2020年7月23日木曜日

永訣の朝 7 -「わたくし」は「おもて」にいる

 「わたくし」は窓から「おもて」を見たりなどしてはいない。「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」という一節を語る時、語り手は既に屋外にいて、みぞれをその身に浴びている。
 授業者の経験に拠れば、クラスに一人二人は最初からこうした読みをしている。
 そしておそらく、そのように読んだ者も、「語り手はどこにいるか?」という問いかけによって、はじめて最初から外にいる語り手の姿が想像されているという自らの読みを「発見」するのであろう。そしてその発見が自覚的でない場合、最初の自分の読みを忘れてしまうか、大多数の、室内にいるという声に押されて黙っていることが多いのである。

 語り手が詩の冒頭部分で「室内にいる」という読みの方が妥当性が高いと考える根拠はおそらく、ない。「おもては」にしろ「飛びだした」にしろ、室内にいることの根拠にはならない。なるように感じるのは前述の「因果関係の逆転」である。

 では「庭先にいる」ことの妥当性の根拠はあるか?
 現在まで、筆者の授業で生徒から出された根拠は以下の通りである。
a 室内にいるのなら6行目は「ふつてくる」ではなく「ふつている」の方が自然。
b 12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだし」の文末の過去の助動詞「た」は、語り手の行動については詩の中でここだけでしか使用されていない。これは「飛びだした」が回想であることを示している。
c 12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」の「この」という連体詞は、すでに語り手が「みぞれのなか」にいることを示している。現に行為しつつあることの表現ならば単に「くらいみぞれのなかに飛びだした」が自然。
d 9行目の「これらふたつのかけた陶椀に」の「これら」は、既に陶椀が語り手の手中にあることを示している。「これら」を除いてみると、今しも手にしつつある印象になる。
e 6行目の「びちよびちよ」という形容は、視覚的なものというより触覚的なものである。したがって直に「みぞれ」に触れているような印象がある。

 これらは「庭先にいる」ことを積極的に示す根拠ではなく、冒頭が「室内にいる」ことが不自然であると感じられる根拠、8~12行目が回想であるように感じられる根拠である。
 そしてこれらは「室内ではあり得ない」と言いうるだけの絶対性のある根拠ではない。だからこそみんな「室内」という解釈に対して疑問を抱かないのだ。
 例えばaでは、窓の外を見ながらでも「ふつてくる」と言うことはできる。どういう場合か? 自分のいる場所を、窓の外か室内かという区別をせずに「地上」という括りで捉えているのである。
 bでは「た」という助動詞が過去と完了の区別ができないという口語文法の事情ゆえの解釈の不確定性に拠っている。過去ならば回想に感じられるが、完了だと考えれば、たった今の完了でもいいのだから、ほとんど現在時点の描写であるとも読めるのである。
 cdeもやはり決定的とは言えない。
 とはいえ、それぞれに、少なくとも「どちらが自然か」を考える上で説得力のある根拠ではある。

 だが「語り手は最初からおもてにいる」と考えるべき最大の理由は他にある。
 詩の冒頭で語り手が「室内にいる」「庭先にいる」それぞれの想定において、詩の中のできごとを時系列順に並べ、そのどちらが自然かを想像してみよう。
 どのようなシミュレーションがなされるか?

 かつて室内にいる語り手を想像していた授業者は、冒頭で「いもうとよ」と呼びかけられる妹は眠っている(意識を失っている)ものと特に考えるでもなく想像していた。熱にあえいでいるとはいえ、意識のある妹に「おもては」とか「みぞれは」とかいう窓の外の眺めを描写するのは不自然だからである。
 だがこの想像は、よく考えると不自然である。詩句からは、7行目以降に妹が目を覚まして「採ってきて」と言ったようには思えない。「あめゆじゆとてちてけんじや」は、この詩の最初の一行より前に発せられたものであろう。
 とすると、妹に「熱やあへぎのあいだから」みぞれを採ってきてくれと言われた兄は、なぜかその時点では動かず、妹が眠りにつくまで枕元にいて、なぜか窓の外の様子を(心の中で)語りかけ、その後、何をきっかけにしたのか、突如思い立って焦ったように「てつぱうだまのやうに…飛びだした」ということになる。しかもそのみぞれを、いつ目覚めるとも知れない妹に食べさせるつもりなのである(一旦冷凍庫にでもしまうつもりなのか?)。
 こうした想像は辻褄が合わず滑稽である。
 といって、最初の時点で妹が目覚めたままであるとしても、やはり意識のある妹に外の様子を語るのは不自然だし、なぜ頼まれてすぐに採りに行かないのか、何をきっかけに飛び出したのかはやはり不審である。

