2020年7月31日金曜日

永訣の朝 11 -「まつすぐにすすんでいく」とは?

 さて、「Ora…」への寄り道をせずに「まつすぐにすすんでいく」について考える3時限コースに合流しよう。これは具体的に何を意味しているか?

 読者は、ここがとりわけ「わからない」とは思っていなかったはずだ(少なくとも授業実施前の筆者はそうだった)。したがって最初のやりとりは、既にわかっていることを微分しながら確認しているだけである。省略も理由も並列も、特に考えるでもなく「わかる」。「まつすぐ」も「すすんでいく」も、すでに肯定的なニュアンスを持った表現だから、それによって妹が「安心する」ことに論理的な疑問は抱かない。
 だがそれが具体的には何を意味しているかと問えば、にわかには答えられないはずだ。
 そもそもそんなことがこの詩から読み取れるのか?

 「今まで通りの道を逸れずに」とか「目的に向かって一直線に」とかいう言い換えはまるで具体的ではない。「道」「目的」とは何を意味しているかがあらためて問題になるだけだ。
 まして「人として正しい道を進んでいく」では、ほとんど同語反復だ。

 「Ora…」の展開を経ずとも、大多数の者がまず発想するのは、「妹の死の悲しみを乗り越えて生きていく」という解釈である。だから「寄り道」をせずとも、この解釈が提出されたところで、これが不整合である理由を考えれば、「わたくし」の「も」について注目せざるをえない。
 「生きていく」という「わたくし」と、今しも死にゆく妹がなぜ並列されるのか?

 「も」の意味、つまり「わたくし」が妹と並列されることの意味を充分に説明できるだけの具体性をもって、と言うと、「妹の後を追って、私も真っ直ぐに天国に進んでいく」という解答にいたるのは、思考としては論理的だ。そうした解釈をつい発想して黙って苦笑している者もいるだろうし、わざと口にして積極的に笑いを取りにゆく生徒もいる(今年もちゃんといた!)。
 だがこの解釈も、単なる受け狙いではなく、それなりに整合的に解釈しようという工夫もあった。
 死にゆく妹と並列するからにも、兄も「まつすぐに」、天に向かって「すすんでいく」のである。ただそれは、直ちに死ぬということではない。誰もが迎える死という終着点まで、一歩ずつ着実に歩んでいくということである。とすれば、死に向かって「進んでいく」とは、ほぼ「生きていく」の同義である。
 なるほど、言いようである。

 一方、「悲しみを乗り越えて生きていく」という解釈で、なおかつ妹と自分を並列させる解釈についても、別なアイデアが提出された。
 「わたくし」が「すすんでいく=生きていく」のに対して、妹が「とおくへいく=死ぬ」を並列することはできない、というのが上記の考え方だが、「生きる」も「死ぬ」も、現時点に留まっていないという点では並列させてもいいのではないか、つまり、お前もこの世に未練を残さずにあの世に「すすんでいく」ことを裏返しに願っているのだ、と解釈すればいいのではないか、というのである。
 これもまたにわかには否定できない論理である。

 あれこれと解釈の可能性を追究するのは好ましいことだ。論理を組み立ててみて、それがどれほど無理なく腑に落ちるかを虚心に測ってみる。
 そのとき、上記二つの解釈はそれぞれによく考えられているが、後述する解釈に比べて、前の文脈から「わたくしも」という並列が引き出される必然性を充分に納得させる解釈にはなっていないように思える。

 この詩行に至る文脈を確認しよう。
 「も」が示す並列は、前の部分の何を受けて、「わたくし」と言っているのか?
 並列されているのは妹なのだから、妹がどうなのか、である。
 論理を追うと、前の行の「わたくしのけなげないもうとよ」の中の「けなげ」を受けていることがわかる。
 つまり「まつすぐにすすんでいく」とは「けなげ」であることを指しているのである。「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」は、「私健気に生きていくから」と言い換えられる。
 さらに34行目・43行目に見られる「やさしい」という形容も加えれば、妹が「やさしく」「けなげ」であったように「私も優しく健気に生きていく」と言っているのだ、という解釈ができる。
 これはもちろん適切な解釈である。

 では、「優しく健気」とはどういうことを指しているか?
 さらに具体的な意味合いを捉える、ダイナミックな読みへ進もう。
 ヒントは出してもいい。
 「も」の並列を考えるためには、そこで並列されるとし子の人となりがわかる必要がある。着目したい詩句を後半から探す。
 それと、以前の授業の考察が伏線になっている。

 どこに着目するか?
 「寄り道」をしていないクラスでは、ここで「Ora…」に注目する者が表れる。それを認めつつも、最終段階では割愛する。
 着目すべきなのは、49行目からの「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」というとし子の言葉である。これを「まつすぐにすすんでいく」の直前の部分と読み比べると、何か気付くことはないか?
 こうした誘導によって、ただちに論理の帰結に至るかもしれない。いわゆる「わかった!」である。だがもちろん、その論理を言葉にして説明することが、同様に容易なわけではない。
 妹は何を言っているのか? 「また人に生まれてくるときは」「自分のことばかりで苦しまないように」どうしたいと言っているのか?

