2020年12月25日金曜日

こころ 54 補遺「死んだ血潮」

 第3回の定期考査の後に出した課題は、時間のないところだったが、皆よく取り組んで回答したと思う。

 とはいえその回答の多くは、想定の範囲内でもある。

 Kの自殺の動機にしろ主題にしろ、問題はそこまでの材料集めで、お膳立てが済んでしまえば、できあがりまではあと一歩だ。Kは淋しくて死んだのだ、という五十三章の一節を紹介してしまえば、それでもうそのまま答えになってしまう。

 だが皆がそれを出し合って初めて「Kは二日間、私が話すのを待っていたのか」「『もっと早く』とはいつのことか」といった問題点が思いがけず浮かび上がり、「淋しさ」をKの死因として提示することの問題点があらためて授業者には認識されたのだった。

 「こころ」を、「エゴイズム」を主題とする小説だと読むことと、心のすれ違いを主題とする小説だと読むことは全く違った読解体験だと思う。だがそれが、作者のミスリードにしたがって読むのか、授業者の「ミスリード」にしたがって読むのか、という違いでしかないようなことには、どうかなってほしくない、と思う。

 長い読解過程でも、作者のミスリードを指摘しつつ、何度も授業者自身が意図的に「ミスリード」をして、それをひっくり返したりした。

 そうした過程で、どうか、自分で読むという姿勢をあらためて皆がそれぞれ自覚してほしいと思う。


 さて、Kの自殺の動機にしろ主題にしろ、予定されたところに皆が至るだろうことを想定した上で、それ以上のものを提示してやろうとの野心から「もう一つの主題」を考えておいて、それを提示して授業を終えた。

 だが、ここまでの考察を終えて、さて振り返って最初の課題でKの自殺の動機と主題を考えた時に、意外なほど最終的な結論に近いことを最初から言っていた者がいるのも面白い。本人には自覚があるだろうか?

 聞いてみると大抵本人には自覚がない。

 だが、そう表現されているその認識は、こう表現されているこの認識とどう違うのか(同じなのか)に対して皆もっと敏感になってもいい。

 たとえば国語のテストの記述問題であれ選択問題であれ、問われているのは、その正確さへの鋭敏な感覚なのだし、自分の考えと他人の考えが同じなのか違うのかを判断することは、大げさに言えば「生きる力」でもある。たかが一文学作品の読解の問題ではない。


 さて、授業で検討しきれなかった問題を提示してくれた考察を紹介する。


 Kの自殺を「現実と理想の衝突」つまり道を貫きたいけど外れてしまったことをひとつの理由だとして重点的に考える。Kは道を貫きたいがために「尊い過去」(P193下段2行目)にとらわれている。「私」もまたKとの過去にとらわれている。私は天皇が崩御し乃木大将が殉死したのをきっかけに新しい時代、未来が始まる前に自殺をする。Kも奥さんに結婚のことを聞かされたことをきっかけに私とお嬢さんの結婚生活、大きくいえば新しい時代、未来が始まる前に自殺をする。こう考えると私がKと同じ道を歩んでることがはっきりと分かる。尊い過去=道を貫ぬいてきた今までの自分だとすると、Kは未来が始まる前に過去に留まることで最後まで道を貫こうとしたのではないか。


 H組のOYさん。

 もちろんこれに続けて「淋しさ」についても考察しているが、上に示されたようなKの姿勢を、彼女は10月の最初の課題や「覚悟」の考察の時から一貫して主張していた。

 ここで示されるKの姿はいわば「孤高」である。もちろんそれは「孤独」でもある。だが「淋しくて死んだ」というような言い方でイメージされるKに比べて、ここに示されるKはなんと誇り高いことか。


 もう一つ。

 Kは孤独で死んだのだという説明に、授業後に異論を唱えてきたB組のTMさんの問いかけは実に興味深い。

 Kの自殺の動機を「たった一人で淋しい」と「私」=先生は考える。そして「Kの歩いた道を、Kと同じように辿(たど)っている」とも考える。ということは二人の自殺の動機はともに「孤独」ということになる。

 だが一方で奥さん(遺書の中のお嬢さん)に話せない先生は孤独だとは言えるが、大学生の「私」(「上」「中」の語り手)に対しては「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしている」ではないか。それを受け止める相手がいるのに、なぜ自殺するのか?

