Kの自殺したこの場面を読む読者には、「もう取り返しがつかない」という表現は、Kの命が失われたという事態の重大さに釣り合っているように感じられる。
だが先述の通り、「第一の感じ」が「しまった」に言い換えられていることを認めるならば、「もう取り返しがつかない」もまた(程度問題としてそこまで重大でないとしても)恋の自白の場面に適用されるはずである。
「先を越され」ると、何の「取り返しがつかない」のか?
前の問いで前提状況を確認した。どちらも「私」は、Kに何事かを言おうとして言い出せずに迷っていたのだった。
とすれば、「取り返しがつかない」とは、Kに「先を越され」て「しまった」から、この先はもう言えなくなって「しまった」ということだと考えるのが素直な帰結だ。
どうしてそういうことになるのか?
Kに先に恋の自白をされてしまうと、もう「私」には自らのお嬢さんへの思いを表明することはできない。この心理は容易に共感できるが、それがなぜかを説明することは容易ではない。だって気まずいじゃん(「Rの法則」の雛壇女子高生)では説明にならない。
なぜ、もう言えなくなるのか?
自らもお嬢さんが好きだということは、既に潜在していた三角関係を顕在化することになるからである。
「私」はKに敵わないと思っている。Kの方が頭が良く、意志が強く、背も高いし顔だって良いような気がする。「私」は、三角関係が露わになってしまえば自分が敗者になるであろうことを予見しないではいられない。
したがって三角関係であることは表面化してはならない(G組の「同じ土俵には上れない」はうまい表現だった)。
だからもう「私」が言うことはできないのである。
だがこの説明は、次の一節と微妙に不整合だ。
Kの話がひととおり済んだ時、私はなんとも言うことができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいるほうが得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も言えなかったのです。また言う気にもならなかったのです(182頁)。
上記の説明は「利害を考えて黙っていた」のだということにはならないか?
「私」が黙っていたことに理由をつけるならば、上記のように言うのはおそらく間違っていない。
にもかかわらずなぜ上記の一節が書かれなければならないのか、という問題は、意外に深いところにつながっていそうだ。
この点については後で再説する。
一方、四十八章では、「私」はKを出し抜いたことについて、Kに釈明しなければ、と思いつつも踏み出せない。201頁から202頁にかけて、「五、六日」の間、蜿々と逡巡する、言い訳じみたくだくだしい思考が続く。
そうするうちにKの自殺によってその機会は永遠に失われてしまう。
このことはなぜかくも重大なのか?
それまでの「卑怯な」ふるまいを自ら告白していれば、一時の恥辱を耐えれば再び「倫理的に正しい自分」を回復することができる。
Kのいない今、その可能性は断たれてしまった。となれば「卑怯だった自分」を抱えて生きていくしかない。
とはいえそうした痛みも、時間が経てばなし崩し的に忘れていくこともできるかもしれない。
だが問題はそれだけではない。
私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。(「下/五十三」プリント参照)。
先にも引用した一節だ。
「言えない」はKに対してだけではない。Kの死という重大な結果を招いた以上、それをもたらした(と「私」が思っている)自らの行動については、これ以降、後に妻になるお嬢さんや奥さんに対しても「言えない」ことになるのである。
どちらも、自分から言う前に「先を越され」ると、もう言えない。
「取り返しがつかない」とはこのことである。
「ほぼ同じ」という、既視感にも似た共通性は抽出できた。
「ほぼ同じ」「感じ」を説明するために、「私」の反応の共通性を挙げても意味がない。問題は「私」に同じ反応をさせる状況の共通性である。
状況とは、直接的なKの行動のことではない。「恋の自白」と「自殺」という行為そのものの共通性を挙げても、状況の共通性は明らかにはならない。
この瞬間の前後の変化、この出来事が及ぼす影響にこそ、「私」が看取した「ほぼ同じ」「感じ」の核心がある。
ここから「黒い光」をどのように表現したらいいか?
そしてこのことが示す「こころ」の主題とは?
すごい!!!!!
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