2020年9月30日水曜日

こころ 1 受講の準備

 後期、年内いっぱいは「こころ」を読む。17~18時限の長丁場だ。

 「こころ」は、最も多くの日本人が読んでいる小説である(その一部分とはいえ)。
 既に著作権はフリーだから、「青空文庫」はもちろん、ほぼ全ての出版社が、文庫本のラインナップに「こころ」を入れており、その全てで累計では最大のベストセラーとなっている。
 たとえばこんなアンケートも。
東大生&京大生が選んだ『スゴイ本』ベスト30←リンク
ここでは4位に「羅生門」、7位の「山月記」も挙がっている、30位の「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治は「永訣の朝」の作者だ。18位の「舞姫」は3年で読むことになる。
 東大生&京大生も、読書の入口はけっこう学校の国語の授業だったりするのだ。

 授業に入る前に二つの問いに答えておく。
 Formsで回答する。Teamsのリンクからどうぞ。
 秋休み中の宿題だが10分もかからない。
 とはいえ教科書を持ち帰っていない人は、夏休み中に読んだ記憶だけで答えていい。むしろその方が狙いに適った答えが出るかもしれない。評価はしない(ただ、ユニークな回答は個人的な評価としては覚えておくかも)。回答が秋休み明けの10月頭になってもいい。

問1 「こころ」の主題は何か?

 「作品の主題」という言い方をよく目に(耳に)する。「作品のテーマ」ともいう。
 「主題=テーマ」って?
  辞書には「芸術作品などの中心となる思想内容」などと書いてある。「こころ」の「中心となる思想内容」って?

 それよりもこんなふうに考える。
 「こころ」を読んだことのない友達に「こころ」ってこんな話、と紹介してみよう。
 ただし「あらすじ」よりも抽象的な言い回しで言うようにする。
 小説中の具体的な事物の名称を使って、具体的な筋の展開のみを語る場合、それを「あらすじ」という。いわゆる5W1Hで語るストーリー。誰がこうしてこうなりました…。
 それに対して、小説中にはない、何らかの抽象的な語句を使って、この話は「どういう話」なのかを他人に紹介してみる。「どういう話か」が言えれば、それが「主題」だ。
 「こころ」とはどういう話か?

 小説の主題を考えるという行為は、そのテクストをどんな枠組で捉えるかを自覚するということだ。
 もちろん「こころ」は長編小説で、教科書に載っているのはその一部分に過ぎない。
 だが今回の課題はそれでいい。教科書に載っている範囲で、これがどんな話かを語ってほしい(「こころ」全編は当然違う主題で捉えられる)。
 「主題の考察」といえば、世の普通の授業では、何時間かの読解の後に、最後の考察として取り組む課題だ。
 だが、これを最初にやっておく意味は、現状の読みを自覚することだ。一読した皆ひとりひとりは、ひとまず「こころ」をどのような物語であると捉えたのか。これを自覚し、教室で共有する。
 そして授業の中では、この読みの変化を体験したい。
 変化しないのなら、授業で小説を読むことには意味がない(まあ、といって「山月記」では変化があったかというとそうでもないかもしれないが、あれは、主題がどういうものかは最初からわかっていて、ただそれを的確に表現することが難しいといった小説なのだ)。
 「こころ」は、授業が進んでいくと見方がガラッと変化するテキストだ。
 認識の変容を表わす「コペルニクス的転回」という言葉があるが、「こころ」はこれが起こるテクストである。

 もう一つの問い。
問2 Kはなぜ死んだか?

