2020年12月13日日曜日

こころ 53 もう一つの主題「遅れ」

 恋の自白の場面と自殺の場面に共通する「ほぼ同じ」「感じ」とは、「私」とKの「こころ」が断絶し、それぞれが「たった一人」になった瞬間が突然訪れたということだ。

 こうした「黒い光」を「孤独」の象徴として見る解釈は、「こころ」の主題「意思疎通の不全」と捉えることとも整合する。

 それはKの自殺に至る心理の考察から導かれた結論と一致する。


 確かにこの瞬間、二人は断絶し、「孤独」が決定づけられた。

 だが、「私」にはそのことがこの時直ちに認識されたのだろうか?

 そうした認識は後から徐々に形をなしていくのではないか?

 Kの自己所決に「二日余り」が必要だったように、「私」がそうした認識にいたるのにも10年あまりの時間が必要だった。

 これらの瞬間に「私」を襲った「感じ」、すなわち「しまった」「先を越された」「もう取り返しがつかない」の感触は、直ちに「孤独」と言うだけにとどまらない、ある切迫感がある。

 「私」はこの時、何事か致命的な境界を越えてしまったことが瞬間的に感知される、ある不気味な裂け目を覗きこんだのだ。

 それがどのようなものかを解き明かすためのキーワードが「遅れ」である。


 二つの場面で「私」はなぜその瞬間に「もう取り返しがつかない」と認識することができたのか。

 それは、どちらの場面も「私」は単なる受け身の状態で不意打ちを食らっているわけではなく、「私」自身は自分がすべきことを自覚しているからだ。

 三十六章では、房総旅行以前から、Kよりも先に「私」こそお嬢さんへの思いを相手に伝えなければならないと思い続けていたのだし、Kの自殺の前にも四十七章では、「私はどうしても前へ出ずにはいられなかったのです。」とKへの釈明に迫られている。

 こうした強迫意識が、どちらの場面でもいわば意識下の「予覚」のような形で迫ってくる。後ろから追われているような焦燥感が、事態の展開への予感のようなものとして感じられている。

 だからこそ「私」にはその先に陥る窮境が、聞いた刹那にわかってしまう。Kから恋の告白を聞いてしまった以上、もう自分からは言えない。Kの自殺を発見した場面でもKや奥さんお嬢さんに釈明する機会は永遠に失われてしまったのだ。

 意識下でそうした展開を恐れていたからこそ、そうした悟りは、刹那におとずれる。


 注意すべきなのは、だからといって、そうなることを予め知ることはできない、という点だ。そうなって初めてそうした状況におかれることの意味がわかるのである。「まるでなかった」のは、Kの告白を聞かされる「予覚」というばかりではなく、聞かされた後に訪れるこうした状況の意味する、致命的な身動きのとれなさに対する「予覚」である。

 そうした「予覚」をもてなかった「私」は、事態の展開に致命的に「遅れ」ている。


 この認識は、保留にしていた、なぜ「私」はKの告白に続けて自分のお嬢さんに対する思いを告白できなかったのか、という問題に対する一つの解答を可能にする。

 Kには敵わないと思うから、実は自分も、と言い出せないのだという説明は、おそらく間違ってはいないが、「利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も言えなかったのです。」という不可解な記述と微妙に食い違う。

 衝撃のあまり言い出せなかったのだ、というのも間違いではないかもしれないが、そのことがなぜ重要なことなのかを説明していない。 

 問題は、なぜその時言い出せなかったか、というだけではない。なぜその後も言い出せないのか、だ。

 Kに敵わないという認識は変わっていないのだから、告白の瞬間に限らず「言えない」状態は継続する。

 また、Kが死んでしまっては「言えない」ことに何の不思議もない。

 だがそれだけではない。次のような記述は、この「言えない」に、複数の場面で共通する性質があることを物語っている。

私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が遅れてしまったという気も起こりました。なぜさっきKの言葉を遮って、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手ぬかりのように見えてきました。せめてKの後に続いて、自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかったろうにとも考えました。Kの自白に一段落がついた今となって、こっちからまた同じことを切り出すのは、どう思案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。(三十七章 182頁)


要するに私は正直な道を歩くつもりで、つい足を滑らしたばかものでした。…しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑ったことをぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑ったことを隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ちすくみました。(四十七章 202頁)


 二つの記述に共通する構造は何か?


