それを「ふつてくる/沈んでくる」の違いという点から考えよう。
「ふつてくる/沈んでくる」の違いとして挙げられた諸点を確認しよう。
- 降り方が 速い/遅い
- みぞれが 軽い/重い
- 視線の向き
- 時間の経過
- 心情表現の程度
このうち、語り手のいる場所「室内/屋外」から導かれた「違い」を修正する。
1「降り方」や2「みぞれの様子」の違いは、印象としてはあるが、それが時間の経過による、実際のみぞれやその降り方の差を表わしていると考える必要はない。
3「視線の向き」と4「時間の経過」は、大きな修正を迫られる。語り手のいる場所の違いはない。時間の経過もほとんどない。
5「心情」はどうか? 4が否定されるのにともなって、「変化」を読み取る必要はなくなるが、表現される「心情」に違いを読み取ることは可能ではある。だとするとそれはどのような違いか?
時間や場所に違いがないとなると、違いは「降る/沈む」という動詞そのものの違いが生むということになる。
3「視線の向き」と4「時間の経過」は、大きな修正を迫られる。語り手のいる場所の違いはない。時間の経過もほとんどない。
5「心情」はどうか? 4が否定されるのにともなって、「変化」を読み取る必要はなくなるが、表現される「心情」に違いを読み取ることは可能ではある。だとするとそれはどのような違いか?
時間や場所に違いがないとなると、違いは「降る/沈む」という動詞そのものの違いが生むということになる。
「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?
日常的な場面で「降る」と「沈む」を適切に使うことはできる。つまり違いはわかっている。
だが「わかっている」ことと「説明できる」ことは違う。
「降る」「沈む」という言葉の意味を、日本語に不案内な外国人に説明してみよう。
これがまずは第一の課題である。
動詞自体の意味は次のように説明できる。
まず、「降る」は空気中を下降することであり、「沈む」は主に液体中を下降することである。これがそれぞれの動詞の本義である。
この説明を適切にすることのできた者は、意外に少ない。「降る」「沈む」という言葉は当たり前に使えているのに、である。
自分が「わかっている」ことを他人に分析的に語るのは難しいのである。
「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だからそれが「沈む」と言い換えられることの意味を考えるというのが第二の課題である。
賢治は、ほとんど同じ光景を描写する二つの詩句において、前者の「降る」を後者では「沈む」に置き換える。「沈む」という動詞はどのような思考によって発想されたのか?
だが賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先に述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に作者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
ここからの考察において重要なのは、この詩句を読んだ自分の心の裡に生じたイメージを、できるかぎり正確に捉えることと、それが詩句のどの部分から、どのような機制によって形成されたかを、できるかぎり正確に捉えることだ。つまり、主観的な読みの様相を客観的に捉えるのである。そして自分以外の他者に届く言葉で語る。
それが目指されている限り、この考察に統一的な決着点を想定する必要はない。
だがそれはよく世間で飛び交う「詩の読みはひとそれぞれ。理屈は要らない」などという不誠実を誤魔化すだけのもっともらしい「文学趣味」な言説とは違う。誠実な思考だけが可能にする自己理解、他者理解、テクスト理解を目指しているのである。
まずはみぞれの粒と降り方の印象の違いである。
「空気中を下降する/液体中を下降する」という違いから、「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのは「降る/沈む」という動詞から生じる違いとして納得できる。したがって同じみぞれでも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
だがこれは「沈んでくる」の時点で水分含有量が多くなった、ということではない。時間的にそれほど差のない二つの描写において、みぞれの降り方やその粒の感触が変わるわけではない。「びちよびちよ」と形容されている時点で、みぞれは最初から水分を多く含んでいたと言ってもいいのである。
とはいえ、実際に違った動詞から形成されるイメージには、やはり違いがあるのだ、とも言える。「降る」では、単なる事態の「説明」になっていたのが、「沈む」では、より水分量を増して、ゆっくりと下降するイメージとなる「描写」になるのだ、と言ってもいい。
では、「沈む」を心情表現として解釈するのはどうか。
やはりこれも、語り手の心情の変化として捉えるべきではない。6行目と15行目の時間的経過はわずかなものだろうし、気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。
そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。
とりわけ6行目から15行目に向かって重みを増すように気分が「沈んで」いく変化は詩句の中からは認められない。
だがもちろん、最初から「沈んで」いた語り手の心情が、ここであらためて表現の一部として示されることで、読者を共感させる機能を持っていることは認めてもいい。
だが上の二点よりも重要なのは以下に述べるイメージだと、個人的には思う。
「視線の向き」という点について、語り手のいる場所ではなく、動詞のもともと持っている文脈的背景から、それが形成するイメージについて考えてみよう。
通常、「降る」は「~から降る」、「沈む」は「~へ沈む」の形で使われる。「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」である。補助動詞をつけるならば「空から降ってくる/底へ沈んでいく」である。
だが実際には、詩の中では「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、同じ文型に「降る/沈む」がはめ込まれている。
「降る」については通常の文型だから、問題は、本来「沈んでいく」という補助動詞をつけるのが自然であるような、下向きの視線を想像させる「沈む」という動詞を、「~から~てくる」という本来不整合な文型に嵌め込むことによってどのような意味が生ずるかである。
「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられていると想像するしかない。つまり語り手はどうしても空を見上げなければならない。
一方で「沈む」という動詞は、「沈んでくる」と表現される語り手自身のいる場所を「水底」としてイメージさせる。つまりはみぞれの落ちてくる空を見上げながら、同時に「底」にいる自分を広い空間から見下ろしている、という視座をも獲得することになる。
動詞と文型がそれぞれ異なった映像を同時に生み出しているのである。カメラは一台ではない。
「みぞれが降る」というニュートラルな表現に比べて、「みぞれが沈む」という不自然な表現は、いわば動詞による比喩表現だと言っていい。「『沈んでくる』ように『降ってくる』」のである。
比喩とは、喩えるものと喩えられるもの、異なった二つの映像を重ねるはたらきをもった表現技法である。視点は一つではない。
こうした「沈む」の解釈は、詩の中の他のどの言葉と響き合っているか?
答えを限定するような問いではないが、同様に感じている者は必ずいるはずだ。
14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。
とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。そのうえでそれを水面から底までの、液体の充満した空間―海かプールか水槽―のようなイメージと重ね合わせるのが「沈む」という動詞である。
そしてさらに詩の後半まで視野を広げさせると、それが最後に「天」と響き合うことに気づく。
逆にそうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないかと考えると腑に落ちるものがあるのではないだろうか。
みぞれは、水の中を、底に佇む自分に向かってゆらゆらと沈んでいく。同時にそうして沈んでくるみぞれを、庭先で見上げているのである。
「沈む」という動詞は、確かに水分を多く含んだ重い「みぞれ」のイメージから導き出されたものかもしれないし、悲しみに「沈む」語り手の心情から導き出されたものかもしれない。
だがそれよりも、「沈む」という動詞が、自分がいるこの地上を「大気の底」として捉えるイメージから発想されたものだと考えるのが、今のところ授業者にとっては最も腑に落ちる。
この地上を「大気の底」―「天の下」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人の認識がこの「沈んでくる」という表現に表出しているように思える。
日常的な場面で「降る」と「沈む」を適切に使うことはできる。つまり違いはわかっている。
だが「わかっている」ことと「説明できる」ことは違う。
「降る」「沈む」という言葉の意味を、日本語に不案内な外国人に説明してみよう。
これがまずは第一の課題である。
動詞自体の意味は次のように説明できる。
まず、「降る」は空気中を下降することであり、「沈む」は主に液体中を下降することである。これがそれぞれの動詞の本義である。
この説明を適切にすることのできた者は、意外に少ない。「降る」「沈む」という言葉は当たり前に使えているのに、である。
自分が「わかっている」ことを他人に分析的に語るのは難しいのである。
「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だからそれが「沈む」と言い換えられることの意味を考えるというのが第二の課題である。
賢治は、ほとんど同じ光景を描写する二つの詩句において、前者の「降る」を後者では「沈む」に置き換える。「沈む」という動詞はどのような思考によって発想されたのか?