 この問いも、普通は、数時間の授業の後で考察するものだが、上記と同じ理由で、今は一読した段階でどう捉えられているかを自覚する。

 物語の主要な登場人物の死が受け手に与える衝撃は、物語を享受する情動のうちでも最も重大なものの一つだ。ともかくも小説を読んで、その死が衝撃的であるような登場人物の自殺について、その動機を考えずに済ます読者などいない。だからこの問いは、一読してさえあれば、問うことが可能だ。

 例えば「羅生門」を読んで浮かぶ最大の疑問は「下人はなぜ引剥をしたか?」だ。
 物語は、下人が最後に老婆の着物を剥ぎ取って去るところで終わる。この行為の意味「なぜ引剥をしたか?」は「羅生門」の主題と結びついている。なぜなら、冒頭でそうした行為への迷いが問題提起として示され、行為の実行という結末はいわばその回答であると読めるからである。
 例えば「主題」を〈生きるために各自が持たざるを得ないエゴイズム〉などと表現するのは、下人の「引剥」という行為を「エゴイズム(利己心)」の表れだと解釈しているということだ。下人は、生きるためには悪も許されると考えて引剥をしたのだ。
 このように、物語の中心的な問いと「主題」は表裏一体の関係にある(ただしこうした「羅生門」把握は間違っていると当講座授業者は考えているが)。
 「羅生門」では「なぜ引剥をしたか?」は少々考察を必要とする問いで、それだけに主題の捉え方にも様々なバリエーションがあるが、「山月記」の中心的問い「李徴はなぜ虎になったか?」は、それほどのバリエーションはなく、したがって主題の把握も自然になされる。ただ、繰り返しになるが、「山月記」の場合は表現が難しいのだった。

 Kの死をどう受け止めるかという問題と、「こころ」がどういう話だと考えるかという問題は、切り離して考えることはできない。論理的な整合性、むしろ因果関係があるといってもいい。この二つは互いを根拠づけるように整合しているのである。

 主題を考えるとは、この話はどんな話か、を考えるということだ。
 「こころ」がどんな話かを把握する最大の鍵は、Kの自殺をどう捉えるか(「私」がそこにどう関わっているか)だ。
 これらは今年度最初から繰り返し言ってきた文章読解のメソッド「問いを立てる」の実践である。
 「こころ」読解のための大きな目標として、これら二つの大きな問いを最初に立てておく。

 さて「こころ」の主題は何だろう?
 Kはなぜ自殺したのだろう?

2020年9月24日木曜日

ロゴスと言葉 10 構造的同一性

 「部分」の解釈としてもう一カ所。

ロゴスとしての〈名=言葉〉があって初めて世界は分節され、実質的なもろもろの差異が構造的同一性で括られることによって存在を開始するのであるから、ロゴスが生み出したカテゴリーこそが、一見自存的実体と思われていた〈指向対象〉だと言わねばならない。


 前半後半ともに容易には腑に落ちない表現が含まれているうえに、前半と後半の論理的つながりも俄には理解しがたい。

 「構造的同一性で括られる」とは、それらのもろもろのモノのもつ「構造」が同一のものを、それぞれの差異を捨象して一つの仲間としてまとめることだ、と解釈したくなる。

 例えば、「机」という概念で示されるもろもろのモノには、四本の足で支えられる平面があって、その上で何かの作業をする…といった「構造」的な同一性があることによって、材質や大きさや付属物に違いがあっても、一つのカテゴリーに括られるのだ、というふうに。

 だがそうではない。

 「同一性」は「構造的」に決定される「同一性」だ、と言っているのだ。

 何の「構造」?

 対象となっているモノの構造ではない。言語のもつ構造である。

 対象となるモノの構造が同一ならば、それをひとつのカテゴリーに括る、と言っているわけではなく、言語という構造の中で同一のカテゴリーに括られることで、初めてモノは存在を開始する、と言っているのだ。

 この「構造」を喩えたのが「網」という比喩である。

 網目の一枡は、隣接する他の枡目と区切られることによって一つの枡目となる。枡目同士は相互の緊張によって支えられている。こうした枡目の一つ一つが「言葉」(単語)なのであって、それは「網」という構造をつくっている。それが言語体系だ。

 「構造的同一性で括られる」とは、現実的には様々な差異のある「もろもろ」がそうした構造の中にある一つの枡目に入れられることによって初めて「存在を開始する」と言っているのである。

