2020年7月7日火曜日

山月記 2 「答え」の重み付け

なぜ虎になったのか?
という問いに対する三つの候補を文中から挙げた。
  1. わからない
  2. 性情が表に出た
  3. 妻子よりも詩業を気にかけているから
 まずはこの3点の関係を考え、重み付けをする。
 どう考えるべきか?

 とはいえ、2を重視すべきであることは誰しも何となく感じ取っている。問題は1と3をどう扱うかである。無視していいのか?

 1を問いの答えとするということは、つまりこの小説のテーマをどのようなものだと考えるということか?
 それを言い表すには便利な三文字熟語がある。何か?

 しばらく時間をおけば、誰かが「不条理」という言葉を思いつく(「理不尽」もわるくないが、文学作品のテーマとして使われる頻度は「不条理」の方が高い)。
 確かに「不条理」をテーマとする小説というのはありうる。
 だがそれを結論とすることには、むろん抵抗がある。だがそのように1よりも2を重視すべきであると判断することの妥当性はどこにあるか?
 いくつか挙がる。
 まず情報量として1や3に比べて2がとりわけ詳しく書かれていて情報量が多い。それだけ重視すべきであるように思われる。実にシンプルな話だ。大事なことは詳しく語られる。
 また、1は虎になった当初の混乱の中で発せられた感慨だが、その後熟慮の末にたどりついたのが2だ。
 それを、後出しジャンケンのようだ、と言ってしまうと語弊があるが、後から述べられたことの方をより重視すべきだという妥当性はある。つまり、後ろまで語って結局先に述べた1を結論として重視すべきであると考えるには、2や3で語られる理屈に対する疑義が小説中に置かれている必要があるのである。本人がいくら理屈をこねても、そんなものはあてにはならない、と。
 だがその痕跡は見つからない。とりあえずは。
 見つけられないでいるうちは、素直に2や3を重視すべきなのである。

 では3はどうか?
 1を候補から除外した時と同じ、情報量という点からはどうみても2が優勢である。
 この見込みは「山月記」の成立過程からも補強されると言っていい。
 「山月記」の元になっている中国の伝奇小説「人虎伝」は、途中に挿入される漢詩の部分までが、ほとんど翻訳かと思われるほど「山月記」そのままである。
 だが「人虎伝」ではその後に、李徴が虎になった実にわかりやすい「理由」が語られる。「人虎伝」の李徴は人にあるまじき非道な振る舞いをしたから虎になったのである。
 だが「山月記」ではそのエピソードが完全に削除されていて、その部分にそっくりそのまま2の告白が挿入されている。
 したがって中島敦がこれを「山月記」の肝として書き込んだのは間違いなく、とすれば「山月記」を整合的に解釈しようとすればここを重要視せざるを得ないのである。

 では3は、単なる自嘲癖の一つの表れとして看過すべきか?

 だが「関係」という言い方で考えさせたとき、2と3は、あながち別のことを言っているわけではない、という感触を語る者が現われる。そのような指摘に対し、頷く者も多い。
 最初の「問い」に対して2から形成される「答え」と3から形成される「答え」が同じであるなどということは、どう考えれば可能か?

 検討するにあたっては、当然のごとく「わかる」べきことはわかっておくべきである。
 3は、具体的には何のことを指しているか?
 こうした対応関係が把握されていないと3について適切に考えることはできない。まず確認しておく。
 3は、袁傪に、自らの作った詩を伝録してもらうよう依頼したことを指している。妻子の面倒をみるよう依頼したのは3の述懐の直前だから、「妻子」より先に「詩業を気にかけ」ている、と言っているのである。

 このことは2とどのような意味で「同じことを言っている」のか?

 だがまずは、敢えて2と3が別の方向性を持っているように解釈してみよう。というより最初は、むしろ2と3は違った「答え」の有り様を示している、と感じた者の方が多いはずだ。
 そこでまずは3の述懐から、2には適用できないような「答え」を導き出してみよう。3からは「なぜ虎になったのか?」という問いにどのような「答え」を用意できるのか?

 こうした思考を「抽象化」という。比較のためには、本文そのままの言葉でなく、一度抽象度を上げたレベルに言い換えないと、その関係・異同について考えることはできない。上で「不条理」を想起したのも同様の抽象化の思考である。

 3からは、ある種の利己心、身勝手さ、肉親に対する酷薄さを読み取ることが可能である。つまり人間的な情愛の欠如が李徴を虎にしたのだ。非人間的だから人間以外のものになったのだ。それはある種の神様から下される「罰」のようなものかもしれない。
 この言い方は、上記の「人虎伝」で李徴が虎になった理由にも通ずる。「人虎伝」の李徴の行為は「山月記」の李徴の3よりも遙かに極悪非道ではあるが、人間として許されない行為を「虎になる」ことの理由として考える点では同じ論理だ(「畜生道に堕ちる」などという仏教的な言い方にも通ずる)。
 だがそうだとすると、3は「虎になった」ことの理由として充分な重みをもっているとは到底考えられない。それは「人虎伝」と比較するからこそ明らかな感触だ。

 そしてこのような解釈は、2から読み取れる「答え」とも相容れない。2で語られる論理を「人間的な情愛の欠如」などと表現することはできない。2で語られているのは、実に「人間的」な葛藤だという感触がある。

 では3をどのように解釈したとき、2と整合的になるのか?
 間をつなぐ整合的な論理を見出すことも、それを整理して語ることも、簡単にできるわけではない。
 そのためにも、いったん2について考察を進めよう。

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