2020年7月10日金曜日

山月記 6 結論に向けての再検討

 虎を「孤独」を象徴するものとしてみる、あるいは「強さ」の象徴としてみる。これらは李徴の性格を特徴付けるものとしても、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の表れとしても、可能であるとともに適切な想定だ。
 だがそれは「なぜ虎なのか?」を納得させるものではあるが「なぜなったのか?」を充分に説明するものではない。

 だが「なぜなったのか?」について、充分な説明になっていないと感じている読者は、実は既に「なぜなったのか?」がわかっている読者だ。
 つまりこれは「わかっていること」をどれだけ的確に説明できるか、という課題である。隠れた論理を探り当て、そこに適切な言葉を与える、という作業である。

 授業の最終段階、結論に向けて二つの道筋を示す。

 まず、虎の象徴性についての再検討だ。
 虎のイメージは「孤独」と「強さ」という二面だけで言い表せているだろうか?

 「猛獣」と表現される虎は、確かに「強さ」の象徴ではある。冒頭の「名を虎榜に連ね」の「虎榜」とは「虎の名前を掲げた掲示板」の意味だ。つまり「科挙の合格者」=「優秀な者」を表わす比喩である。
 だから李徴が虎になることは、李徴にとって、かつての栄光に満ちた自分に戻ることを意味するのだ、という解釈もあり得る。つまり、実は李徴は虎になりたかったのだ(これは「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いに対して、かつて或る生徒が答えた解釈だ。大いに感銘を受けたのだった)。

 だがこれでは「なった」理由の2、例の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の働きがわからない。

 確かに虎は「強さ」の象徴ではある。虎という猛獣は、他人に恐怖を与え、他人から避けられたり他人を傷つけたりする存在だ。そして李徴はもともとそのような人物である。
 つまり彼は人間であった時から虎だったのだ、と言ってもいい。

 だがそう言ってしまうと「なった」ことの説明がつかない。
 では?

 虎の象徴性を考えているとき、辞書を引いて「虎」に「酔っ払い」という意味があることを探し当てた者がいる。本文中でも、虎になることを「酔う」と表現している。
 だが「酔っ払い」は抽象概念ではないから、「象徴」と見なすには不適当である。それは「比喩」だ。
 では「虎=酔っ払い」の比喩性とは何か?

 語源には諸説あるが、その一つは「酔っ払い」は猛獣のように手に負えないという意味だ、というものである。
 つまり「虎」は「手に負えないもの」の象徴なのではないか?

 虎になることを「狂う」と表現し、「狂悖の性はいよいよ抑えがたくなった」という表現を見るとき、虎の「強さ」は、周囲に向けられるものというばかりではなく、むしろ李徴自身にとってすら脅威であるような「強さ」、「暴走」や「暴発」につながる「凶暴」さなのではないかと思えてくる。
 虎は「制御できないもの」の象徴なのではないか?

 もう一つ。既に検討したはずの「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」についての再検討だ。
 もちろんこれらの「性情」が李徴を虎にしたのだ。だから「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」ことができれば良かったのだ。
 だがそんなことができるのなら、はなから悲劇は起こらない。
 それよりも「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という精妙な性格造型に、不可避的に暴走を引き起こすメカニズムが設定されているのではないか?

 このメカニズムは「悪循環」という言葉の印象によく似ている。
 これを説明するために再帰的」という言葉を使おう。悪循環とは「再帰的」な繰り返しによって、好ましからざる傾向が強まっていくことだ。
 「再帰的」とは何か?

 辞書を引けば「再帰的」とは「自己言及的な繰り返し」とあるはずだ。
 だが、「自己言及的な繰り返し」がなぜ「悪循環」を生じさせるのか?

 説明するための重要なポイントは、結果が原因に帰る、という点だ。「再帰性」の「帰」とはそうした意味を表わす。また結果も原因もそれ自身の一部であることを「自己」という言葉が表わしている。
 自己が自己に「言及」するとき、どちらが原因でどちらが結果なのかがわからなくなる。そうして「繰り返し」が起こる。
 「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は再帰性をもった循環に閉じ込められている。

 このことは「わかる」はずだ。そうだ、と思う。だがこれを説明するのはそれほど容易ではない。

 この循環を説き明かし、李徴が「虎になった」わけを明らかにする。それがつまり「山月記」がどのような物語であるかを捉えるということだ。
 いよいよ考察は最終段階である。
 あらためて、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は、なぜ李徴を「虎」に変えたのか?

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