全体を捉えること。細部を見つめること。詩を読むためのアプローチはさまざまな角度から企図されていい。
とはいえ、言わばこの詩の「定番」といえるいくつかの問題点については、すべてに触れるわけではない。
たとえば「永訣の朝」を授業で扱う際に言及されることの多い「二」という数字の意味については、筆者には何のアイデアもない。確かに「二」はどうみても意味ありげに繰り返される。だが、なぜ陶椀を「ふたつ」持つのかも、賢治が妹と自分の思い出である陶椀二つを切り離して考えられないからだ、などという解釈を聞いても、だからどうした、と思うばかりである。何か、認識が更新されるような感慨がおこらない。だから、なぜ賢治は陶椀を「ふたつ」持って出たのか? などと授業で聞く気にはなれない。
つまり「永訣の朝」を「教える」ことが目的なのではなく、何かしら意義ある言語活動をしようとしているのである。授業者自身がそこに手応えを感じていない論点については、扱うことはできない。「まがつたてつぱうだまのやうに」や、後で言及するローマ字表記などもそうである。
最後に扱うのは、この詩の主想に至る考察を導く問いである。
27行目「雪のさいごのひとわんを…」は、25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」に返っていく。こういうのを何と言う? と聞いてみる。すぐに挙がる「倒置法」は、詩に多用される修辞法として中学以来お馴染みである。
このように、句読点のない詩を読むとき、我々は、倒置されている可能性も含めて係り受けを判断しながら文構造を把握している。どこかの詩行は文の途中であり、どこかの行は文末である。
この問答を枕にして、次の問いである。
では22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこに係るか?
23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらないし、24.25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味がわからない。その後にも22行目を受ける詩行はない。
一方「倒置法」のやりとりを枕にしておいたのは、前を遡って探すことにも誘導するためだ。だがこれも見つからない。
つまりこの「から」はどこにも続かない。係っていない。といって「から」は終助詞ではないから通常の「文末」とは思えない。では何だ?
つまり文末が省略されているのである。
では「~から」の後には何が省略されているのか? 「から」の後に何と補う?
無意識にそれを補っているからこそ「から」が宙に浮いてしまっていることにも、とりわけ違和感を覚えずにいるのである。
「安心して逝きなさい」「心配しないでおやすみ」「安らかに成仏してくれ」など…。
さて、ここからが問題である。
「から」は理由を表す接続助詞である。何が何の理由だと言っているのか?
「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことが「安らかに成仏してくれ」と言いうる理由になっているのである。
では「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?
とはいえ「まつすぐにすすんでいく」というのはそれだけで何やら良いことのように思われるポジティブなイメージの表現だ。だから、それで妹が安心すると言われても別に不審を覚えたりはしない。
問題は、「まつすぐにすすんでいく」とは具体的に何を意味しているか、である。
「まつすぐにすすんでいく」は比喩である。これがどのような事態を喩えたものかを明らかにして、それが妹を安心させることになると賢治が考える論理を説明する。
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