「永訣の朝」の語り手は、最初室内にいて、病室の窓から、庭先に降るみぞれを見ているように読める。
だが、こうした読みに異を唱える人が一定の割合でいる。
彼らは次のように読んでいる。
語り手は、詩の最初から屋外にいる。
おそらくこの可能性は、ほとんどの者にとって全くの想定外で、あまりに突飛な、唐突な「トンデモ」解釈に見えるはずである。出版社が「公式」な解釈として世に流通させているのは、上記に見たとおり「最初は室内にいる」という解釈である。
どちらが正しいか、を考えるより先に、まずは両方の読みを確実に掴むことが重要だ。
想像してみよう。
熱に苦しむ妹の病床の傍らで、賢治が己の無力さをかみしめつつ「いもうとよ」と呼びかける。窓の外を見て「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」と心の中で妹に語りかける(これらの詩句が、直接口に出され、妹に語りかけられたものだとは考えにくい)。窓の外の空を見上げ、みぞれが降ってくる様子を語り、それから「陶椀」を手にしてみぞれを採りに「おもて」に飛びだす。
一方、あらたに想像しようとしているのは、はじめからみぞれの降る庭先に立つ賢治の姿である。
一方、あらたに想像しようとしているのは、はじめからみぞれの降る庭先に立つ賢治の姿である。
「わたくし」は暗い雲の下に佇んで、そこから室内の病床に横たわる妹に「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」と語り始めるのである。今しも「おもて」にいる語り手が、さっき明るい室内から見た時の印象と違ってここは「へんにあかるいのだ」と表現しているのである(庭先から語りかけているのだから、こちらももちろん心中語である)。
驚くべき認識の変更が訪れないだろうか?
実は授業者の思い描いていたのも、最初に「永訣の朝」を読んで以来ながらく、前者のような光景だった。
それから30年あまり経って、授業者に後者の「読み」の可能性をもたらしたのは高校生の息子だった(数年前のことだ)。授業でこの問題について議論してきた息子が、家に帰ってその話をしたのだ。彼は「みんな室内にいるって言うんだけど、私には最初から外にいるように思えるんだよね」と言う。
それを聞き、半信半疑でその可能性を検討したときの感覚は、いわゆるちょっとした「コペルニクス的転回」だった。
驚くべき認識の変更が訪れないだろうか?
実は授業者の思い描いていたのも、最初に「永訣の朝」を読んで以来ながらく、前者のような光景だった。
それから30年あまり経って、授業者に後者の「読み」の可能性をもたらしたのは高校生の息子だった(数年前のことだ)。授業でこの問題について議論してきた息子が、家に帰ってその話をしたのだ。彼は「みんな室内にいるって言うんだけど、私には最初から外にいるように思えるんだよね」と言う。
それを聞き、半信半疑でその可能性を検討したときの感覚は、いわゆるちょっとした「コペルニクス的転回」だった。
驚いたことに、語り手が詩の最初から「おもて」にいて、今しも「みぞれ」をその身にあびているのだという解釈は、他のどの詩句とも矛盾しない。それどころか、そう考えてこそ詩句の細部が整合的に納得されると感じた。
だが問題は結論ではない。語り手は最初から外にいる、などと「教える」気は、授業者にはない。問題はそうした読解の適切さの検討である。
最初から外にいるという説を聞いた時に、「室内」派が反論として想起するのは、「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という一節である。外にいたら「おもては…のだ」とは言わないのではないか?
これは実は因果が逆転している。語り手が室内にいると主張する者は、「おもては」によって室内であることを確信したのではなく、室内だという想像の後に「おもては」という言説を理解し、得心しているのである。
「おもては」から限定的に室内であることが想像される蓋然性はない。前提を留保し、虚心坦懐に、屋外にいるところを想像してからこの詩句を読めば、それが何ら不自然でないことは理解できるはずだ。テレビの中継放送の「現場リポート」のように、「おもて」にいる「わたくし」が、病室に向かって「おもて」の様子を伝えているのである(「現場の賢治さん、そちらはどうですか?」「はい、おもてはへんにあかるいです」)。
一方、室内であることの積極的な根拠として挙げられるのは11~12行目「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」である。
語り手が最初から屋外にいると読むためには、この部分をどう考えるのか?
