時間があれば、「まつすぐにすすんでいく」とは何を意味しているかを考える上で寄り道してみたいのは、39行目「(Ora Orade Shitori egumo)」についての考察である。
「山月記」を終えてから夏休みに入るまでの授業は、3時限のクラスと4時限のクラスがあった。3時限のクラスでは、「ふる/沈む」の違いから、「まつすぐにすすんでいく」の考察までを3時間目に詰め込んだから、以下の考察については寄り道をしなかった。4時限のクラスでのみ、この回り道をすることができた。
この行で気になるのは無論、なぜローマ字なのか、という点だ。
だがこれを問う気にはならない。この疑問について何かすっきりと腑に落ちる、目新しい解釈を授業者はもっていないからだ。
もちろんこの問題にふれた多くの解釈は知っている。だがそれらを見ても、どうにもすっきりしない。
それは専ら、この部分の解釈が「なぜ賢治はローマ字で書いたのか?」という形で問われることに因る。つまり解釈の発想が「作者の意図」に偏っていて、後で紹介する諸説にしても、賢治の気持ちを代弁しようという語り口が何だか怪しげだと思ってしまう。
「降る/沈む」の考察の時もそうだが、まずは読者がどのように感ずるかである。そしてそれが作者の意図によるものかどうかを推測すべきなのだ。
それよりもこの詩句については時間があれば問うべきなのは次の問題なはずだ。
「(Ora Orade Shitori egumo)」は誰の言葉か? 「Ora」とは誰を指しているか?
註には「私は私でひとりいきます」という意味だと書いてあるだけで「私」が誰を指しているかは書いていない。
これを問いとして想定する授業案を見たことはない。理由ははっきりしている。結論は既にわかっているものとして看過されているからである。
だが生徒に問うてみれば、必ずどのクラスでも兄と妹で意見は分かれる。詩の言葉自体からはそれが確定できず、どちらの解釈も可能なのである。
意見が分かれるということは考察の余地があるということだ。
「Ora=私」とは誰なのか? そして「ひとりでいく」とはどういう意味か?
兄説、妹説、双方の主張を検討してみよう。
妹説の根拠は、丸括弧で括られている他のふたつ「あめゆじゆ…」「うまれて…」が明らかに妹の言葉だから「Ora…」もそうなのだというものである。
これは自然な推論だが、それだけで妹の言葉だと決めていいのだろうか。
この詩では、丸括弧を付ける法則がどうなっているか? 丸括弧がついている行とそれ以外の行はどう違うか?
丸括弧内は「妹の言葉」もしくは「回想された言葉」と言っている者が多かったが、それは論理が逆転している。推論の前提と結論が混同されている。
この詩で丸括弧に括られている言葉はどれも方言である。それ以外の行は全て標準語である。これも「ふる/沈む」の原義を説明するのと同様、意外に難しい問いだった。的確にこのことを指摘できた者は少なかった。
つまり「方言である」という特徴から、それが他の行とは違う、ととりあえず認識し、それを「妹の言葉」と見なせばいいのだ、という解釈が生じたのである。
また鉤括弧ではないから、直接の会話文(科白)ではないと見なし、「回想された言葉」だと解釈する。そうして、妹が発した言葉を思い出しているのだ、と解釈しているのである。
だがどちらも、まず方言であることから会話文と見なす解釈が生じ、それを「妹の言葉」でありかつ「回想された言葉」であると解釈しているのである。
方言が会話文のように見えるのは確かだ。しかしそうした特徴からは、これらが「兄の言葉」であるとか、実際に口に出されたものかではなく口に出して言っているかのごとき「心中語」であるといった解釈も可能である。
とすればむしろ、ひらがなとローマ字、三文字下げになっていない、といった差異は、(Ora…)だけが他の二カ所と区別されることを表わしているとも言える。つまり他の二カ所は実際に発せられた妹の言葉(の回想)であり、ここだけは「心中語としての兄の言葉」と考えるべきだ、と主張することもできる。
つまり形態上はどちらであるとも言いうる。
だがなぜか、このような検討の跡も見られず、この言葉は妹のものであることが世の解釈においては前提されている。
世の授業者自身は、一読者としてこれを疑問には思わなかったのだろうか?