 そのそれぞれの枡目こそ「カテゴリー」であり、それが言葉の指し示す「指向対象」=言葉の「意味」だ。

 現実の「机」は「テーブル」や「椅子」と区別される「机」の枡目の中に括られた時に初めて「指向対象」として「存在を開始する」のであって、それ以前に「自存的」に在ったわけではない(もちろん物理的には存在していても)。


 こうした一節も、言語論の基本的な考え方がわかっていないと、この文章の解釈だけでは適否を判断できない。

 他にも腑に落ちない箇所があれば、いつでも質問に応じたい。納得がいくまで考えよう。

ロゴスと言葉 9 象徴の森という名の文化のシミュラークル

 「ロゴスと言葉」という文章は、ソシュールの言語論に基づく様々な言語論―たとえば「ものとことば」や内田樹の文章―の中でもとりわけ読みにくい。

 とはいえ全体的な論旨の把握や、他の言語論との比較の中で、最初はわからなかった箇所も、それなりに読めるようになってきたはずである。

 が、依然としてすんなりとは腑に落ちない箇所もあるだろう。

 最初に予告した「細部を読む」を最終段階で迎えるにあたって、取り上げたい箇所はいくつもある。最終的な応用課題として、今までの考察を元に、厄介な表現を説明できるようになっているか、チャレンジしてみたいところではある。


 とりわけ厄介なのは以下の一節である。

彼女は次第に象徴の森という名の文化のシミュラークルに入っていく。繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。


 まず「象徴の森という名の文化のシミュラークル」を説明してみよう。

 どういうことを言っているかはもうそれなりにわかっているはずだ。

 問題は、どう説明するか、である。


 この表現を分析するには、「象徴」「文化」「シミュラークル」それぞれに込められた意味合いを捉えるとともに、「象徴の森」という比喩や「名文化」の二つの「の」のニュアンスを捉える必要もある(所有格の「の」には様々な意味・用法がある)。形容句の係り受けの構造もあやふやだ。まったくもって厄介な問題が凝縮した表現だ。


 「象徴」はこのブログでも頻出。というか、すべての文章の読解で「象徴」について考えてきた。「金」「少年」「手」「虎」「雪」…。

 「象徴」とはそれをそれという具体物として捉えず、抽象概念として捉える認識のことだ。「手」は「世界との媒介の手段」、「虎」は「強さ/孤独/制御できないもの」、「雪」は「聖なるもの」…。

 言葉はすべて、特定の具体物を指すのではなく、概念を表している。「机」という言葉は目の前の学習机を指しているのではなく、「机」という概念を表している。一つの机を指して「机」と言ったとしても、その机は「机」という概念の一つの具体的現れとして捉えられている。

 ということは、言葉で世界を捉えるとは、概念として世界を捉えるということである。

 我々が言語を通して見ている世界にはそのような「象徴」が溢れている。それが「森」という比喩で表されている。我々はそうした「象徴」に囲まれている。


 「シミュラークル」は「シュミラークル」ではない。英語の「シミュレーション=模倣」の方が馴染みがあるだろうか(これも「シュミレーション」ではない)。

 教科書の註ではわかりにくいが、とりあえず「コピー」のことだと考えておこう。「本物ではない」という意味だ。

 我々は「象徴」に囲まれている。つまり我々が見ているのは個々の具体物ではなく、概念なのである。言葉を使ううちに、少女は現実の具体物=オリジナルではなく、概念=コピーの「森」の中に入っていく。


 「文化」は第3回「ものとことば」比較の中で考察した。

 本文の趣旨を捉えるためには対比の考え方が有効であり、それはそのまま説明のためにも有効である。

 「象徴」「シミュラークル」も対比で捉えて以下に列挙する。

    動物/人間

 感覚・運動/言語

    現実/虚構

   具体物/象徴

    自然/非自然

    本能/文化

 オリジナル/コピー

      /シミュラークル

 子供は言葉を使うことで左のような世界観から右のような世界観の中に「入っていく」のである。

 対比項目を列挙したら、それを繋げて考える。

 それぞれの項目をどのような順番で繋げてもいい。例えば左辺の項目を繋げて「動物現実世界のオリジナル具体物を感覚で捉える。それは本能に根ざした自然な捉え方だ。」というように。