 それよりもこう考えるのが自然なはずである。
 語り手は妹に雨雪を採ってきてくれと言われてすぐに「おもて」に「飛びだした」のである。「てつぱうだまのやうに」という比喩の切迫感は、採ってきた雪を妹に食べさせることを想定していることを表わしている。だから語り手が妹の枕元で長居する時間はない。まして意識のない妹の枕元にいる機会などない。
 妹は眠ってなどおらず、今しも病室で熱にあえぎながらも兄の採ってくるみぞれを待っている。
 その妹に呼びかける詩の冒頭が、この詩の現在時点である。
 これは「あめゆじゆ…」の科白が実際に妹の口から発せられてから、1分程のことであろう。
 そして、飛びだして見るとみぞれを降らせる雲は「くらい」にもかかわらず、全体として「おもてはへんにあかるい」のである。この「へんに」に感じられる胸騒ぎは、妹に死が迫った状況を素直に受け入れられない語り手の不安定な心情を感じさせるが、同時に、室内から見ていたのとは違っておもてに出てみると、というニュアンスでもあると考えると腑に落ちる。
 「ふつてくる」と「沈んでくる」の詩句の間には、わずかな回想の間があるだけで、それほどの時間経過があるわけではなく、詩の終わりまでみても、雨雪をどこから採るかに彷徨しているとはいえ、全体として5分程の出来事であろう。

 こうしたシミュレーションを分析的に語ることは、詩を読むこととは相容れないことのように感じるかもしれない。そして、詩というフィクションの虚構性/現実性の区別など、一義的に決定できない実に曖昧なものだ。
 「あめゆじゆ…」から冒頭の「けふのうちに…」までが1分程だという推定は間違っているとは思えないが、一方で、この科白の、まるで「回想」性とでも呼ぶべきリフレインのニュアンスは、作者がこの詩を実際に書くまで、あるいはその後、妹のことを思い出すたび、あるいは今我々がこの詩を読むたびに、繰り返し何度も遙かな過去から響いてくるようでもある。
 そのニュアンスを感じ取ることと、詩の中の出来事の時間感覚をリアルにシミュレーションしてみることは、別の思考ではあるが、しかし決して矛盾するわけではない。
 フィクションを享受することは、一方ではその世界をもう一つの現実として「体験」することでもあり、同時に詩を読むことは、リアルな時間感覚を超越した超現実的な「体験」でもある。
 少なくとも、過去の数知れない読者―授業者自身を含めた―は、現実的な「体験」の水準としては、「室内からみぞれの降る空を見る」という、詩の中には存在していない、間違った「体験」をしていたのである。

 こう考えてみると、冒頭の「おもてはへんにあかるいのだ」の語り手が室内にいるという想像は、詩句の与える情報の不整合を単に看過することで成立しているのである。一度、最初から外にいるという「読み」について知って、それを本気で想像してみると、もう、そうとしか思えない。むしろ、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する者がいるとは思えない。
 この妥当性は誰にも納得されるはずだ。

 ではなぜ賢治はこんなにわかりにくい、殆どの人に誤解されるような書き方をしているのか?
 そうではない。賢治は想定の中で、語り手を庭先に立たせて詩を語りはじめながら、それが「室内にいる」などという別の解釈を成立させる余地があることに、おそらくまったく思い至ってはいないのだろう。だからわざわざそのことを明示しなければならない、という意識すらしていない。
 だが、それでもその想定は詩句の選択や造型、配置の際、上に指摘したような細部にその痕跡をとどめているのである。

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