 四十七章の「足を滑らした」は「言わずにいる/言えなくなる」ことを指していると考えられる。とすれば、どちらも「言わなければいけないが、言えない」理由が述べられている。

 両者に共通する「言えない」理由を端的に表現するならば、前に言わなかったから、だ。

 この先言うためには、なぜあの時は言わなかったのか、という疑問に答えなければならなくなる。つまり「言わなかった」こと自体を隠さなければならない。


 これはいわゆる悪循環である。言わなかったという結果が言えなくなることの原因になるという、循環した因果関係をつくっている。

 だから「言えなかった」という事実が「利害を考えて黙っていた」のではなく、「ただ」「言えなかった」のだという三十七章の説明は、この場面で「言えなかった」ことに必然性を認めるような理由があったのだという説明よりも、この「遅れ」の感触を強調している。

 同様に、上に引用した四十七章の「足を滑らした」に「つい」という、見ようによっては無責任な副詞が冠せられているのも、同じニュアンスだと考えると腑に落ちる。

 「私」は「正直な道を歩くつもり」だったというが、そのような「つもり」がどこに存在したというのか。

 だが「私」の自覚としてはそうなのだ。そして「足を滑らした=黙っていた」ことは「つい」なのだ。

 まずとにかくそのことが起こる。そしてそのことのもつ意味は「遅れ」てわかってくる。

「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」(「上/十四」)

 先にも引用した一節だ。

 これは主に奥さんへの談判を指していると思われるが、上記の状況に重ねて言うならば「私」は「いや考えたんじゃない。言わなかったんです。」とでもいうことになる(「談判」もまた「言わずにやった」のである)。


 だが、「言わなかった」ことが「もう言えない」になることを、「私」は予め知ることができない。そうなってから「遅れ」て、そのことを知るのだ。

 そしてこの「遅れ」が何をもたらすかも。


 「私」はこの時、自らも恋の告白を口にできなかったことで、この後のお嬢さんをめぐるKとの争いは決定的に困難な状況におかれることになる。これ以降、Kに対する秘密を抱えたままで全ての行動をおこなわなければならない。

 それは、「私」にはもう正当な手段でお嬢さんを手に入れることができないということを意味する。

 といって人知れずお嬢さんへの思いを断ち切ることはできない。それは愛するお嬢さんを失うというだけでなく、Kに対する敗北をも意味するからだ。

 つまり「私」は、自身の選択に決定的な制約を受け続ける事態の中で、しかし断念することもできずに宙吊りにされるのである(D組では「ジレンマ」と表現された)。


 また、Kが自殺してしまった今、Kに対する謝罪は勿論、後に妻になるお嬢さんにすら、このことを釈明することはできない。Kに謝罪できないままKに死なれてしまうということは、損なわれてしまった「倫理的に正しい自分」という自己イメージを取り戻せないということであり、しかもそのことをこの先、自分の妻に告白することもできないまま生きていかなければならないということである。お嬢さんとの結婚が実現に向かって進んでいくにもかかわらず、そのことを公明正大に喜ぶことはできないのである。

 ここでも、可能性の喪失はすぐさま完全な断念に決着せずに宙吊り状態におかれることになる。


 この宙吊り状態も、悪循環の再帰性も、「山月記」の李徴の陥っている状況に似ている。李徴もまた、エゴイスティックになろうとしながら、まるで自由にはなれなかった人だった。


