったことで盗人になれたのか?
「b 悪」に対する抵抗が弱まったことで盗人になる「勇気が生まれてきた」のか?
いずれにせよ、これを「老婆の論理」によって説明しようとするのが従来の「エゴイズム」論だ。
だがこれから提示しようとしているのは、下人の奇妙な「心理の推移」こそがその変化を引き起こしたのだ、という論理である。
どのような論理か?
結論はこうだ。
下人が「勇気」をもてなかったのは―「悪」に踏み出すことをためらっていたのは―下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。
それはいわば観念としての「悪」である。
観念?
これはおそらく高校生の生活にはない語彙だ。
勿論、言葉としては誰しも聞いたことがあるだろう。だが問題は、この言葉がどのような場面で、どのような意味合いを帯びて使われる言葉か、ということだ。「語彙」というのは「知ってる言葉」ではなく「使える言葉」だ。
こういう時は、例によって対比の考え方を用いる。
「観念」の対義語は?
むしろ「観念的」という形容で考えてみるとわかりやすい。
「観念的」の対義的な形容は「現実的」である。
つまり「観念」とは、頭の中だけに存在する、現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉なのだ。
この結論に基づいて、ここまで考察してきた問題を捉え直してみよう。
物語の冒頭、門の下で下人の頭にあったのは観念としての、幻想としての「悪」であった。
冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。
最初にそのことが読者の前に示されるのは、「憎悪」の描写を通してである。この描写を検討し直してみよう。
先ほどの分析によって明らかになった⑤「憎悪」の特徴を確認しよう。
「憎悪」の対象が一般化されていること、にもかかわらず短絡的に断定されていること。
下人の認識に根拠づけられた明晰性がないこと、にもかかわらずその情動が過剰であること。
そして読者にも理解できるような常識的な判断の余地を残しながらあえてそれを否定していること。
さらに「憎悪」を引き起こした事態が解決していないのに、その後で急速に冷めてしまうこと
「憎悪」のこのような性質は全て、対象となる「悪」が観念的であることを示している。それは「現実的ではない」ということだ。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。
「むしろ、あらゆる悪に対する反感」という「憎悪」の一般化、抽象化は、「憎悪」の対象が具体的ではなく、実体のない幻想としての「悪」であることを表している。
「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」も、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。「勿論、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、冒頭の問題設定がそもそも観念的だったからである。「忘れる」ことは「勿論」だ、というのは、現実に依拠してない難問を、下人が頭の中だけで弄んでいたことを示している。
下人は、幻想としての「悪」という観念に対して憎悪の炎を燃やしている。
だからこそそれは、過剰になりやすい。観念は現実から遊離しているがゆえにしばしば激情を誘発する。イデオロギー闘争が激化しがちなのは、イデオロギーが「観念」的だからである。
例えば、戦争における「敵」もまた、観念によって膨れあがった幻想なのだろう。太平洋戦争における「鬼畜米英」のキャンペーンも、イスラム社会がテロを「聖戦」と呼ぶのも、戦争においては、殲滅すべき敵を現実存在以上のものとみなす必要があるからだ。
下人の「憎悪」の激しさもまた、その対象が観念的だからだ。⑥の、老婆を取り押さえる時に下人を支配する「勇気」は、観念に支配された者の蛮勇である。
観念としての「b 悪」が幻想で膨れあがるとき、それに拮抗する「a 正義感」もまた釣り合いをとるべく膨れあがる。それは内実を伴わない空虚な泡である。下人の「憎悪」は空疎な正義感を燃料として燃え上がる。
続いて「得意と満足」がおとずれる。ここでもまたその変化は、理由が明らかになる前に生じている。つまりこれらの心理は、対象の善悪についての現実的・合理的な判断に基づいていないのである。その「満足」は、事態の根本的な改善には何ら関係のない自己「満足」だ。
現実に依拠していない激情は熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から空虚な幻想だったからである。
「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」というのは、つまり髪を抜くという行為に何か禍々しい理由のあることを期待していたことの裏返しにほかならないが、これも、下人が「憎悪」を抱いていた「悪」が、幻想として膨れあがっていたことを示している。
「悪」が現実的な、卑小なものであることがわかると、幻想に拮抗して膨れあがった自らの「正義」が萎んでしまって、下人はがっかりする。自分が正義であると信ずることは快感だったのだ。
そして浮上してくるのは再び⑧「憎悪」である。⑤がふくれあがった幻想としての「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、⑧の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」である。悪は「憎悪」の対象であるとともに「侮蔑」の対象にもなったのだ。先ほどの⑤と⑧の「憎悪」の比較によって確認された共通点と相違点は、すべてこうして説明できる。
そうした下人の変化が分かっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。老婆の語る「悪の容認の論理」が下人に口実を与え「勇気」を生んだわけではない。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めて(醒めて)いく(老婆の話を「冷然として」聞く)。
下人の現状認識は最初から観念的だった。
「極限状況」もいささか観念的にとらえられているが、同時に現実の問題でもある。
それよりも「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定こそ観念的なのだ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するような「問題」は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのである。
老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。
「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認である。ここに付せられた「嘲るように」という形容は、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲である。
つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられているのである。
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