2020年12月7日月曜日

こころ 48 「黒い光」=「罪悪感」という誤謬

 「こころ」には、互いにわかり合えない自閉した「こころ」のありようとともに、もうひとつの「こころ」のありようが描かれている。

 それを考える糸口となるのは、「私」がKの自殺を発見することになる四十八章の次の記述に見られる「黒い光」というきわめて印象的な表現である。

その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中をひと目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああしまったと思いました。もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。(204頁)


 まずは率直に聞いてみよう。

「黒い光」とは何か?


 この問いに対する一般的な答えは次のようなものである。

 この時「私」のこころを襲ったものは、自らの「エゴイズム」によって友人を死に追いやってしまった「罪悪感」から一生逃れることができないという絶望(恐怖・後悔)である。「黒い光」はこの「罪悪感」を象徴している…。

 こうした説明は不審なものとは感じられない。「罪の意識」「良心の呵責」「自責の念」「絶望」「恐怖」「後悔」などのバリエーションはあろうが、いずれも内容的にはそれほど差はない。


 こうした解釈は考えるまでもなく自然に想起される。

 だがこのような説明に納得していてはいけない。

 こうした説明が不適切であることは論証できるのだが、まずはこれまでの授業の考察から、こうした説明に違和感を覚えなければならない。

 「黒い光」=「罪悪感」という解釈はなぜ不適切か?


 Kの死は結局はK自身の問題に過ぎない。「私」は決して、「私」が考えているような意味ではKを「死に追いやって」などいない。Kは上野公園の散歩の時点で既に「自己所決(自殺)の覚悟」があると言っていたではないか。

 もちろん「私」は、自身が自覚していないような意味で、やはりKを「死に追いやって」はいる。上野公園の会話における「精神的に向上心のないものはばかだ」や「心でそれをやめる覚悟がなければ」がKを追い詰め、自己所決の「覚悟」を再確認させたのだし、Kがその「覚悟」を実行に移すにあたっては、やはり「私」が重大な役割を負っている。

 だがそのことをこの時の「私」が知ることはできない。

 つまり「私」のこの時抱いている罪悪感は、物語全体から言えば、あくまでも勘違いなのである。

 「私」自身、この時点での「私」について「Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐきめてしまったのです」(「下/五十三」)と、後に反省を込めて自らその勘違いを認めている。

 とすると「私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました」などという大仰な表現で自らの罪悪感を表明するのは、まるで間抜けな田舎芝居のようなものではないか。「私」ばかりが自らの罪を引き受ける悲劇を悲痛な身振りで演じているが、そんな罪は存在しないのである。

 もちろんこのとき「私」が罪悪感を感じていることは確かだし、それが「私」に重くのしかかる未来を見ていることも間違いない。

 だがそれはあくまでこの瞬間の「私」の主観に限定していえることであって、物語全体から見ればあくまでも勘違いである。読者も、うっかりその勘違いにのせられてその罪の重さにおののいてしまったりするが、そんなことが正しい「文学」的享受であるわけではない。

 「黒い光」を「罪悪感」と見なすことは、この表現の重さ故に、反動として滑稽にならざるをえない。


 こうした解釈もまた「エゴイズム」主題観に基づいている。

 「黒い光」について考察することも、そうしたわかりやすい解釈の罠から逃れる一つの有効な道筋である。


 「黒い光」が「罪悪感」ではないことは、教科書所収の章段以外の部分からも論証できる。

 問題の四十八章に続く四十九章に次の一節がある。

私は忽然と冷たくなったこの友だちによって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです(205頁)。


 この一節は「黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。」と響き合っているような印象がある。

 ここまでならば、まだ「黒い光」を「罪悪感」だとみなすことは可能だ。

 だがここに次の一節を併せて考えたらどうだろう。

同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。(略)私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまたぞっとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横ぎり始めたからです。(五十三章)

 先に、Kの自殺にいたる心理を考えた際にも読んだ一節だ(プリント参照)。

 間に次の一節をはさんでもいい。

けれども私の幸福には黒い影が随いていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。(五十一章)


 「黒い光」は「一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照ら」す。

 それは「この友だちによって暗示された運命の恐ろしさ」だろう。

 そして「黒い影」が「私を悲しい運命に連れて行く」。

 その「運命」は「Kと同じように辿っている」「Kの歩いた路」のことだ。


 「私」の自死が「黒い光」に照らされることによって導かれ、これがKの自死と重なるのなら、Kもまた「黒い光」に照らされているということになる。

 ならば、もはや「黒い光」は「エゴイズム」によって犯した罪に対する「罪悪感」と見なすことはできない。

 Kが感じるべき「罪」を想定することはできないからだ。


 あくまで「黒い光」=「罪悪感」だと措定し、「黒い光」はKに射してなどいない、ということは可能だろうか。「同じ」であるのは自死についてだけで「黒い光」はKには無関係なのだ、と。

 だがそんなふうに言うのはいかにも無理だ。

 上の一連の表現を素直に辿るなら、「黒い光」はKをも照らしていると考えるしかない。そう考えてこそ、この印象的な隠喩によって語られる「黒い光」に「滑稽」以上の意味を見出すことができる。

 Kをも照らす「黒い光」とは何か?


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