語り手と受け手が誰なのか、どのような関係なのかといった情報は、その言葉の解釈に強い影響を及ぼすメタレベルのコンテクスト(文脈)である。
小説や詩などの場合、語り手はさしあたり作者かもしれない。受け手もさしあたり読者だと言っていいが、想定される読者層はさまざまである。子供向けなのかビジネスマン向けなのか。
例えば一人称小説の「私」が作者であるとは限らない。うら若い少女の「私」を創造した作者は、中年の男性かもしれない。
さらに、例えば手紙という体裁をとった小説の場合、語り手は明らかに登場人物の誰かであり、受け手もまたその手紙を受け取るはずの登場人物の誰かである。
つまり「語り手」という概念は、現実から虚構までの様々なレベルで想定しうる。
ほとんど作者その人であろうと想定される「私」が語る詩でも、その作者は何歳頃の作者なのだろうか? 老齢の詩人が語る詩と青春期にある若者が語る詩とでは、読み方も変わる。
「永訣の朝」において、「わたくし」は賢治その人のイメージと重なることを避けられない。妹とし子の死は現実の出来事であった。
だが今問題にしているのは、詩を書きつつある作者ではなく、みぞれを採ろうとしている「わたくし」である。
この詩の中で、「わたくし」=語り手はどこにいるか?
たとえば次の例文において、語り手はどこにいるか?
a.彼は部屋の中に入ってきた。三つの文で示される事態は同一である。違うのは「語り手」のいる場所である。
b.彼は部屋の中に入っていった。
c.彼は部屋の中に入った。
この文言を語る「語り手」は、aは室内で、bは室外(廊下?)にいる。aではドアから入ってくる彼の顔が見える。bではドアの向こうに消える彼の背中が見える。
ここでは「語り手」とは、そこで語られている情景を捉えている視点、情景を写すカメラのようなイメージだ。
一方「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの抽象的な文では、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。
だが「c.彼は部屋の中に入った。」でも、事態は充分に具体的だが、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。
だから本当は、「語り手」という概念は、単にカメラに例えられるような空間的に定位できる視座のことではない。cの語り手は、この事態を知りうる存在であり、そのことを誰かに伝えようとしている存在であり、登場人物を「彼」と呼ぶ存在である。だがその存在感は稀薄である。
それに比べ、この詩において、みぞれを採りに走る「わたくし」は、読者がこの詩を読みつつある今、確実にこの詩の中にいると感じられる。それはどこか?
並行してもう一つの問いを投げかけておく。
次の二つの表現はどう違うか?
6行目 みぞれはびちよびちよふつてくる5・6行目「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と14・15行目「蒼鉛いろの暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は内容的にも文構造的にも共通しているから、この「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いは比較して考えることができる。この表現の変更は何を意味しているのか。
15行目 みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ただ、こういうときに、作者はなぜ変えたのか、と問うことには留保がいる。考察の対象が「作者の意図」に向かうと、考察のいとぐちを、作者についての情報、いわばテキストの外部に求めることになりかねない。それは国語の学習ではない。今なそうとしているのはあくまでテキスト解釈である。
読者の我々は、自分自身がどのような違いを感じるかについては考えることができる。自分の心に問いかければいいからだ。そしてその違いが作者の表現したかったものであるかどうかを検討する。テキスト解釈とはそうした行為である。
だから「なぜ作者は二回目を『沈む』にしたのか?」ではなくまず「『沈む』だと『ふる』とは違ってどのような印象になるか?」と問わなければならない。
その後で、それが作者の意図したものであったかどうかを考えるのである。
言うまでもなく、二つの問いは関係づけて考えなければならない。
実はそれはある種のミスリードでもあるのだが、間違った方向に誘導されてしまうことになろうとも、この二つの問題は関係づけて考えなくてはならない。テキストを文脈において解釈するとは、そういうことである。
- 語り手はどこにいるか?
- 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?
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