だが賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先に述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に作者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
ここからの考察において重要なのは、この詩句を読んだ自分の心の裡に生じたイメージを、できるかぎり正確に捉えることと、それが詩句のどの部分から、どのような機制によって形成されたかを、できるかぎり正確に捉えることだ。つまり、主観的な読みの様相を客観的に捉えるのである。そして自分以外の他者に届く言葉で語る。
それが目指されている限り、この考察に統一的な決着点を想定する必要はない。
だがそれはよく世間で飛び交う「詩の読みはひとそれぞれ。理屈は要らない」などという不誠実を誤魔化すだけのもっともらしい「文学趣味」な言説とは違う。誠実な思考だけが可能にする自己理解、他者理解、テクスト理解を目指しているのである。
まずはみぞれの粒と降り方の印象の違いである。
「空気中を下降する/液体中を下降する」という違いから、「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのは「降る/沈む」という動詞から生じる違いとして納得できる。したがって同じみぞれでも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
だがこれは「沈んでくる」の時点で水分含有量が多くなった、ということではない。時間的にそれほど差のない二つの描写において、みぞれの降り方やその粒の感触が変わるわけではない。「びちよびちよ」と形容されている時点で、みぞれは最初から水分を多く含んでいたと言ってもいいのである。
とはいえ、実際に違った動詞から形成されるイメージには、やはり違いがあるのだ、とも言える。「降る」では、単なる事態の「説明」になっていたのが、「沈む」では、より水分量を増して、ゆっくりと下降するイメージとなる「描写」になるのだ、と言ってもいい。
では、「沈む」を心情表現として解釈するのはどうか。
やはりこれも、語り手の心情の変化として捉えるべきではない。6行目と15行目の時間的経過はわずかなものだろうし、気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。
そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。
とりわけ6行目から15行目に向かって重みを増すように気分が「沈んで」いく変化は詩句の中からは認められない。
だがもちろん、最初から「沈んで」いた語り手の心情が、ここであらためて表現の一部として示されることで、読者を共感させる機能を持っていることは認めてもいい。
だが上の二点よりも重要なのは以下に述べるイメージだと、個人的には思う。
「視線の向き」という点について、語り手のいる場所ではなく、動詞のもともと持っている文脈的背景から、それが形成するイメージについて考えてみよう。
通常、「降る」は「~から降る」、「沈む」は「~へ沈む」の形で使われる。「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」である。補助動詞をつけるならば「空から降ってくる/底へ沈んでいく」である。
だが実際には、詩の中では「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、同じ文型に「降る/沈む」がはめ込まれている。
「降る」については通常の文型だから、問題は、本来「沈んでいく」という補助動詞をつけるのが自然であるような、下向きの視線を想像させる「沈む」という動詞を、「~から~てくる」という本来不整合な文型に嵌め込むことによってどのような意味が生ずるかである。
「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられていると想像するしかない。つまり語り手はどうしても空を見上げなければならない。
一方で「沈む」という動詞は、「沈んでくる」と表現される語り手自身のいる場所を「水底」としてイメージさせる。つまりはみぞれの落ちてくる空を見上げながら、同時に「底」にいる自分を広い空間から見下ろしている、という視座をも獲得することになる。
動詞と文型がそれぞれ異なった映像を同時に生み出しているのである。カメラは一台ではない。
「みぞれが降る」というニュートラルな表現に比べて、「みぞれが沈む」という不自然な表現は、いわば動詞による比喩表現だと言っていい。「『沈んでくる』ように『降ってくる』」のである。
比喩とは、喩えるものと喩えられるもの、異なった二つの映像を重ねるはたらきをもった表現技法である。視点は一つではない。
こうした「沈む」の解釈は、詩の中の他のどの言葉と響き合っているか?
答えを限定するような問いではないが、同様に感じている者は必ずいるはずだ。
14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。
とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。そのうえでそれを水面から底までの、液体の充満した空間―海かプールか水槽―のようなイメージと重ね合わせるのが「沈む」という動詞である。
そしてさらに詩の後半まで視野を広げさせると、それが最後に「天」と響き合うことに気づく。
逆にそうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないかと考えると腑に落ちるものがあるのではないだろうか。
みぞれは、水の中を、底に佇む自分に向かってゆらゆらと沈んでいく。同時にそうして沈んでくるみぞれを、庭先で見上げているのである。
「沈む」という動詞は、確かに水分を多く含んだ重い「みぞれ」のイメージから導き出されたものかもしれないし、悲しみに「沈む」語り手の心情から導き出されたものかもしれない。
だがそれよりも、「沈む」という動詞が、自分がいるこの地上を「大気の底」として捉えるイメージから発想されたものだと考えるのが、今のところ授業者にとっては最も腑に落ちる。
この地上を「大気の底」―「天の下」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人の認識がこの「沈んでくる」という表現に表出しているように思える。
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