2020年7月17日金曜日

永訣の朝 2 -なぜ頼んだのか?

 「永訣の朝」とは、「妹との永遠の別れ」=「妹の死」に際して、「妹のためにみぞれを採ってくる」という詩である。
 兄がみぞれを採りにおもてに出るのは「あめゆじゆとてちてけんじや」という妹の依頼によってである。
 ここからがいよいよ考えるべき問題である。
なぜ妹は兄に、みぞれを採ってきてくれと頼んだのか?
 これも特に難しい問いではない。だが答えを聞く前に更に条件をつける。
次の条件に合う理由をそれぞれ挙げること。
①詩の中に書かれてあることから間接的に推測される理由。
②詩の中に直接書いてある理由。
 「なぜ頼んだのか?」という問い自体は殊更に難しい問いではない。詩の中で語り手が為す最も大きな行為を発動させた依頼が、どのような動機によるものなのかを理解しないまま読むことなどできない。
 だが「理由」を二つ挙げるとなると、さらにしばらくは考えざるを得ない。

 さて、二つの答えはそれぞれ次のようなものである。
① 高熱にあえぐ喉を潤すため。
② 兄を一生明るくするため。
①は、とりあえずは「食べるため」とも言える。「おまへがたべるあめゆきをとらうとして(10行目)」からの抽出である。その場合はさらに、どうして食べたいのかと問い返して①の形に収める。
 兄が妹の頼みでみぞれをと採ってくるという行為は、兄に、また病室にいる人々に、どのように了解されているか。そうした了解を読者も共有しなければならない。理由は知らず、みぞれを食べたいと言う妹のためにみぞれを採りに走るわけではない。なぜ妹がみぞれを採ってきてくれと頼んでいるかは、それを食べるためであると病室の皆に了解されているし、なぜみぞれを食べたがっているのかも、妹がはっきりと口にしたかどうかはわからないが、やはり皆に了解されているはずだ。兄がそれを訝しんでいる様子がないからである。そうした当然の了解を確認したい。
 推測の根拠はどこか? 例えば「おまへがたべるあめゆき」「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから」等…。
 ②は、そのまま詩の一節を指摘する。18行目の「わたくしをいつしやうあかるくするために」である。

 二つの答えが出揃ったら、最初に問われた時に思い浮かべたのはどちらの答えだったのかを聞いてみる。どのクラスでも必ず両方に手が挙がる。全体としてどちらが多いとも言い難い。
 教科書の出版社は、教師用の教材の解説書を用意している。授業のやり方なども書いてある。その中に「なぜ頼んだのか?」という発問例が掲げられていることも多い。
 そしてその解答例として挙げられているのは、出版社によって①だったり②だったりする。
 だが常にそのどちらかでしかない。当然のことだ。普通、どちらかの答えが頭に浮かんだら、それ以上には考えない。
 だが現実に二つの答えを挙げる者が同程度にいる。そして解説書にはその二つの解答例は用意されていない。どちらかだけが「正解」のように用意されている。

 さてここからが考察のしどころである。どちらが正しいか、ではない。どちらも正しい。ではなぜ二つの答えが挙がってしまうのか。問題を次のように表現しよう。
二つの理由はどのような関係になっているか?

 この問いは抽象的でわかりにくい。だがまずはこうした大きな問いを投げかけておいて、考察の向かう道筋の見当をつける。

 結論に至る途中で次のような問いに答えておく。
「みぞれを採ってくること」がなぜ「兄を一生明るくする」ことになるのか?

 この因果関係の機制は、必ずしも「わからない」わけではないはずだ。読者には、ある納得がある。
 だが同時に説明にはもうワンクッションの課題があるはずだ。正解を求めているわけではない。その納得の内容を語り、相手に同意を得ることができるかを要求しているのである。

 「死の瞬間を兄に見せたくないから、兄を外に行かせた」というような珍妙な答えが出てくるところも、授業の賑わいである。そんなタイミング良く死ぬ想定なの? と返してみんなで笑い合う。

 ではどう説明したらいいだろう?
 この「なぜ」はこんなふうに説明できる。妹のささやかな最後の頼みを叶えることが、妹の最期を看取る以外に何も出来ない兄の無力感を、いくらかなりと救うのである。その小さな救いが、それ以降の兄の一生を明るくする、と妹は考えているのである。

 さてでは、こうした妹の心理に基づく答②と答①がどのような関係になっているのか、再び問う。
①と②を対照的な語で表すとすると、どんな対比で表せるか?

 「肉体的/精神的」「生理的/心理的」「表面的/内面的」「利己的/利他的」「自分のため/相手のため」…。
 だがこれではまだ「関係」が明らかになったとはいえない。二つの理由は単に並列なのか? ①でもありかつ②でもある、といったような。
 ①/②が「自分のため/相手のため」であることは明らかだが、となるとつまり一石二鳥といったようなことか?

 並列でないとすれば、二つの理由に、ある階層を想定すべきか。
 「①高熱にあえぐ喉を潤すため/②兄を一生明るくするため」を、「建前/本音」「手段/目的」「口実/真意」、などといった言葉で捉えるのである。
 これには賛同者が多い。
 とすると、先に②があったのだろうか。①はそのために考え出されたのだろうか?

 この説に異論を唱える者は、少ないが確実にいる。
 つまり①こそが「事実」で、②は兄による「拡大解釈」、言ってみれば「妄想」に過ぎないのではないかという意見である。

 これは「正解」を導く問いではない。この詩の中ではどちらかを決定はできない。
 ただ作品における「事実」とは何か、という問題について考える糸口になる。
 ①はおおよそ「事実」と認めていいだろうが、②については、語り手の主観が入っている。だが一人称の小説や詩の作品中で語り手が語ったことは、うっかりすると自動的に作品内の「事実」と見なされてしまう傾向がある。だから②こそ「本音」なのだという解釈が生ずるのだ。だがそこには保留が必要なのである。

 そんな余録にも寄り道をした上で、最初の「関係」については、唯一の答えがあるわけではないので、折を見てこちらから語ってしまう。
 ここには、次のような心理が入れ子状に重なり合っている。
1.みぞれを食べたいという妹の欲求(答①)
2.妹の1の欲求を叶えたいという兄の希望
3.2の希望を実現させることで兄の無力感、罪悪感を軽くしたいという妹の配慮(答②)
4.妹の要請が3の配慮に拠るものなのだと考える兄の推理(妄想?)
つまりこの一節から読み取れることは、妹のために何かしてやりたいと兄が思っている、…と妹が考えている、…と兄が考えている、ということだ…。
 授業者の経験では、こうした説明をすると、生徒からは笑いがもれる。この笑いがどこからもたらされるのかはにわかにはわからないが、あるカタルシスの表れであるような感触はある。こうした、互いの心理についての推論の重層構造を、詩を読む我々が明晰に理解しているわけではない。しかしなおかつ詩を読む我々はそれを了解しているのである。
 自分が了解しているものを自覚的に理解すること、さらにそれを他人に説明することの難しさはいかばかりか。
 この問いはそうしたことを自覚し、そしてそれを乗り越える国語学習であり、さらに後に続く読解の伏線になっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