2020年12月6日日曜日

こころ 42 空白の「二日余り」

 Kの自殺の動機を再考する上で、この小説が読者をどのようにミスリードしているかをはっきりと認識しておくことはきわめて重要である。


 「こころ」という小説の場合、一人称の語り手は作者という創造神の代弁者ではなく、一人の登場人物である。そこで語られる事柄は、あくまで「私」がそのように認識している、ということである。だから「こころ」という小説においては、語り手の認識は括弧に入れて保留しなければならない。

 たとえば次のような一節を、読者はうかうかと読んではならない。

奥さんの言うところを総合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ちついた驚きをもって迎えたらしいのです。(「四十七」202頁)

 婚約の件を奥さんがKに話してしまったと、奥さんに告げられた後の、Kの様子を語る一節である。そしてこの記述の後にKは死んでしまう。

 ここに使われた「最後の打撃」という表現は、婚約という事実がKを死に追いやった原因であることを示している。このような表現によって、読者はそのような因果関係を自然に受け取ってしまう。

 だがこれは「私」が、婚約の件をKに知られることを怖れていたことと、この後すぐにKが死んでしまったことから逆算された因果によって導かれた表現である。

 表現されていることを括弧に入れ、「私」が認識していることを疑ってみるならば、Kが奥さんの話をどのような思いで聞いたのかは、全体の整合性の中で考えなければならない。

 その時浮上するのは、奥さんの話を聞いてからの「二日余り」のKの沈黙である。

 この「二日余り」について考えることこそ、Kの自殺の心理を考えるということだ。

 だがそのことは読者の目から巧妙に隠されている。


 奥さんとの談判によってお嬢さんとの婚約を成立させた「私」は、しかしそのことをKに言い出せない。ためらっているうちに「五、六日」が経ち、ある日「私」は奥さんから、婚約の件を既にKに伝えてしまっていることを唐突に知らされる。いよいよKに釈明せざるをえなくなって、だがなおも決断を明日に先送りにしたその晩、Kは自殺する。

 こうした展開にさらされる読者は、Kは「私」とお嬢さんの婚約を知って自殺したのだ、と受け取る。

 これは「私」とお嬢さんの婚約を奥さんから聞かされてすぐにKが自殺したように感じられるからである。

 だが実際には、Kが婚約を知ってから自殺を決行するまでには「二日余り」の時間が経過している。「すぐ」ではない。にもかかわらず読者の印象としてはあたかも婚約と自殺決行は「すぐ」というほど近接しているように感じられる。


 少々前のことなので「曜日の特定」で考察したことを思い出しておく。

 時間経過に従っていえば、出来事は次の⑤⑥⑦の順(「曜日の特定」の時の通し番号)に起こっている。

⑤木曜日 Kが奥さんから婚約の事実を知らされる

⑥土曜日 「私」が奥さんから⑤の出来事を知らされる

⑦土曜日 Kが自殺する

 「私」ばかりでなく読者も⑥によって初めて⑤の事実を知り、そのほんの数行後には⑦が読者に提示される。だから読者は⑥⑦間と⑤⑦間とを混同して、まるで⑤の直後に⑦が起こったように錯覚してしまう。

 婚約の事実がKにとっての「最後の打撃」と表現されているのも、そうした時間感覚の混乱とそれゆえの因果関係をさりげなく補強するものだ。読者も「私」とともに作者のミスリードの術中にはまっているから、「最後の打撃」という表現に違和感を覚えることなどできはしない。


 このような思い込みにしたがって、「私」はKの残した手紙の内容をあらためずにはおれなくなる。「私」にとってKが死んだのは自分の卑怯な行いのせいであり、その告発をお嬢さんや奥さんに知られてはならないと「私」は思い込んでいる。そんな切迫感に取り憑かれた「私」の行動は、「私」の「エゴイズム」を浮き彫りにしこそすれ、こうした思い込み自体が間違っている可能性から、読者の目を逸らしてしまう。

 手紙の中に「お嬢さんの名前だけはどこにも見え」ないのは、たんにKの自殺の動機にお嬢さんが関係ないからなのに、「Kがわざと回避したのだ」と「私」が考えてしまうから、逆に読者はお嬢さんこそ自殺の要因なのだと受け取ってしまう。


 また、Kの自殺を奥さんに告げに行った際にも思わず「済みません。私が悪かったのです。」と手をついて謝ったり、葬式の際に友人からKの自殺の動機を聞かれた時も「早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いた」りする。

 こうした「私」の罪悪感を根拠として、Kが死んだのはお嬢さんと「私」の婚約を知ったからだ、という前提は疑いようもない事実として認定されてしまう。


 だがKが婚約の事実を知ってから死ぬまでには、物語の中で語られることなく跳び越えてしまった、いわば空白の「二日余り」があるのである。「最後の打撃」は、事実ではないとは言えないが、「私」が、そして読者が錯覚するほど直ちにKを打ちのめしたわけではない(こういうのが所謂「印象操作」だ)。

 授業における精読によってKの自殺をK自身の問題(②「現実と理想の衝突」)だと考え、Kの自殺の「覚悟」は、お嬢さんの婚約のはるか以前からKの心の裡にあったのだと考えるなら、自身の問題として自らを所決する「覚悟」をしていたKが、なぜそれを口にしてから(ましてや遺書をしたためてから)十日あまりも実行しなかったのか、という問題を再考しなければならない。

 そのためには、友人とお嬢さんの婚約を知ってから自殺を決行するまでの空白の「二日余り」にKの心の裡に起こったドラマを追う必要がある。


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