まずは教科書の「ロゴスと言葉」だ。
「言語論を読む」と言い、「まずは」と言う。
つまり最初からいくつかの文章を読むつもりなのだ。
国語の授業は、教科書の文章を「教える」ものではない、と繰り返し書いて(言って)きた。「ロゴスと言葉」を「教える」つもりはもちろんない。みんなも「ロゴスと言葉」を理解することが目的だ、などと考えてはいけない(だがもちろん理解しなくてはならない。その都度、授業の場面場面では理解しようとしなくてはならない。ここらあたりの理屈は→)。
今回の7~8回の授業も、どんな教材文を扱っても常に共通した目的であるところの「国語力増強」のためにせっせと文章を読んだり話し合ったりする。だがそれは「ロゴスと言葉」という文章を理解することが目的ではない。それは手段であり一過程だ。
と同時に、いくつかの文章を読むことで、現代の言語学の基本的な考え方を理解することも目論んでもいる。それはそれで有益な知識であり認識である。
だがそれは、一つの文章を詳細に解説されることで達成されるというようなものではなく、同じ考え方に基づいた文章を複数読み比べる方が、はるかに身につくものなのだ。
「ロゴスと言葉」もそうした言語学の基本的な考え方の、一つの表れとして読む。
まずは「ロゴスと言葉」を読む。
授業ではまず「この文章は何を言っているか?」と聞いた。教科書を閉じておいて、隣の人に、この文章の内容を話しなさい…。
これができることは、記憶力が高いということではない。
何が書いてあったかを頭にとどめておくためには、理解と要約が必要である。画像のように字面を記憶したり、音声レコーダーのように文章を暗唱したりすることができる特殊能力者も世の中にはいるのだろうが、普通は理解していないことは覚えられない。だから情報を圧縮する過程で理解が促される。
そしてそれを他人に伝えるときにはもう一度、圧縮した情報を解凍して、表現しなおさなければならない。
つまり情報の圧縮と解凍とは、国語における理解と表現にあたる。
その文章の内容を、テキストを見ずに他人に説明できる長さと適切さは、そのままその人の「国語力」を表わしていると言っていい。細かく、適切に伝えられる人ほど、国語力が高い。
文章の内容を他人に伝えるというのは、最も簡便で最も効果的な国語科学習である。実際に他人がいなかったら、頭の中で思い返すだけでもいい。読み終わったらテキストを伏せる、というのがミソである。
次は、読解のためのメソッドを使おう。
まず「問いを立てる」である。この文章が考察している問題を疑問形で表わす。
どのような「問い」が全体を最も包括的に捉えるのに有効かを考えるだけで、文章の読解に向けての考察は大きく前進する。適切な問いが立ったら、それだけで頭がスッキリする感覚が実感できるはずである。
どのような問いが適切か?そう考えてみるだけで有益だ。
そしてこの文章について授業者は、これがとりわけ考えるのに手間のかかる作業とは思っておらず、答えるのがそれほど難しいとは想定していなかった。
ところが授業ではここに思いの外、手こずった人も多かったのだった。
授業では、誰が指名されるか、どのような順番で指名されるかによって展開に大きく変わるから、指名された一人目が的確な「答え」を出してしまえば、その問いの難しさは明らかにはならない。ところが多くのクラスで、この問いの適切な「答え」が出るまでには、案外に何人かを指名することになってしまったのだった。
みんなが立てた問いは、部分的すぎたり、「答えがYes-Noになる問い」だったり、問いよりもむしろ答えであるべき内容に無理矢理疑問形を付け加えたものだったりした。
たとえば「ロゴスとは何か?」という問いを立てた者は多かった。おそらく詳細な読解をしていない現状で、「ロゴスって結局何のこと?」というような疑問がもやもやと胸にあるのだろうという感じはわかる。
だが、この文章はそれを明らかにしようとしているだろうか?(ちなみにこういうのが「答えがYes-Noになる問い」である。文末の疑問形は反語だ。「いや、していない」という否定が続くことが最初から含意されている)。
題名の「ロゴスと言葉」を手がかりに問いを立てるとしても、次の二つの問いのどちらが適切かは考えればすぐわかるはずである。
- 「ロゴス」とはどのようなものか?
- 「言葉」とはどのようなものか?
この文章は「ロゴス」という聞き慣れない言葉を読者に向けて解説したり、その概念について筆者自身が考察したりすることが、全体の目的になっているだろうか(いや、なっていない)。そもそも「ロゴス」という言葉は最初のうちしか出てこない。「ロゴスとは何か?」という問いが適切であるかどうかは、考えればすぐわかるはずである。
「ロゴス」は「言葉」のはたらきを説明するための切り口の一つとして用いられているのであって、いわばこの評論にとっての手段である。目的ではない。
それよりも「言葉とはどのようなものか?」という問いは、この文章全体を貫く問題意識であり、各部分、そして結論がそれぞれこの問いに対する「答え」を提示しようとし続けていることは、そう思って全体を思い返してみればすぐに実感されるはずだ。
この、そう思って全体を見直してみたときのスッキリ感を実感してほしい。
さて、大きな問題意識は明確になった。だが今すぐに「言葉とはどのようなものか」が適切に説明できるわけではなかろう。部分的には答えられる、本文のフレーズをそのまま引用することはできる、が、それどういうこと? とさらに突っ込まれたらそれ以上に説明をすることはできない、というのが現状だろう。
さらに読解を続ける。
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