 この部分の直前と「うまれてくるたて…」はともに「他人のために生きる」という点において重ね合わせることができるのである。
 それぞれのクラスで、誰がこのフレーズを口にするだろう?
 このフレーズが場に提出されればこの展開は成功である。このフレーズが提示されたとたんに、他の者の中でも、ある論理が形成されるはずだ。
 この部分、「また生まれてくるときには」と「こんなに苦しまないように生まれてきます」を短絡させてはいけない。「苦しみたくない」と言っているのではない。「自分のことばかりで苦しむ」ことを悔やんでいるということは、本当は「自分のことばかり」ではなく「他人のことで苦しむ」ことが望みだったということだ。むしろ「苦しみたい」と言っているのである。
 できるなら「他人のために生きて苦しむ」ことこそ、彼女の本望であったはずなのだ。それが叶えられないで死にゆく者の言葉として「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」は読める。
 一方で「まつすぐにすすんでいくから」の前の部分、「ああとし子/死ぬといふいまごろになつて/わたくしをいつしやうあかるくするために/こんなさつぱりした雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだのだ」では先の「なぜ頼んだのか?」の考察が伏線になっている。
 兄にみぞれを採ってきてくれと頼む妹の要請が、自らの生理的な欲求によるものではなく、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたのだと語り手は気づく。死の間際にありながら、それでも他人のことを考える妹の「けなげ」さに対して語り手は「ありがたう」と言っている。それを受けて「わたくし」なのである。
 とすれば、「まつすぐにすすむ」とは、妹がそうしていたように、あるいはもっとそうしたかったように「他人のために生きる」ことにほかならない。
 この「から」は、そうして妹の遺志を継ぐことの宣言を理由として、妹が安心して天に召されることを願っていることを示しているのである。

 さて、こうした考察によって初めて明らかになる一節がある。
 こうした賢治の願いを引き受けた表現はどれか?

 「引き受けた」とは曖昧だが、逆に言えば、これを踏まえていなければ意味のわからない表現があるはずなのである。
 先の「沈む」と「気圏」を結びつける問いと同様に、これも答えを限定する問いではないが、聞いてみるとこちらの意図通りの答えは返ってくるものだ。
 55行目の「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」の中の「みんなとに」である。
 この「みぞれ」「雪」が、そのつもりで「わたくし」が「おもて」に走ったように、いわば妹の死に水、末期の水であるとしたら、それが「みんなとに」もたらされる理由はない。
 だからこの「みんなとに」の挿入は唐突である。にわかには論理が見出せないはずだ。
 「みんなとに」がここに挿入される必然性は、ここがいわば、妹の死後、それを願っていた妹の遺志を継いで兄が「みんなのために生きる」ことを妹への手向けの言葉として宣言しているからだ。「聖い資糧」は「みんな」にもたらされるべきなのである。
 このことを、この部分の直前の「うまれてくるたて…」から導き出すだけでなく、詩の前半部の「まつすぐにすすんでいく」と「わりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」を結ぶ隠れた論理を読み取ることから辿り着くよう展開するのは、なかなかにダイナミックな読解体験である。

 「永訣の朝」という詩が、妹の遺志を継ぐことを宣言することで妹を看取る兄の祈りを主想とする詩であることを、「から」で表される「理由」が「理由」になっている論理を明らかにすることから読み取ってきた。
 こうした、この詩の主想の捉え方自体は特別に目新しいものではない。つまるところ「永訣の朝」とはそういう詩であると、世間には認知されている。
 だがそれは必ずしもこの詩を「読む」ことによってもたらされる認識であるとは限らない。教師は、「銀河鉄道の夜」のジョバンニや蠍の祈り、「雨ニモマケズ」の願い、あるいは宮沢賢治が農民のために一生を捧げた教師であるといった伝記的事実を事前に知っており、実はそれをガイドラインにして詩を読んでいるからだ。
 だから生徒が感ずるかもしれない「みんなとに」の唐突さも、ともすれば看過されている。だがそうした詩の周辺の知識を教師によって詩の「外部」から持ち込むことで賢治の祈りを捉えるよりも、目の前の詩の言葉を丹念に読むことによってそうした読みを生成することができるのである。そのダイナミズムを味わう方が、国語科の授業としてよほど意義深い。

 我々は授業において宮沢賢治という人物について知ろうとしているわけではないし、「永訣の朝」という詩について理解しようとしているのですらない。「国語」の授業をしているのである。
 読者ひとりひとりが目の前のテクストを「読む」のである。

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