もしかしたら丸括弧が付されていることを根拠に結論して、そこに安住しているのかもしれない。だとすればそれは単なる浅慮である。
では内容的にはどう考えるべきか。
妹だとすると、残していく兄を案じて、妹が別れを告げた言葉だいうことになる。あえて、一見冷たくも見える別れの言葉に、これからも生きていかねばならない兄への気遣いが見てとれる。
一方兄だとすると、妹との別れを受け入れ、生き続けていこうとする決意の言葉だと受け取れる。(註)
やはりどちらにも解釈でき、どちらかに決定する根拠はない。
だがどちらの解釈であっても、それを納得しようと読むことが、この一行を挟む「けふおまへはわかれてしまふ」という兄の思いに自らを重ねることになるのである。
そして前後の行に目を向けるとき、36行目の「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」の「いつしよ」が「ひとり」になってしまうこと、44行目で再び繰り返される、「けなげないもうとよ」という呼びかけにこめられた悲痛な思いは、それがどちらの言葉であっても、いっそう読者にそれと感じられるはずだ。
さて、この問題をこのタイミングで提示するのは、もちろんミスリードを意図している。
「寄り道」前に考えていたのは「まつすぐにすすんでいく」とは? であった。ミスリードとは、これと「ひとりでいく」を結びつける誘導である。その時、どんな解釈が生まれるか?
「まつすぐにすすんでいく」が語り手の語る、詩の「地の文」の言葉なのだから、これと「ひとりでいく」を重ねるならば、それは兄の言葉だということになる。
つまり、妹の死を乗り越えて(「引きずらずに」「忘れて」…)強く生きていく、というような意味に、両者をとるのである。
だがこれには反論が挙がらなければならない。
「Ora…」は前述の通りそれでも解釈できるが、「まつすぐにすすんでいく」が「妹の死を乗り越えて強く生きていく」ことだと考えるのが不適切である理由は、読み返してみれば気づくはずだ。
何か?
「わたくしもまっすぐに」の「も」と不整合なのである。
「も」は並列を表す副助詞である。妹と「わたくし」が並列されているのである。これが「わたくしはまつすぐにすすんでいく」ならば「妹の死を乗り越えて」でもいい。だが「わたくしも」である。「すすんでいく」が「生きていく」ことであるならば、妹と自分を並列にすることはできない。
だが別の解釈の可能性はないか?
まず「Ora…」を妹の言葉だと捉え、「ひとりでいく(Shitori egumo)」を「ひとりで遠くへ行く=死ぬ」の意味に解釈する。
次に「まつすぐにすすんでいく」を「ひとりで生きていく」の意味でとるならば、それぞれが「ひとり」だという点で「も」の並列はとれるのではないか?
つまり「わたくしも」の並列が「いく」に係っていると考えるときには、死にゆく妹と生きていく兄を並列には解釈できないが、「ひとりで」に係っていると考えれば、兄と妹の並列が解釈できるのではないか?