 右辺を繋げてみよう。

 人間は言葉を通して、世界をそのままでなく、コピーされた象徴として捉える。それは生物にとっての自然ではなく、人間が作り上げてきた文化的シミュラークルに生きているということだ…。


 この対比がわかれば、次の一節も理解できる。

この対象物は、人間という種がもつゲシュタルトとしての〈モノ〉ではなく、文化の中でのみ意味をもつ〈コト〉として存在し始めたと言えるだろう。(102頁)

 「ゲシュタルト」が鬱陶しいがそこに惑わされずに、これも「ではなく」型の文型で対比を表わしていることを見てとる。左辺を否定的に提示し、右辺を主張しているのである。

 するとこれも、上の対比軸上に並べられる。

 〈モノ〉とは「人間としての種」=動物が捉える具体物であり、〈コト〉は「人間」が言語によって捉える概念的表象である。


 「シミュラークル」には、註によると「オリジナルが失われた」というニュアンスがあるという(『現代文単語』には残念ながらこの重要なニュアンスが説明されていない)。

 ボードリヤールが広めた「シミュラークル」という概念の重要性は、一般的に皆が信じている「オリジナル/コピー」という対立を無効化するところにある。我々が生きている世界は「コピー」だが、といって「オリジナル」がどこかに存在するわけではないのだ。

 丸山がここで「シミュラークル」という言葉を使うのは、左辺のような「オリジナル」な世界すら実は想像の産物でしかなく、我々は右辺のようにしか世界を捉えられないということを強調しているのである。


 また、この考え方は前回説明した「言語の恣意性」にも重なってくる。

 「言語の恣意性」とは「言語は現象と独立した構造をつくっている」ということだった。そしてここでいう「現象と独立した構造」とはそのまま「象徴の森という名の文化のシミュラークル」に他ならない。

 シミュラークルは現実世界と独立してるがゆえに恣意的である。コピーはオリジナルの手を離れて自由なのである。


2020年9月4日金曜日

ロゴスと言葉 2 -要約する

 次は要約だ。今度は口頭で終わらず、文章に書き起こす。テキストを見直してもいい。教科書解禁である。
 要約には条件をつけるのが効果的だ。国語力というのは言語による情報操作の能力のことだから、目的に合わせた様々な条件で操作する練習をするのがいい。
 簡単な条件は字数だ。
 休校中に100字要約と200字要約をしたのはそういう狙いだ。

 今回の条件は「4つの大段落それぞれを一文で要約する」だ。さらにそれぞれの一文は単文(主語と述語が一組の文)であること、という条件をつけた。
 単文にしたのは、なるべく文の構造をシンプルにすることが頭の整理に有効だからだ。日本語として最低限意味を成すような3~4文節くらいの一文にする。
 もちろんそれだけでは説明不足に感ずるだろうが、かまわない。必要に応じて説明できるように、背後には複雑な論理が感得されているとしても、とりあえずなるべく簡素な文構造の一文にする。把握のためには把握した形自体の情報量が多くない方がいいのだ。圧縮率を上げようとすることが理解を押し進める。

 要約しようとするとき、本文中から、そのまま文章の内容をまとめた言い方になっていると思われる一節が見つかることがある。見つかったならそれでもいい。だがいつもそういう一節が文中にあるとは限らない。
 むしろ要約をするには、細部に目を凝らして探すより、全体をボンヤリ眺める方が良い。視野を広くもって、細部を濾して除去してしまうフィルターのような意識で、全体の構造や「大事なところ」を感じ取ろうとする。
 そしてまず主語を決めてしまう。何を主語にするかを考えることは、その段落の主題、最重要モチーフが何かを考えるということだ。実際には主語だけでなく、ほとんど主語と述語の組合わせとして認識されるはずだが、とりあえず「主語を決めよう」と思って全体を眺めると、取り上げるべきキーワード(主語)と、それがどうしたというのか(述語)が意識されるはずだ。
 そこに最低限の目的語や形容をつけくわえて5文節以内くらいに収める。