 恋の自白も自殺も、Kがそれをすることに対する「予覚」が無論あるはずはないが、それよりも問題はそれによって引き起こされる事態への「予覚」である。「私」はそのことについて周囲の人に「言えない」状態に陥るが、同時にそれは常に中途半端な宙吊り状態として「私」を捉え続ける。

 もちろん常に「言えばよかったのに」とは言える。そのことが潜在的であれ、予想ができていたのなら、そんなことは事前に充分に想定しておくべきだったのだ、などと「私」を断罪したり侮蔑したりすることもできる(そういう言説を目にすることがある)。

 だがそれは、人間の理性に対する過度の要求だ。

 「私」は事態の展開に致命的に「遅れ」ている。「遅れ」は、その事が終わってから、つまり「遅れ」たという事実が生じた後に確定されるしかない。


 この「遅れ」は不可知であり、それゆえ不可避である。

 にもかかわらず、もっと早く行動を起こしていれば良かったのに、という後悔は猛然と襲ってくる。前もってそうした展開を想定すべきだったのではないかという非難が、誰知らず聞こえてくる。

 「私」はこの時、いわば相手がゴールした後で、実はそれまで競走をしていたのであり、それはもう終わってしまったのだということを初めて知らされたのである。

 後には永遠に敗者となるべき結果だけが示されている。

 確かに走っていた自覚はある。だがそれがゴールの設定された、対戦相手の存在する競走であることは知らされていない。ただゴールも意識されぬまま「早く」という焦りだけが「私」を動かしていたのだ。そして相手がゴールした後で、もっと急げば良かったという後悔が襲ってくる。

 だがこれは実はKとの競走でもない。「先を越された」のは、Kに、ではない。Kは「私」よりも早く告白しようなどとはしていないし、先に告白したことによる何らの利益も得ていない。

 Kもまた敗者だったのであり、誰を勝者とすることもなくただ「もう取り返しがつかない」結果だけが走者たちの前に投げ出されるのである。

 「予覚」もないところに「後悔・悔恨」を想定するのは暢気に過ぎる。競走の自覚のなかった走者たちには、レースの終了は不意打ちでしかないのだから。


 こうした考察からは「黒い光」をどのように捉えられるか?


 「取り返しがつかない」というのは、レースの終了によって「私」が陥る状況を指すのだから、恋の自白の場面では、先にKに自白されてしまったことによって恋の競争において決定的な劣勢におかれてしまうことであり、自殺の発見の場面では、Kやお嬢さんに対する釈明の機会を失ったことである。

 そして先に見た「黒い光」=「自意識の牢獄」に囚われてしまうことである。

 物語の構造から考えてみた時、この「黒い光」が象徴する未来への影は、単なる「罪悪感」として「私」一人が背負うべきものでなく、登場人物すべてに投げかけられた、不可避的な運命の決定不能性に対する人間の無力さ、とでもいったようなものだ。

 この「黒い光」は、恋の自白の場面や自殺の場面だけでなく、無論、奥さんがKに婚約の件を話してしまったことを奥さんから聞く、土曜日の昼間の場面にも射している。それだけではない。上野公園の散歩の最中の会話の中でも、夜にKに声をかけられた時にも、談判をした時にも、夕飯の席でそのことを言えなかった時にも、常に「黒い光」はかすかに「私」を照らしている。我々は常に状況に縛られて、そうせざるをえないようにふるまっているのであり、事態の展開に常に「遅れ」ているのである。


 「エゴイズム」が主題だと考えるということは、「私」が自らに利するように何事かを選択し、行動しているとみなすことだ。

 だが「私」の行動は、いつも事態に「遅れ」、それに縛られるようにして決定されていく。

 とするとすれば「こころ」という小説は、主体的な選択をする自律した近代的個人のエゴイズムを描いているかのように見えながら、その実、運命に弄ばれるようにして事態の展開に「遅れ」続ける人間を描くことで、大げさに言えば「近代理性への疑義」を表明しているのである。

 これが「こころ」という作品から見出される、もう一つの主題である。


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