いったい何をすべきか。
小説を読むことは娯楽だ。それは好きか好きじゃないか、面白いか面白くないか、感動するかしないか、という個人的享受の問題だ。
一方で小説は芸術作品かも知れない。「文学」だの「文芸」だのという言い方で、小説を芸術作品として享受することもありうる。
娯楽は既存世界の安定的反復をめざし、芸術は転覆をめざしているのかもしれないが、いずれにせよ、小説を読むということは個人的な営みである。
だが今、我々が置かれているのは、国語教育が行われようとしている授業という公共の場である。そこでは国語力の伸張が期待されている。そうした目的と、娯楽や芸術の享受という個人的な営みはどのように一致するか。
一方で国語教育は道徳教育でもない。小説は教訓を読み取るための寓話ではない。
娯楽や芸術の享受は楽しみや感動を期待する行為だが、それは個人的な営みである。教室にいる全員が楽しんだり感動したりすることをめざすことが可能だろうか。それを期待するのは構わない。多くの者が感動できれば結構なことだ。だがそれをどのようにしてめざすのか。
一方で、教訓を得て道徳観念が涵養されるのは結構なことだ。だが「教訓を与える」ことは、本当に道徳観念の涵養に益するのか。
国語教育の目的は、国語力の伸張である。「適切な」読解をめざした結果、それが娯楽であれ芸術であれ、楽しんだり感動したりできれば重畳、それは余録である。それを目的にしてはならない。
道徳観念の涵養に益する教訓が得られるのも同様である。文学はむしろ常識的な「教訓」の破壊を目論んでいるかも知れないのである。文学に触れることが必ず道徳観念の涵養につながることを期待してはいけない。
まずは「読解」である。その先の感動やら教訓やらといった余録は、僥倖であり恩寵である。
「山月記」を読解できたと見なすための最低限の条件は何か?
「わからない」とすれば何が「わからない」のか、「わかった」とすれば何が「わかった」のか?
それを判定するための試金石は明らかである。次の問いに答えることである。
- 李徴はなぜ虎になったのか?
この問いに、今直ちに答えられるだろうか?
わからないわけではない。だが「わかる」と即答することにもためらわれる。
おそらく授業前の状態は、この問いに対する答えが明確な形を成しているとは言えず、といって見当もつかないというわけでもないボンヤリとした手応えだけがあるという状態のはずだ。
ここに明確な形を与えることを目標とする。
この問いには二つの問いが含まれている。
はたして、李徴はなぜ虎になったのか?
ここに明確な形を与えることを目標とする。
この問いには二つの問いが含まれている。
そう言うとみんなは直ちに何のことか了解する。さほど遠くない過去、「ミロのヴィーナス」において「腕の無いミロのヴィーナスはなぜ美しいのか?」という問いに二つの問いを見出したことがあるからだ。すなわち「なぜミロのヴィーナスは美しいのか?」「なぜ無い部分が腕でなければならないのか?」という二つの問いである。
「山月記」における上の問いにも、次の二つの問いが隠れている。
最終的な「答え」には、これら二つの要素が含まれていることが条件である。
これらを説明するためには、それぞれを対比を応用して、考えるべき焦点を明らかにすると良い。
すなわち「なぜなったか」を考えるには「どうすればならずにいられたか」を考える。
また「なぜ虎なのか」を考えるには、虎以外の生物(いや、ロボットでも棒でもいい)ではなく虎であることの意味、すなわち、「虎」の属性・象徴性をあきらかにするのである。
さて、まずは小説中から、この問いの答えになりそうな箇所を3カ所見つける。全ページを斜め読みし、まずは探す。
「答えになりそう」というのがどのレベルの直截性なのかはまた問題ではあるのだが、とりあえず皆が納得しやすいところとして衆目の一致するのは次の3カ所である。
板書はシンプルに
とでも書いておく。
さしあたってこの3点を検討する。
「山月記」における上の問いにも、次の二つの問いが隠れている。
- なぜ李徴は人間でないものになったのか?
- なぜ李徴がなったものは虎なのか?
最終的な「答え」には、これら二つの要素が含まれていることが条件である。
これらを説明するためには、それぞれを対比を応用して、考えるべき焦点を明らかにすると良い。
すなわち「なぜなったか」を考えるには「どうすればならずにいられたか」を考える。
また「なぜ虎なのか」を考えるには、虎以外の生物(いや、ロボットでも棒でもいい)ではなく虎であることの意味、すなわち、「虎」の属性・象徴性をあきらかにするのである。
「答えになりそう」というのがどのレベルの直截性なのかはまた問題ではあるのだが、とりあえず皆が納得しやすいところとして衆目の一致するのは次の3カ所である。
- なぜこんなことになったのだろう。わからぬ。まったく何事も我々にはわからぬ。理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ。
- おれはしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だと言う。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これがおれを損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。
- 飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。
板書はシンプルに
- わからない
- 性情が表に出た
- 妻子よりも詩業を気にかけているから
とでも書いておく。
さしあたってこの3点を検討する。
はたして、李徴はなぜ虎になったのか?
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