 例えば1段落を次のように要約するのはどうか?
・言葉の本質はロゴスにある。
 もちろん正しい。だが望むらくは「ロゴス」という言葉を使わずに要約文を考えた方が良い。
 要約の効用は、要約の「正解」を知ることではなく、要約しようとすることが思考の整理になるということだ。これもまた目的ではなく手段、である。
 それならば「ロゴス」という言葉を使って筆者が言いたかったことこそを一文にしようとした方が目的に適っている。「ロゴス」という言葉はまだブラックボックスのようなものだから。開いてしまった方が良いのだ。
 「ロゴス」とはカテゴリー化する=取り集める働きのことだ、と本文にある。したがって、次のような要約が考えられる。
・言葉は事物をカテゴリー化する。(3文節)
・言葉には物事を取り集めるはたらきがある。(5文節)
 2段落はどうか。
 言うべきことは1段落と重なっているように思える。実際にどう要約しようとしてみても、それは両方の段落で触れられているトピックであるように思える。
 だが敢えてそれぞれの段落のトピックに重み付けをして、要約文を書き分けてみよう。
 選ばれる言葉は「存在」「分節」「差異化」あたりだろう。
・言葉による分節で物事の存在が認識される。
・命名は外界の差異化である。

 このように、それぞれの段落を一文にしたら、それぞれの内容の展開の論理がたどれるかどうか通観する。それぞれの段落を表わす一文を、バラバラなままにしておかないで、一続きの論理で把握する。
 例えば1、2段落の要約を、ひと繋がりの論理展開として捉えてみよう。
 「カテゴリー化」は「分節」と同じことだ。とすると、そのまま1,2段落の要約文は1文に書き換えられる。
・言葉によるカテゴリー化によって物事が認識される。
 実際に1文に書き換える必要は必ずしもないが、とにかく論理の繋がり・展開を意識するのは有益だ。
 「差異化」はここではまだ説明が足りていないので、保留にしておいてもいい。「取り集める」ことと「差異化」がどうつながっているのかは後で考えよう。

 さて3段落には子供のエピソード、4段落にはヘレン・ケラーのエピソードが登場するが、これらの具体例はこの一文要約においては捨象しよう。論理展開を追えるように、1,2段落と抽象度を揃える。
 3段落は1,2段落の内容を、具体例で説明し直しているだけのようにも見える。
 それでもそこで具体例を通してあらためて明らかになったことはないか考える。
 段落の末尾は次の通りである。
繰り返し、繰り返し命名を通して、知覚の上に刻一刻と密になる認識の網の目がかぶせられ、本能図式は言葉による再編成を強いられる。
子供のエピソードを通して示される認識がこのように表わされているとして、これをシンプルな一文に書き換えてみよう。
 「命名を通して」は「言葉による」と同じことだ。「繰り返し、繰り返し」とか「刻一刻と密になる」は大胆に伐り払って「命名を通して本能図式は再編成を強いられる。」としよう。
 「本能図式」が何のことかわかりにくいし、実は「本能図式」が直に「再編成」されるわけではない。そこには「繰り返し」があり、「刻一刻と密になる」過程がある。実際には「本能図式」が言葉による「象徴化」を受け、その「象徴図式」とでもいったものが「刻一刻と密になる」のである。そう考えてみれば勘の良い者は「象徴図式」とは1段落の「カテゴリー」のことだと気付く。
・言語によるカテゴリーは成長の過程で再編成される。
他に「分節線は非自然的な画定である。」を挙げたグループもあった。これも重要な要素ではある。「分節線」はカテゴリーの輪郭のことだから、「成長の過程で再編成される」時に「非自然的」に「画定」されるということだ。
 「非自然的」とはどういうことか? 同段落にある言い換えの言葉を探し、「文化」がそれに近いという感触を得た。
 だがこの要素は4段落でも述べられるので、そちらに入れることもできる。