 なるほど。鋭い指摘だ。

 どう考えればいいのか?


 連想したのはH組のYAさんの次のような考察だ。

 別のプリントで配られた二章に「私はその時心のうちで初めてあなたを尊敬した。」とある。そしてその後「あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、暖かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。」と続く。ここから、生きた心臓を立ち割り、血潮を啜ろうとする行為が「私」の中で尊敬に値するものだと捉えられていることが読み取れる。それは一体何故か。「私」がKに対して行っていない行為だからではないだろうか。「私」からKに対してお嬢さんのへの恋心という血潮を注ごうとしたことはある(その際はKに弾かれたと感じている)。しかし逆に「私」からKに対して自ら血潮を啜ろうとしたことはなく、それは「私」から襖を開けることがなかったことと同様にKに孤独感を植え付ける要因の一つとなっているのではないか。

 この直後に「その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。(中略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。」とある。この時の血潮と「私」からKに注ごうとしたお嬢さんの恋心という血潮とを合わせて考えてみる。この小説の中では生きている時に注がれようとする”生きた血潮”が相手に届くことはなく、Kや「私」が自ら心臓を立ち割ったあとの”死んだ血潮”のみ相手に届いている。そう考えるとそれも互いに分かり合えない自閉した「こころ」を表しているようで悲しく感じる。


 ここにある「死んだ血潮」という表現からさらに連想したのは、画期的な「こころ」論で有名な小森陽一(東大名誉教授)の論考にあった指摘だ。今手元にないので引用できないのだが、趣旨は次のようなものだ。

 先生は大学生の「私」に求められ、心を動かされて秘密を明かす気になるが、その時「私」は父親の病気のために郷里に帰っている。それで先生は遺書を書き出す。この遺書が「こころ」第三部「下」だ。

 もしも先生が、遺書に書いたのと同じ内容を直接「私」に話していれば、先生は自殺していないだろうと小森氏は言う。直接話すのではなく、遺書を書いてしまったから、先生は自殺するのだ、と(尤も、この遺書の中で、あなた=「私」が東京に戻る頃にはもう私=先生は自殺してこの世にいないだろうと書かれているが、小説はそこまでの結末を場面として描くことはなく、遺書の終わりとともに小説自体も終わるから、「私」が先生の死の間際に東京に帰り着き、先生の自殺を止めるというハッピーエンドを夢想することはできる)

 この指摘には胸を衝かれた。なるほど。

 「話す」ことと「書く」ことは違うのだ。

 あれだけの告白をするには相当な時間もかかるだろうし、それを聞く相手は相鎚を打ったり問いを発したり、時には反駁もするかもしれない。そういう相手に面と向かって話した先生はきっと死んだりできないはずだ、と。

 書いている間、相手は目の前にいない。想像の中での読者は、自分が想像した、自分の「こころ」を投影した相手でしかないかもしれない。


 考えてみればKもまた「私」=先生に「話」していたのだった。「恋の自白」も上野公園も、Kが話しているのは自らの「薄志弱行」についてだが、それを話している間は「行く先の望みがない」という結論を実行に移すことはなかった。

 だがそれを遺書に書いてからは、Kは「私」にそのことを話すことはない。

 つまり直接話すことはYAさんのいう「生きた血潮」でありうるが、遺書という形で伝える思想は「死んだ血潮」に過ぎないのだ。遺書では「生きた血潮」を「浴びせかける」ことはできないのだ。

 とすると、Kの「孤独」は、木曜日以降の二日間にのみ生じたのではなく、遺書を書いた、前の週の月曜日から、12日をかけてKの裡に醸成されていったということになる。話すことは問題の根本的な解決になるわけではないが、話していれば、その問題を自閉した意識の中で「一人で」抱え込むことは避けられるのだ。

 だから、直接話す機会を逃して遺書を書くことになってしまった先生=「私」は、やはり「自意識の牢獄」に囚われていたのである。


 ということで、こんなことを「書く」のも授業者としては不本意ではあります。授業で直接皆に話したかった。尤も、上記の考察はTMさんと話している間に思いついたので、そこでは直接話すことができたのですが。

 年明けの授業では、また皆と「話」し合いたいと思います。


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