2020年12月6日日曜日

こころ 44 象徴としての「襖」と「血潮」

 次に考慮すべき点として、二点指摘しておく。「襖」と「血潮」に付せられた象徴的な意味である。

 「私」はKの自殺を発見したとき、四十三章の晩の光景を思い出している。

見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。

画像作成提供 田中慶祐先生

 襖の隙間から見える中の様子に目がいってしまって忘れられてしまいがちだが、「開いています」と書かれている襖はKが開けたものである。したがって、Kの自殺の動機を考える上で、Kがなぜ襖を開け、なぜ開けたままにして自殺したのかを考えないわけにはいかない。

 象徴としての「襖」の意味については、上野公園の散歩の夜のエピソードを考察した授業展開の中で考察した。

 それが意味するものは明白である。これをどのように自殺にいたるKの心理に論理づけるか?


 象徴として描かれるのは襖だけではない。

 まず「私」がKの自殺を発見する直前の次の一節に注目する。

いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。(「四十八」203頁)

 この言及には何の意味があるか?


 不可解なことに言及することで「私」の胸騒ぎを読者にも共有させるのだとか、床の向きを変えた「私」の心理を考えさせる、などという意味もあるのだろうが、この「西枕」の言及にはそれだけでない明確な意図がある。

 教科書収録部分より前の本文の記述から、下宿の部屋の間取りについては推測できる。南側の庭に面して、Kの部屋と「私」の部屋は東西に並んでいる。Kの部屋が西、「私」の部屋が東である。



 つまり西枕にしたということは、「私」は頭をKの部屋の方に向けて寝ていたということになる。

 間取りを正確に認識していなくとも、続く一文「私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。」と合わせて考えたとき、そのことはわかる。

 枕の向きへの言及はこの、頭の向きの意味への注意を読者に対して喚起している。

 ではこのことの「意味」とは何か?


 次に結びつけるべき要素は、いくぶん離れている。四十八章の終わりである。

そうして振り返って、にほとばしっている血潮をはじめて見たのです(205頁)。


 死んだKをいたましく思いつつ、自らの罪の重さに震える「私」の目に映る光景として映像的に鮮烈な印象を与える一節である。

 だが、この映像にうかうかと衝撃を受けていてはいけない。ここには見落としてはならない象徴的な意味があると考えるべきである。

 「振り返って」というのだが、「私」がその時どこを向いているかはわからない。したがって自分の部屋の方向を見たという解釈しかできない。

 とするとこの襖は「いつも立て切ってあるKと私の室との仕切りの襖」だということになる。

 Kは夜分にこの襖を開けて、そうして開けたままにして頸を切った。

 その血が、「私」の寝ている部屋の方向に向かって「ほとばしっている」。

 そしてこの襖は「この間の晩と同じくらい開いてい」る。

 なおかつ「私」の枕はKの部屋に近い側に向けられていた。

 これらの条件からどのような想像が可能か?

 すなわち、Kの首からほとばしった血潮は「私」の部屋まで飛び散ったかもしれない。そして、寝ている「私」の顔にかかったかもしれない。

 これら充分な可能性のある想像は、しかし言及されてはいない(アニメではそれを拡大解釈して、実景として描写していた)。

日本テレビ「青い文学シリーズ」より


 だがこの想像された構図は、次の一節を連想させずにはおかない。

あなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと逼(せま)った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。(略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。(「下/三」)

 ここで「あなた」と呼びかけられているのは、「上」「下」の語り手である「私」である。つまり「先生」の遺書の読者である青年に向かって、「先生」は「自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしている」というのである。

 もちろんこれが現実の血潮を表わしているとは誰も読まない。

 メタファー(隠喩=暗喩)である。

 次の一節にも同種の隠喩が使われている。

 私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎかけようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、悉く弾き返されてしまうのです。(「下/二十九」)

 この場面も、お嬢さんへの恋心をKに話そうと思うのだが、Kは恋愛の話題などに興味を示さない高踏的な態度をとっているので話せない、といった状況を、「血潮」を「注ぎかけようとする」が「弾き返されてしまう」といった暗喩で語っている。

 「私」の枕の向きに言及し、Kの血潮の跡を描写する漱石の頭に、それに先んずるこれらの一節が浮かんでいないはずはない。

 「先生」が青年の顔に「その血を」「浴びせかけようとしている」ことと、Kの「血潮」が「私」の顔の方向に飛び散っていることは、確かに意図的な相似形を成している。普段と違う枕の向きが言及されている理由は他に思いつかない。

 漱石は周到に用意して、Kが自らの血潮を「私」の顔に浴びせかける構図を作り、その象徴的な意味を読者に提示しているのである。


 「襖」も「血潮」も、それが象徴として描かれていることは明白である。

 といってそれはKから「私」への具体的なメッセージを意味するものだとは確定できない。

 Kが実行したのは襖を開け、そのままにしておいたところまでである。それすら明確な意図があったことを示すわけではないかもしれない。まして血潮が飛び散ったのは意図せざる偶然だ。

 「私」が西枕に寝たことですら、特別に「私」の意図したものではない。「偶然」をどう考えるかは問題だが、少なくとも「私」が「血潮」を想定することなどできない。

 だがこのような「襖」と「血潮」の描写が、その意味を読者に対して知らせようという作者の意図を表わしていることは疑いない。登場人物の「気持ち」を考えるだけでなく、作者の心理を考えるならば、これが偶然でないことは明白である。

 このことを組み込んでKの自殺の動機を考えなくてはならない。


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