 4段落はさらに厄介だ。「ヘレン・ケラーのエピソードも同じである」と言っておきながら、どう「同じ」なのか、にわかにわからない。
 手がかりとなるキーワードを決めてしまおう。
 重要なことは繰り返し述べられる。この段落で繰り返される言葉は「文化」「関係」「差異化」である。それぞれを一文にしよう。
・指向対象は文化の中で決定される。
・指向対象は関係の中で決定される。
・指向対象は実体ではなく差異化によって生まれる。
それぞれに、こうした一文にすること自体が、そもそも難しい。「指向対象」が「カテゴリー」とどういう関係になっているかも、現状では理解し切れていないはずだ。
 この三文はどれも同程度に適切だが、その関係を表わすのは、これはこれで現状では難しすぎる。「文化の中で」と「関係の中で」が同じ構文に入っているが、どうしてこういう言い換えが成立するのか?
 「差異化」は1,2段落で言っていればそれでよし、むしろ1,2段落で「差異化」を使わずに、4段落で使うという手もある。
 ついでに最終段落の「関係づける」と「差異化」が同じことであることについて考えた。
 差異化するということは、境界を引いて二つのカテゴリーを分けるということだ。そのとき、その二つのカテゴリーは「関係づけ」られている。比較され、違うものでありかつ隣接すると認識される。「関係づける」ことは二つを「差異化」することなのである。

 例えば4段落を、展開が見えるようにつなげてみよう。
1 言葉は事物をカテゴリー化する。
2 カテゴリー化することで物事の存在が認識される。
3 カテゴリーは成長の過程で文化的に再編成される。
4 カテゴリー化とは、カテゴリーの内と外を差異化することだ。
この4文の流れは「カテゴリー化=ロゴス」を使って論理展開を統一してある。

 現状ではここまですっきりした要約は無理だろう。
 要約は、完璧な要約を「教わる」ことに意味があるのではなく、要約しようと「考える」ことにのみ意味がある。要約しようと頭を使い、ある要約に辿り着いたときに感じるスッキリ感が味わえれば良い。
 あるいは、試行錯誤した要約文を発表して、授業者の反応(よしよし、とか、そうかなあ、とか)をみて、それぞれの要約の適切さについての反省と検討をすることに意義がある。

2020年9月1日火曜日

ロゴスと言葉 1 -問いを立てる

 夏休み明け、第2回の定期考査前まで7~8時限、言語論を読む
 まずは教科書の「ロゴスと言葉」だ。

 「言語論を読む」と言い、「まずは」と言う。
 つまり最初からいくつかの文章を読むつもりなのだ。
 国語の授業は、教科書の文章を「教える」ものではない、と繰り返し書いて(言って)きた。「ロゴスと言葉」を「教える」つもりはもちろんない。みんなも「ロゴスと言葉」を理解することが目的だ、などと考えてはいけない(だがもちろん理解しなくてはならない。その都度、授業の場面場面では理解しようとしなくてはならない。ここらあたりの理屈は→)。
 今回の7~8回の授業も、どんな教材文を扱っても常に共通した目的であるところの「国語力増強」のためにせっせと文章を読んだり話し合ったりする。だがそれは「ロゴスと言葉」という文章を理解することが目的ではない。それは手段であり一過程だ。
 と同時に、いくつかの文章を読むことで、現代の言語学の基本的な考え方を理解することも目論んでもいる。それはそれで有益な知識であり認識である。
 だがそれは、一つの文章を詳細に解説されることで達成されるというようなものではなく、同じ考え方に基づいた文章を複数読み比べる方が、はるかに身につくものなのだ。
 「ロゴスと言葉」もそうした言語学の基本的な考え方の、一つの表れとして読む。

