李徴が「虎になった」理由として重視すべきなのは、最初に挙げた三つのうち、やはり2「性情が表に出た」なのだろうと、素朴に思う。
ただこのことは、現時点では充分に「わかって」いるわけではない。
そのことについて最終的な考察をする前に、当面「わかる」べきことはわかっておくべきである。
「性情」=「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とは何か? もちろんこんなことは読めば「わかる」。だが「わかる」ことと明晰に説明できることは同じではない。
普通の読者はこの奇妙なフレーズを、身に覚えのある、ある共感とともに理解し、かつ靄のかかった引っかかりとともに受け止めるはずである。
それぞれの表現が指している内容は、さしあたり直後の文に対応しているように見える。
それは形容と形容される言葉の方向性が食い違っていることによる。
「臆病」であることと「尊大」であることは、一見反対の方向性をもっているように見える。「自尊心」と「羞恥心」も同様だ。
普通の読者はこの奇妙なフレーズを、身に覚えのある、ある共感とともに理解し、かつ靄のかかった引っかかりとともに受け止めるはずである。
それぞれの表現が指している内容は、さしあたり直後の文に対応しているように見える。
- 「臆病な自尊心」…己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうとしない
- 「尊大な羞恥心」…己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできない
一応確認しておく。「珠」「瓦」という比喩は何を意味しているか?
「瓦」は前の文の「俗物」の言い換えになっているから、そこから「平凡な者」というほどの意味だと考えることができ、対する「珠」は「才能のある者」の比喩だと考えられる。
「伍する」は?
「落伍者」という言葉は知っているはずだ。そこから考えると「同等の位置にならぶ。肩を並べる。」などという意味が抽出される。
言葉の意味がわかれば言っていることは「わかる」。
にもかかわらず、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」というフレーズには、あるひっかかりを感ずる。この違和感はどこから生じているか?
「臆病」であることと「尊大」であることは、一見反対の方向性をもっているように見える。「自尊心」と「羞恥心」も同様だ。
これが、ちくはぐに組み合わされている。
形容を入れ替えて「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」とすれば違和感はない(今度は「頭が頭痛」のような情報の重複による冗長さによる違和感があるが)。
形容を入れ替えて「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」とすれば違和感はない(今度は「頭が頭痛」のような情報の重複による冗長さによる違和感があるが)。
ではなぜこうした形容が入れ替わって組み合わされているのか?
そしてなぜそうした形容が可能なのか?
まずは「臆病」「自尊心」「尊大」「羞恥心」が、後の文のどこに対応しているかを確認しよう。
前の部分で「人との交わりを避けた」ことが「尊大」だと他人に言われたが、それは「羞恥心」なのだと言っている。とすれば、後の部分の「碌々として瓦に伍する」に対応していることがわかる。
「碌々として瓦に伍することもできない」、つまり平凡な連中と肩を並べられないなどという態度は確かに「尊大」だ。
だがそれは「己の珠にあらざることを惧れる」からだと言えば、それは実は「臆病」さゆえである。
また「己の珠なるべきを半ば信ずる」という「自尊心」は、「己の珠にあらざることを惧れる」という「臆病」を裏に隠しもっているがゆえに、その事実が露わになるのをおそれて「あえて刻苦して磨こうとしない」「卑怯な危惧」ゆえの狷介を生ずる。
つまりこの二つの方向性は相互に循環した因果関係にあるのである。「また」で接続されるのはそれらが表裏一体であることを表している。
「己の珠なるべきを半ば信」じているような「尊大」さがあるから「己の珠にあらざること(が露顕すること)を惧れる」。「己の珠にあらざることを惧れる」という「臆病」が、「碌々として瓦に伍することもできない」という「尊大」なふるまいを生む。
一見方向性の反対の形容は、実はそれぞれが原因であり、同時にその結果としての表われなのである。
捻れた形容は、その関係性を巧みに表わしている。
「山月記」では常に問題となるフレーズだが、整理してみればここまでの解釈はさほど難しくはない(だが世間では上記の展開が授業の山場になっているのが実際のところだろう)。
問題はそれがなぜ「虎になる」という事態を招いたのかという論理である。
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