これは「Ora…」を関連させて考えることで可能な論理ではあるが、22行目を読んでいる時点ではこのような解釈には無理がある。22行目までに「ひとり」であることが示されている詩句はないからだ。
結局、「(Ora Orade Shitori egumo)」を「まつすぐにすすんでいく」と関連させる解釈は「Ora…」をどちらに解釈するにせよ、いずれも行き詰まってしまった。
「ミスリード」の所以である。
だがこうした考察を誘発する「Ora」が誰を指しているのか? という問いは、世の「永訣の朝」の授業では不問に付されている。
確かに結論ははっきりしている。これはとし子の言葉である。
だがそうだと「わかる」のは、連作「松の針」の中で「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか/わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」と書いてあるからだ。つまりテクストの外部情報によってである。「永訣の朝」の中で妹の言葉であることが確定できるわけではない。
「松の針」を皆が読んでいるとは思えないのに、この言葉がとし子の言葉であることは、なぜか疑われない前提とされている。
「Ora」が誰を指しているのかを問いとして提示する授業案は存在しないのは、国語の授業が「正解」の提示にこそ意味があると考えられていることの裏返しであり、はじめから結論のわかっている問題には考察の意義がないと考えられているからかもしれない。
だが今我々が臨んでいる授業という場は、あらかじめ結論の出た「正解」を周知する場ではなく、テクストを読解することによる合意を共有する場であるはずだ。
なぜか世の国語教師は始めから妹の言葉だと決めてかかって、「誰の言葉か?」ではなく「なぜローマ字で書かれているのか?」を問う。
この問いについては、たとえば、「独りで逝きます」という妹の言葉を受け入れたくないという思いがこの言葉を異国の言葉のように書かせているのだ、などという解釈が定説だ。これは上記の「松の針」の一節が発想の元になっているのだろう。
だがこんな解釈は、否定はしないが魅力的でもない。なるほど、と思えない。
賢治自身は、原稿ではこれ以外の二カ所のとし子の言葉もすべてローマ字で書いてから一度全てひらがなに直し、最終的にこの言葉だけをローマ字に戻したのだという(残っている草稿の調査からこういうことがわかる)。こうした成立過程は、賢治の中で、このローマ字がどのような効果を読者にもたらすかについての計算が働いていることを感じさせる。それは悲痛の余りそう書かざるを得なかった詩人、などという「作者神話」とはどうみてもズレてしまう。
あるいは作者が関心を持っていたラテン語やエスペラント語らしい響きにしたかったからだ、などという解釈もある。だがそんなことはテクスト読解の範疇ではない。大学あたりで研究としてやるのなら、そういう考証をしてもいいが、それは高校生にとっての国語の学習ではない。
やはり、なぜ作者はこう書いたのか、ではなくまず、これは読者にどのような印象を与えるか、と問うべきなのだ。そしてその検討過程で、それが作者の意図によるものかどうかを推測すべきなのである。
そして、これがローマ字であることの効果について、授業者は特別な見解をもってはいない。わざと意味をとりにくくしているのだろうと思うのは、読者として意味が分かりにくいからだ。
というか、註がなければわかるはずもない。たしかにそれは、にわかには意味のとれない呟きのようなものとして感じられる。
だが、それならば「あめゆじゆ…」も「うまれて…」も同じだ。
ともかくも、すぐにはわからない、という、読解に負荷をかけること自体に意味があるのであって、わかったときに、それが妹の言葉であろうが兄の言葉であろうが「独りで行く」ことの痛みを読者に感じさせることになるという効果をねらってローマ字なのだろうとは思う。
少なくともローマ字といい、方言といい、回想の丸括弧といい、語りの階層を意図的に分けることで、重層的な、立体的な語りの構造を作っているのだろう、とひとまずは思う。
こうした詩の技法や効果自体についての考察は、「永訣の朝」という悲哀に満ちた詩を読むという行為の重みに対して、少々「浮いて」しまう感じも否めないが、といって否定する気にはなれない。
作者は間違いなく死者を悼み、慟哭にふるえている。
だが同時に、詩人としての賢治が詩の表現技法について自覚的であることもまた、間違いないことなのだ。
註
これを賢治の言葉だと捉えることに対する違和感として授業で提出された二点を記しておく。
まず、前後の「もうけふおまへはわかれてしまふ」「ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ」との落差だ。前後は悲痛な内容なのに、ローマ字部分は前向きに感じる、というのである。
だが、落差があってもいい。そのために語りの階層を変えているのだ、とも言える。また、落差はそのようなものではない、とも言える。「おまへはわかれてしまふ」は悲痛ではあるが、冷徹な事実の確認とも言え、「ひとりでいきます」は前向きと言うより、それこそが悲痛な決意かもしれない。
いずれにせよ、語りの階層を変えることで重層的な心の複雑さを表現しているのだと考えれば、これを賢治の言葉と捉えることはまだ可能である。
もう一点は、賢治ととし子が二人兄妹ではないとしたら、妹の死をもって「ひとり」というのは他の家族をないがしろにすることになってしまって、へんだ、という。
なるほど。よく考えられている。
実際に二人には弟がいる。だが、そういった事実よりも、この詩の中では「二」という数字が頻出し、その一方が欠ける喪失感を詠った詩として、「ひとり」という兄の感傷性を許容することはやはり可能ではある。
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