2020年12月7日月曜日

こころ 49 「ほぼ同じ」「感じ」とは何か

 「黒い光」は「罪悪感」の隠喩などではない。

 「黒い光」を罪悪感の象徴であると見なす解釈は、Kの死に対する「私」の勘違いに基づいている。「私」はこのとき確かに罪悪感に打ち震えているし、そこから逃れられない未来に絶望してもいる。

 だがこの言葉の重みは、そうして「私」の認識にとどまっている限りにおいて釣り合うのであり、いったんそうした罪悪感が勘違いであることを思い出すと、にわかに滑稽なものに見えてしまう。

 だが漱石はそうした認識が勘違いであることを承知の上で「黒い光」という印象的な表現をここにおいている。それは「私」の主観から見た大仰な(だが冷静に身を引いて見れば滑稽な)解釈として受け取るべきではない。ここにはやはり、ある不気味な裂け目が顔をのぞかせているのである。

 では「黒い光」とは何なのか?


 それを考えるいとぐちは、この段落の冒頭の次の記述である。

その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。

 作者・漱石は、物語のクライマックスとも言えるKの自殺の場面で、なぜかKの恋の自白の場面を想起せよ、と読者に要求している。二つの場面を関連づけて、この場面を理解せよと言っているのである。

 この、「ほぼ同じ」「感じ」とは何か?


 考察のためには、問題の「恋の自白を聞かされた時」(「三十六」181頁)を直接読まなければならない。

 読み比べて、確かに「同じ」だと思えたのは何か?


 さて、この問いに対するありがちな答えは、どちらの場面でも、驚きのあまり体が硬直するほどの大きな衝撃を受けたということだ、というものである。

 多くの解説書が同様の説明をしているのだが、これは適切な説明だろうか?


 これもやはり否である。上のような説明はまるで不適切かつ無意味だ。

 なぜか?


 これでは、友人の自殺を発見したことの衝撃を表現するのに、よりによって友人から恋の告白を受けた時の衝撃を引き合いに出していることになる。

 「Kの自殺を発見した時の私の衝撃はKに恋の告白をされた時のように大きかったのです。」と言い換えてみれば、こうした説明がまるで見当はずれなものであることがわかるはずだ。

 例え話を用いて何事かを強調しようとする誇張のレトリックにおいては、より重大な例を用いて、目前の事例を強調するものである。だがここでの順序は逆だ。恋の自白の驚きを用いて、友人の死の驚きを強調するはずはない。


 これらの説明が論理的に破綻しているにもかかわらず、多くの解説書で共通して見られるのはなぜか。

 おそらくそれは「ほぼ同じ」「感じ」とは何か、という問いがミスリーディングだからである。

 上記の解説はいずれも、二つの場面の「感じ」を比較し、その共通点を引用・比較しようとする。

 そして、それぞれの状況に置かれた「私」の「反応」を比べる。

 だがこの場面の文中に明示されている「反応」の共通点をいくら並べてみても、ここから読者が読み取るべき情報は明らかにならない。

 問いの形が間違っている。どのような問いを立てて、それをどう考えればいいのだろうか?


 この「ほぼ同じ」「感じ」とは、「既視感」のようなものだ。

 「私」はKの自殺という事実を目の前にして、この光景は前にも一度見たことがある、と感じたのだ。

 これは何を意味するか?

 それはすなわち、それらの状況に潜む構造の共通性が不意に「私」の目の前に姿を現したということだ。

 つまり「感じ」とはその状況に直面した「私」の反応や心理ではなく、「私」がそこに見出した状況の構造を指しているのである。

 「ほぼ同じ」「感じ」とは何か、という問いが「私」の心理を読み取ることに方向付けられてしまうのも、例によって国語科授業における伝統的な「気持ち」主義の一つの病弊である。「同じ」だと感じた「私」の気持ちを考えてしまう。

 だが読者である我々はこの「感じ」が受け手に属するものではなく、むしろ状況に属するものであることを読み取っているはずである(もちろん受け手自身もその「状況」に含まれているのだが)。

 だから問題は、「私」に同じような反応を起こさせた、状況の方なのである。

 二つの場面の状況の構造には、どのような共通性があるか?


 このように問題を設定しなおしたとき、あらためて「黒い光」が「罪悪感」でないことは論証できる。


 「黒い光」は「ほぼ同じ」「感じ」と同じ形式段落に置かれている。一息に読んでみると、この「黒い光」は、「私」が受け取った「感じ」の重要な要素であることがわかる。

 とすると、この「光」は恋の自白の場面にも、程度の差はあれ「私」に射しているということになる(「灰色の光」でもいいし、「全生涯」でなくてもいいし、「ものすごく」なくてもいいがいずれにせよ)。

 反論もあるかもしれない。「第一の感じ」は確かに「ほぼ同じ」だが、あくまで「黒い光」は「それ(第一の感じ)が疾風のごとく私を通過したあとで」表れるのであり、「第一の感じ」には含まれないのだ。したがって、恋の自白の場面に「黒い光」は射していない。

 「第一の感じ」とはまだそれが何なのかを言語化する以前の既視感を捉えたものであり、しかもそれは「私」を硬直させずにはおかない衝撃をもっていて、その衝撃が「通過したあとで」ようやく「ああしまった」とその衝撃が言語化されているのである。この反応はあくまで一連のもので、「またああしまった」といっているのはそこまで含めて「ほぼ同じ」だということを示している。「もう取り返しがつかないという黒い光が~」は「ああしまった」の説明であり、つまり「黒い光」は「第一の感じ」に含まれていると考えるのが自然な読みである。

 実際に読者は、そのように問い直してみれば、恋の自白の場面でもこの「黒い光」となにがしか「ほぼ同じ」不吉な気配を感じとっているはずだ。

 その強度が「ほぼ同じ」だと言っているわけではない。その構造が「ほぼ同じ」であるような、ある「感じ」が直観されているのである。

 だとすれば「黒い光」は「罪悪感」ではありえない。恋の自白の場面で「私」がKに抱くべき何らの「罪悪感」も想定できないからである。

 「黒い光」=「罪悪感」という解釈は、この「ほぼ同じ」を無視して四十八章のこの場面でだけ考えたものだ。

 「黒い光」が意味するものを考えるためには、「ほぼ同じ」「感じ」が何なのかを考えなければならない。


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