2021年4月7日水曜日

羅生門 1 再読の意義

 年度の冒頭は、1年半前に読んだ文章を再読する。

 なんのために?

 読むこと、議論することに対する頭の使い方、つまり国語力が、どれほど当時とは変わったか、各自、自分の成長を実感してほしいからだ。

 もちろん、読解の行き着く先は前回と同じではない。読解内容そのものを再現するつもりはない。当時とは違った自分たちの力を実感しながら、考察の先に広がる新しい光景に出会うことを期待してもいる。


 どんな文章を授業で読むにせよ、常に共通した思考の目標は、とりあえずは「この文章は何を言っているか」と考えることだ。

 これは「とりあえず」に過ぎない。実際には、その文章から得られた認識を現実世界にどう応用するか、といった思考が求められるのだし、自らも発信することも必要になることがあるのは言うまでもない。

 とはいえテキストを目の前にして「とりあえず」は「何を言っているか」を考えることは、当面の目標である。

 同時に、これは思考の目標であり、学習の、授業の目標ではない。授業を通して「この文章は何を言っているか」が理解されることが求められているわけではない。

 学習の、授業の目標は国語力を伸張することだ。

 だから授業者は「この文章は何を言っているか」を解説するなどして、皆に理解させることを目標とはしない。それは皆が自分で考えるべきことだ。そこで提示されたテキストについて、みんなは「この文章は何を言っているか」と考えなくてはならない。そうした思考が、国語力の伸張という学習の目標へ向けて踏み出す第一歩だからだ。


 同じ文章を読み返しても、そこに立ち上がってくる認識はそのたび違う。

 それは切り口の問題でもある。昨年度も、1年の教科書に載っている鈴木孝夫「ものとことば」、内山節「不均等な時間」を、別のテキストと読み比べるために読み返した。そうして読む文章の「意味」は、それぞれの文章を単独で読んだときとは違うはずだ。

 また、昨年書いたように、テキストの「意味」とは常にテキストと読者との間に生ずる一回性の出来事だ。そこから立ち上がってくる認識はそのたびに変化する。だから、読者であるみんなが変わっていたら、既にテキストの「意味」は変わっているはずなのだ。

 変わっていなければならない。


 そのことを実感してもらうために再読するのは、「羅生門」だ。

 えっ、今頃また!? と思ってほしかったのだが、必ずしも反応が明らかではなかったのは、まだみんな新しいクラスに遠慮しているのかもしれない。

 授業で扱う文章は、長い文章の一部が切り取られている場合もある。とりわけ評論ではそういう場合が多い。小説でも「こころ」などのように、一部しか授業で扱わない場合もある。テストでは基本的に小説でも一部が切り取られて出題される。

 どうであれ、そこに提示されている範囲のテキストについてとりあえずは「何を言っているか」を読み取ろうと思考するという意味では評論と小説に違いはない。

 だが、「羅生門」のように完結した小説の読解には、評論の読解とは違った思考の方向性が求められる場合があるのも確かだ。評論のように、筆者の主張を読み取る、というほど単純な方向性では読解していけない。

 「単純な」というのは「簡単な」ということではない。難しい評論は難しい。だがやることは「筆者の主張を読み取る」ことであることは間違いなく、その意味では「単純」なのだ。

 ところが小説の読解は、そもそも「筆者の主張」などというものがテキストに書かれているわけではない。仮にそういうものが創作の原点にあったとしても、完成した作品がそれを体現しているとは限らない。

 とりあえずどのような出来事が起こっているのか、誰が何をしているかが具象レベルで把握できたとしても、それがその小説の「意味」を表わしているわけではない。小説の読解は、そうした出来事の具体的な表れの上に、ある抽象的な「意味」を見出す思考だ。


 昨年度の読解で、そのことが最も強く感じられたのは、「少年という名のメカ」だったはずだ。

 「こころ」や「山月記」は、そこに描かれている問題がどのようなものかは、比較的わかりやすいと感じられる(もちろん「こころ」は実はそんなに単純ではないのだし、「山月記」は「わかった」ことを言葉にするのが難しいのだが)。

 それに比べて「少年という名のメカ」を読むことは、まずそれをどのような枠組みで読むべきかが自明でないという点で大いなる困難があった。一読して、まずは「何これ?」という感じなのだ。

 だから、「少年という名のメカ」の読解においては、その「枠組み」をめぐる考察そのものが問題であった。


 「羅生門」は「少年という名のメカ」ほどの奇矯さは感じないかもしれない。だが「こころ」「山月記」よりはよほど、「わからない」と感じられて然るべき小説だ。

 既に授業を通じて読んだみんなは、「羅生門」が「わかっている」のだろうか?


 「羅生門」は、そこに起こるドラマのありようを具体レベルで受け取ることはできる。舞台も時間も(時代も季節も)、下人が何をしているのかもわかる。心理も詳細に描写されている。

 だが、だからといってそれが、小説として「何を言っているか」は自明だと言えるだろうか?


 いや、もったいぶってそんなふうに言わなくてもいい。自明ならば授業で取り上げる必要はないのだ。小説は娯楽だ。あるいは芸術だ。ただ読んで楽しめば良い。

 だが「羅生門」という小説が「何を言っているか」は自明なはずはない、というのが授業者の見込みである。「羅生門」は「わからない」はずなのだ。だからまずそこを目指して読解する(「わかる」から出発したとしても、その問題を何か別の問題に結びつけるとか、その魅力がどのようにして生まれているかを考えるとか、読解-考察の可能性は「わかる」で終わるわけではないのだが)。

 年度初めの再読として読む「羅生門」は、とりあえずはこの「これは何を言っている小説か」だけを考える。

 勿論「教える」わけではない。テキスト情報をどのように解釈することが、どのような「意味」として把握されるかを考えるのだ。みんな自身が。

 そのことを通して、テキスト読解の経験値のこれまでの積み重ねが、当時とはいかに違った読解を可能にするかを実感してもらいたい。


 はたして「羅生門」とは、何を言っている小説か?


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