2020年12月6日日曜日

こころ 41 Kの自殺の動機を再考する

 ここまで、テクストの詳細な読解によって、語り手である「私」とKの認識の食い違い、意思疎通のすれ違いを明らかにしてきた。

 一般的には「こころ」は「エゴイズム」を主題とする小説だと語られる。

 それはKが、お嬢さんと友人の婚約を知って自殺したのだと理解することを意味する。「私」の「エゴイズム」がKからお嬢さんを奪ったのである。「私」がKを死に追いやったのである。

 だがそれは、「私」自身のそのような認識に読者がミスリードされたことによって成立している「こころ」観に過ぎない。

 「私」の認識を括弧に括って、Kの側から物語を見直してみると、物語は全く別の相貌を顕わにする。

 その時、Kの自殺はどのようなものだと考えられるのか。ここまでの読解に基づいて、もう一度、自殺にいたるKの心理について考え直してみよう。

 それは最初にも考えたとおり、「こころ」という小説がどのような物語であるかを考え直すということだ。


 以下に、Kがなぜ死んだかを考える上で考慮すべき諸要素を挙げてKの自殺の動機を考察する。


 Kの自殺の動機について考える上で、教科書に収録されている四十九章より後の五十三章(五十六章が最終章だから、終わり近く)の次の一節はきわめて示唆に富んでいる。

同時に私はKの死因をくり返しくり返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐきめてしまったのです。しかしだんだんおちついた気分で、同じ現象に向かってみると、そうたやすくは解決がつかないように思われてきました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不十分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくってしかたがなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑いだしました。(「下/五十三」)


 「こころ」では、語られている情報が「私」の主観を通しているため、それが真実であるかどうかに保留しなければならない、というのが基本的な読解の作法だ。

 だがこれは物語の終盤近く、遺書を書いている「私」が全てを振り返って考察し、辿り着いた結論である。それなりに信じてもいいだろう。ここに至ってようやく漱石も物語の真相を「私」に語らせているのだと言える。

 ここで「私」が考えたKの「死因」は、次のように整理できる。

 ① 失恋

 ② 現実と理想の衝突

 ③ たった一人で淋しくって仕方がなくなった

 Kの死の当座、「私」は①が死因なのだと考えている。これが前述の「ミスリード」である。だがそれは「すぐにきめてしまった」という形で否定されている。

 次に、②は上野公園の散歩中の「Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしている」(190頁)という表現に対応している。

 これは授業の最初に挙げた「『道』に反した自分への絶望」と同じことを指している。

 「覚悟」の考察では、①ではなく②こそKの自殺の基本的な動機であることを読み取ってきた。「夜のエピソード」の考察からも、その日のうちにKは「薄志弱行で行く先の望みがない」と、その「死因」を語っていたのだと結論した。「自殺の覚悟」は「私」とお嬢さんの婚約=「失恋」以前に既にKの中にあったのである。


 ただここにも注意が必要である。「現実と理想」とは何なのか。

 上野公園での会話中で「私」が「理想と現実」と言うとき、それは

  • 「理想」=「信仰・精進・禁欲・道」
  • 「現実」=「お嬢さんに恋している」

という意味だ。

 だが例えば次のような記述は、Kの苦悩が、お嬢さんを知るより以前からKを支配していたことを示す。

彼は段々感傷的になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上るのが常ですが、一年と経ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮(あせ)り方はまた普通に比べると遥かに甚しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一だと考えました。(中略)意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹っているくらいなのです。(下/二十二)


 ここに示される「自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行く」「自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望する」「彼の意志は、ちっとも強くなっていない」「むしろ神経衰弱に罹っている」といった状況こそKの「現実」ではないか。この一節はKが下宿に入る前、まだお嬢さんのことなど知らない時の状況を述べたものだ。

 とすればKの「現実」とは、お嬢さんを好きになって初めて「道から外れた」ような現状を指しているのではなく、Kの「理想」が最初から不可避的に向かわざるを得なかった断崖なのである。

 そもそもお嬢さんへの恋心がKの「理想」を妨げる「現実」なのだという捉え方自体が、「私」の心をKに投影した推測によるバイアスがかかっている。

 Kの恋心の自白の場面(182頁)では、「私」は実はKの話をよく聞いていないし、それ以外の場面も、虚心に見直してみると、Kが「恋」故に苦悩していると考えるべき記述はないのである。

 したがってKのお嬢さんへの恋心は、Kの「理想」と衝突する「現実」の一部ではあっても、その重みは「私」が考えるほどには大きくはない。

 この「現実と理想の衝突」に対する修正は重要である。そうでないと、常にKの心理を推測する上で、お嬢さんとの関係を考慮する方向へバイアスがかかってしまう。


 さて、修正した上で、やはり②がKの自殺の主たる動機だと考えていいだろう。上野公園でKが口にした「覚悟」はやはり「薄志弱行で行く先の望みのない」自分への所決を指していたのだった。

 だがこう考えると、今度は「こころ」という小説の主題がなんなのかわからなくなる。

 授業の最初に考察したように、「こころ」という物語をどう捉えるか(主題)と、Kの死因をどう捉えるか(自殺の動機)という問題は、相互に因果関係を結んで成立している。

 一般的な「エゴイズム」主題論は、Kの死因を①「失恋」と考えるところに立脚している。

 だがこれを②「現実と理想の衝突」だと考えると、今度は「こころ」がどのような小説なのか、すなわち主題がわからなくなる。

 いきすぎた理想主義者の挫折を描いた小説?

 だがそれでは「私」がそこにどのように関わっているのかわからない。主人公は誰なのか。

 だから問題は③「淋しさ」である。


 そして「覚悟」は「決意」でも「予定」でも「計画」でもない。つまりKが自殺する「動機」は②「現実と理想の衝突」であるといってもいいのだが、それを実行に踏み切らせた契機が必要なのである。でなければ、上野公園の時点で「覚悟」を口にしたKが、その後十日あまり経ってから自殺を決行するに至った物語的な必然がわからない。「私」自身がそう考えて「不充分」と言っているのである。だからこそ③が考え出されたのである。

 やはり問題は③「たった一人で淋しくってしかたがなくなった結果、急に」とはどのような意味か、だ。


 注意すべきことは、この「淋しさ」は、①と区別されなければならない、ということである。先の一節で漱石は明確にそう要求している。

 だがしばしばこの「淋しさ」は①と混同されてしまう。

 「淋しい」とは、信頼していた友人に裏切られ、大好きなお嬢さんを失って「孤独」になったという意味だと理解されてしまう。

 「淋しくってしかたがなくなった結果、急に所決した」という時の「急に」も、奥さんから「私」とお嬢さんの婚約の話を聞いて「急に」なのだと解釈されるから、①と③の混同は意識されない。

 だからこそ「再考」の意義がある。

 この「淋しさ」とは何なのか?

 なぜこの時「急に」Kを襲ったのか?


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