2020年12月29日火曜日

国語に正解はない?

 「国語に正解はない」という言説をしばしば目にすることがある。「解釈は人それぞれ」などともいう。
 こういうことを門外漢が言う分には罪がないのだが、しばしば国語教師がそういうことを言うこともあり、経験上そういう人は国語教師として誠実か不誠実かどちらかだ。

 国語のテストの問題に正解はあるか?
 しばしば大学入試の問題にも、その正解をめぐって批判が寄せられることがある。多くの場合はその出題の妥当性、解答の限定力の弱さをめぐる批判だが、極端な場合は選択問題でさえ、どれが正解かをめぐって意見の相違がある(そこでは作問者でさえ特権的な立場ではいられない)。
 確かに国語という教科は、そうした問題となる「問題」を完全に払拭することはできない。そういう意味で確かに「国語に正解はない」。
 だがテストにはマルバツがつく。つけねばならない。

 とはいえ「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」という言説は、多くの場合テストに対してではなく、授業を対象にして使われる。さらに言えばそれは評論よりも文学作品を対象にした(とりわけを扱った)授業に対して使われることが多い。
 そうしたときに上記の様な言説が不誠実に発せられていると思うのは、しばしば「正解はない」「人それぞれ」と言うことが、厳密な解釈をしない口実として使われているからだ。
 そういう教師こそ、一方でテストでは、躊躇なくバツをつける。それは「国語に正解はない」という言説と一見相反するようにみえる。
 だが国語に正解はないと言いつのることと、予定された正解以外の答えにあっさりとバツをつけることとは、実は論理的に同じことだ。どちらも厳密な解釈をしようと努力しないという姿勢の表れなのだ。

 だがもちろん「国語に正解はない」し、「解釈は人それぞれ」だ。
 そもそも国語の「正解」って何だ?
 国語の「正解」とは多数決で決まるような、最大公約数的な解釈だ。投票権があるのは「国語力が高い」と想定されている人ばかりだとはいえ、多数決なのだから、少数の反対意見はいつだって残る。それを指して「解釈は人それぞれ」ということもできる。

 一方で、テストが正解不正解を振り分けることを目的とするなら、「正解」を定めないわけにはいかない。
 だからテストで問うことができるのはとても単純なことだ。少数の反対意見が残ったりしないような(可能な限り、ではある)。
 だから文学作品、とりわけ詩の作品としての解釈などテストで出題できない。「正解」など定めようもないし、定めることよりも、解釈は人それぞれであることの方が面白い。
 だからといって「解釈は人それぞれ」でいいのか?

 一般に「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」といった言い方で表されていることには、次の3点の要素が混ざっている。

  1. テクスト(=言説)は意味を一つに限定できない(テクストには多義性がある)。
  2. 読解という現象はテクストと読み手の間で起こる。
  3. 人の好みは人それぞれ。

 テクストは多義性をもっている。
 例えば、アンデルセン童話「醜いアヒルの子」の題名は、二つの意味に解釈できる。「醜い」という形容が「アヒル」に係っているか、「子」に係っているか、どちらと見做すかによって、このテクストは意味を変える。
 主人公であるアヒルの雛は他のアヒルの子供たちと違って一羽だけ醜いのかもしれない。
 だが、醜いお母さんアヒルから生まれた雛が主人公ならば、彼はたぶん可愛いのだろう。
 さらに「醜いアヒル」という係り方に限定してみても、その親アヒルが醜いと言っているだけなのか、アヒルという鳥は一般的に醜いと言っているのかは決定できない。
 「醜いアヒルの子」という言表は、それ自身が複数の異なった意味を発生させてしまい、彼が可愛いのか醜いのか(アヒルが一般的に醜いのか否か)を確定させない。
 もちろんテクストの意味は文脈の中で確定されることがある。テクスト内情報相互がそれぞれの「文脈」として互いを有意味化する。だからこの童話の題名が意味するところは、内容と合わせて考えればどちらか判断できる。彼は雛のうちは他のアヒルの雛よりも醜かったのだ。そして美しい白鳥の成鳥になったのだ。
 そうした、文脈の中で意味を捉えようとする思考を「読解」というのである。

 それでもテクストの意味はどこまでも確定しきれるわけではない。関連項目が増えれば、多義性一方で収束し他方で拡大する。消滅はしない。
 加えて、そもそも「読解」するときの「文脈」はテクスト内情報だけに限らず、読み手自身の持っている情報をも含む。どんな人がいつ読むかで、テクストはその意味を変える(1年の教科書に載っていた角田光代の「旅する本」は、それが劇的に展開する物語だ)。
 つまりテクストの「意味」は、テクストの中に元々あるのではなく、読者の中で、その都度作られるものなのだ(ここで「『である』ことと『する』こと」のプディングの味の喩えを思い出そう。プディングの味はプディングに内在するのではなく、食べる時にその都度作られる)。
 だから読解とは必ず一回性の、個別的なものだ。
 これは「読者論」「受容理論」として知られた考え方だ(皆が読んだはずの『寝ながら学べる構造主義』にロラン・バルトの思想として紹介されていたのではなかろうか)。

 「解釈は人それぞれ」という言い方には、こうした1と2の考え方が曖昧に混ざっている。それは否定すべくもなく正しいが、だからといってそれでいいのか?
 この言葉は、多くの場合使い方が間違っている。授業とは、そもそも「人それぞれ」であるような解釈を持ち寄って検討し、そこに合意を作ろうとする場なのだ(もちろん「正解」を教える場でなどあるわけがない)。「解釈は人それぞれ」だから統一しなくていい、ではなく、「解釈は人それぞれ」だから合意を形成しよう、であるはずだ。
 だが「解釈は人それぞれ」という言説は、往々にして合意をはかる努力を怠る方向にはたらいている(中国や韓国との間で度々揉める歴史解釈の問題もそうだ)。
 そして「国語に正解はない」と言うことは、テクストの意味の多義性、もっといえば可能性を本気で探ろうとはしない姿勢に結びつく。

 だが「人それぞれ」でいいのは「解釈」ではなく「好み」なのだ。
 好みこそは「人それぞれ」であっていい。あるしかない。
 厳密な解釈の上でそれでも残る多義性については、それぞれの読者が好みで選べばいい。


 我々は、みんなが集まった授業という場において、こうした、テクストの多義性に潜む可能性最大限探ることと、それらの妥当性についての合意を形成することを目指しているのである。だから本授業者の提示する読解は「正解」ではないし、それに異論を提起することは、本当に有益だ。
 もちろん少数意見が残ってもいい。ましてそれぞれの好みの違いはそれぞれであっていいに決まっている。
 だがそれぞれの好みは、それぞれの解釈の妥当性を厳密に探ろうとした果てにしか本当には尊重されない。それぞれの解釈の違い放置することは、尊重ではなく軽視だ。

 だから議論が1,2,3のどの局面に関わるものなのかを意識しつつ、多様性を認めることと合意を形成することを同様に目指すべきなのだ。
 そうした姿勢を指して「国語に正解はない」「解釈は人それぞれ」というのなら、それは国語教師として誠実だと思う。


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