これはつまり回想なのである。屋外に佇む語り手が、自分が今「おもて」にいる事情を回想しているのである。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今「みぞれのなか」にいるのである。
「『飛びだした』とあるからそこまでは室内にいるのだ」という説明もおそらく、やはり因果が逆転している。読者は「飛びだした」を根拠として、そこまでを「室内にいる」と読んでいるわけではない。読者からしてみれば、明示されていないのに、語り手が「おもて」にいるという想像をすることはそもそも不可能なのであり、妹の危篤状態という詩の中の状況が把握されるのと同時に、病床につき添う語り手の姿が自然に想像されているということなのだろう。そうした想像に整合するように「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外なのだ、という論理を構築している、というのが実際のところなのだ。
このように、最初から屋外にいたという解釈が可能であることを示すことはできるが、それがただちに屋外であることの積極的な根拠になるわけではない。そうも考えられる、というだけである。
授業者も先述の通り、以前は疑うことなく語り手が室内にいるものと捉え、妹の枕元にいる語り手が窓から、みぞれの降る屋外を見ているという状況を想像していた。
だがそれは、語り手が室内にいるか屋外にいるかという二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものではない。単にそうした解釈しか思い浮かべていなかったというだけなのだ。
授業の意義はここにある。それぞれ読者は、何かきっかけがなければ自分の「読み」を相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものである。それ以外の「読み」の可能性は視野に入らないからである。
だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味がある。
それは残念なことだ。
どんな可能性も、まずは根拠に基づいて検討されるべきである。
そして、二つの「読み」を検討するため、あらためてそれらの「読み」を念頭に置いてテキストを読み返す。その妥当性が、テキストのどこからどのように納得されるかを考察する。それこそが国語科の学習である。どちらかの「読み」を正解として理解することが学習ではない。
だが問題は結論ではない。語り手は最初から外にいる、などと「教える」気は、授業者にはない。問題はそうした読解の適切さの検討である。
最初から外にいるという説を聞いた時に、「室内」派が反論として想起するのは、「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という一節である。外にいたら「おもては…のだ」とは言わないのではないか?
これは実は因果が逆転している。語り手が室内にいると主張する者は、「おもては」によって室内であることを確信したのではなく、室内だという想像の後に「おもては」という言説を理解し、得心しているのである。
「おもては」から限定的に室内であることが想像される蓋然性はない。前提を留保し、虚心坦懐に、屋外にいるところを想像してからこの詩句を読めば、それが何ら不自然でないことは理解できるはずだ。テレビの中継放送の「現場リポート」のように、「おもて」にいる「わたくし」が、病室に向かって「おもて」の様子を伝えているのである(「現場の賢治さん、そちらはどうですか?」「はい、おもてはへんにあかるいです」)。
一方、室内であることの積極的な根拠として挙げられるのは11~12行目「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」である。
語り手が最初から屋外にいると読むためには、この部分をどう考えるのか?
これはつまり回想なのである。屋外に佇む語り手が、自分が今「おもて」にいる事情を回想しているのである。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今「みぞれのなか」にいるのである。
「『飛びだした』とあるからそこまでは室内にいるのだ」という説明もおそらく、やはり因果が逆転している。読者は「飛びだした」を根拠として、そこまでを「室内にいる」と読んでいるわけではない。読者からしてみれば、明示されていないのに、語り手が「おもて」にいるという想像をすることはそもそも不可能なのであり、妹の危篤状態という詩の中の状況が把握されるのと同時に、病床につき添う語り手の姿が自然に想像されているということなのだろう。そうした想像に整合するように「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外なのだ、という論理を構築している、というのが実際のところなのだ。
このように、最初から屋外にいたという解釈が可能であることを示すことはできるが、それがただちに屋外であることの積極的な根拠になるわけではない。そうも考えられる、というだけである。
授業者も先述の通り、以前は疑うことなく語り手が室内にいるものと捉え、妹の枕元にいる語り手が窓から、みぞれの降る屋外を見ているという状況を想像していた。
だがそれは、語り手が室内にいるか屋外にいるかという二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものではない。単にそうした解釈しか思い浮かべていなかったというだけなのだ。
授業の意義はここにある。それぞれ読者は、何かきっかけがなければ自分の「読み」を相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものである。それ以外の「読み」の可能性は視野に入らないからである。
だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味がある。
少数の「語り手は始めから外にいる」という読みをした読者もまた、実は自身が少数派であることを知らずにいる。
そして議論をしてみると「外にいる」と感じていた者も、周囲の多数派の「室内にいる」という疑いのない前提に触れると、たちまち自分の「外にいる」という感じを撤回して(あろうことかそれを忘れてしまいさえして)、「室内にいる」前提の議論に巻き込まれてしまう。それは残念なことだ。
どんな可能性も、まずは根拠に基づいて検討されるべきである。
そして、二つの「読み」を検討するため、あらためてそれらの「読み」を念頭に置いてテキストを読み返す。その妥当性が、テキストのどこからどのように納得されるかを考察する。それこそが国語科の学習である。どちらかの「読み」を正解として理解することが学習ではない。
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