2020年7月9日木曜日

山月記 4 「虎」の象徴性

 李徴はなぜ虎になったのか?
 この問いに明確に答えることが「山月記」読解の目標だ。
 まずは文中から探し当てた三つの候補について一次的な検討をした。
 さらに、結論に至る経路をさまざまに探ってみる。
 同時にそれは、結論を妥当であると見なすための条件でもある。

 まずは問いに含まれる二つの側面の一方「なぜ虎なのか?」である。
 これはつまり、「虎」が何を象徴しているか、という問いである。
 「象徴」は「ミロのヴィーナス」で既習である。具体物で何らかの抽象概念を表わしているのである。
 「虎」が意味している抽象概念を、単語であれ形容であれ、何らかの言葉にしてみる。そしてその表現が、先の「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」の表れとしてみることができるか、を検討する。

 各クラス、グループワークで話し合わせると、それぞれのグループで多様な「象徴」の候補が出る。もちろん似たような概念・観念にグループ化されるような表現もあるが、とりあえず、バリエーションというだけなら、各クラスとも10前後の表現が提出される。

 虎をどのような象徴と見なすか?
 バリエーションは様々あるとはいえ、どこのクラスにも共通して挙がる表現も勿論ある。また、いくつかの言葉はおおよそ二つの系統に分類できる。
 一つは「孤独・孤高・孤立」など「独り」のイメージである。虎は群れを作らないで単独行動する動物である。
 もう一つは「強さ」のイメージである。虎は百獣の王である。これはバリエーション豊かにさまざまな言葉で言い表せる。
 この二つは「虎」の属性であるとともに、そのまま李徴の性格でもある。人と馴染まない狷介さと、一方で優秀さとプライドの高さ。
 「百獣の王」といえばライオンではないか、という者もいるが「虎の威を借る狐」の故事では虎を「百獣に長たり」と表現している。アフリカでは獅子、アジアでは虎なのだ。ついでに言えばライオンはサバンナで群れている。虎は一頭で茂みに身を潜めている。李徴の性質を示す形象として虎はまことにふさわしい。

 この二面は前回考察した「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の二面性そのままである。
 「臆病」「羞恥心」に表われる「独り」のイメージと「尊大な」「自尊心」に表われる「強さ」のイメージ。
 つまり「なぜ虎なのか?」は容易に納得できる。
 だが「なぜなったのか?」は充分に説明されていると言えるだろうか?
 これが「おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまった」と言うのだが、そのメカニズムは明らかだろうか?

 また、ではどうすれば「ならないでいられた」のか?
 とはいえこれも、上の仮説から答えることができないわけではない。
 「独り」がいけないのなら、もっと人と交われば良かったのだ。
 プライドの高さがいけないのなら、もっと謙虚になれば良かったのだ。
 確かにそれができれば李徴の不幸は解消するだろう。
 だがそんな身も蓋もない反省で李徴の悲劇は回避することができたのだろうか?
 それができなかったことでただちに「虎になる」という極端な事態に至ったのだと納得すべきなのだろうか?

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