 まずは「ロゴスと言葉」を読む。
 授業ではまず「この文章は何を言っているか?」と聞いた。教科書を閉じておいて、隣の人に、この文章の内容を話しなさい…。
 これができることは、記憶力が高いということではない。
 何が書いてあったかを頭にとどめておくためには、理解と要約が必要である。画像のように字面を記憶したり、音声レコーダーのように文章を暗唱したりすることができる特殊能力者も世の中にはいるのだろうが、普通は理解していないことは覚えられない。だから情報を圧縮する過程で理解が促される。
 そしてそれを他人に伝えるときにはもう一度、圧縮した情報を解凍して、表現しなおさなければならない。
 つまり情報の圧縮解凍とは、国語における理解表現にあたる。
 その文章の内容を、テキストを見ずに他人に説明できる長さと適切さは、そのままその人の「国語力」を表わしていると言っていい。細かく、適切に伝えられる人ほど、国語力が高い。
 文章の内容を他人に伝えるというのは、最も簡便で最も効果的な国語科学習である。実際に他人がいなかったら、頭の中で思い返すだけでもいい。読み終わったらテキストを伏せる、というのがミソである。

 次は、読解のためのメソッドを使おう。
 まず「問いを立てる」である。この文章が考察している問題を疑問形で表わす。
 どのような「問い」が全体を最も包括的に捉えるのに有効かを考えるだけで、文章の読解に向けての考察は大きく前進する。適切な問いが立ったら、それだけで頭がスッキリする感覚が実感できるはずである。
 どのような問いが適切か?
そう考えてみるだけで有益だ。
 そしてこの文章について授業者は、これがとりわけ考えるのに手間のかかる作業とは思っておらず、答えるのがそれほど難しいとは想定していなかった。
 ところが授業ではここに思いの外、手こずった人も多かったのだった。
 授業では、誰が指名されるか、どのような順番で指名されるかによって展開に大きく変わるから、指名された一人目が的確な「答え」を出してしまえば、その問いの難しさは明らかにはならない。ところが多くのクラスで、この問いの適切な「答え」が出るまでには、案外に何人かを指名することになってしまったのだった。
 みんなが立てた問いは、部分的すぎたり、「答えがYes-Noになる問い」だったり、問いよりもむしろ答えであるべき内容に無理矢理疑問形を付け加えたものだったりした。
 たとえば「ロゴスとは何か?」という問いを立てた者は多かった。おそらく詳細な読解をしていない現状で、「ロゴスって結局何のこと?」というような疑問がもやもやと胸にあるのだろうという感じはわかる。
 だが、この文章はそれを明らかにしようとしているだろうか?(ちなみにこういうのが「答えがYes-Noになる問い」である。文末の疑問形は反語だ。「いや、していない」という否定が続くことが最初から含意されている)。
 題名の「ロゴスと言葉」を手がかりに問いを立てるとしても、次の二つの問いのどちらが適切かは考えればすぐわかるはずである。

  • 「ロゴス」とはどのようなものか?
  • 「言葉」とはどのようなものか?

 この文章は「ロゴス」という聞き慣れない言葉を読者に向けて解説したり、その概念について筆者自身が考察したりすることが、全体の目的になっているだろうか(いや、なっていない)。そもそも「ロゴス」という言葉は最初のうちしか出てこない。「ロゴスとは何か?」という問いが適切であるかどうかは、考えればすぐわかるはずである。
 「ロゴス」は「言葉」のはたらきを説明するための切り口の一つとして用いられているのであって、いわばこの評論にとっての手段である。目的ではない。
 それよりも「言葉とはどのようなものか?」という問いは、この文章全体を貫く問題意識であり、各部分、そして結論がそれぞれこの問いに対する「答え」を提示しようとし続けていることは、そう思って全体を思い返してみればすぐに実感されるはずだ。
 この、そう思って全体を見直してみたときスッキリ感を実感してほしい。

 さて、大きな問題意識は明確になった。だが今すぐに「言葉とはどのようなものか」が適切に説明できるわけではなかろう。部分的には答えられる、本文のフレーズをそのまま引用することはできる、が、それどういうこと? とさらに突っ込まれたらそれ以上に説明をすることはできない、というのが現状だろう。
 さらに読解を続ける。