「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が再帰的に循環するとは、どのようなことか?
「尊大」であることは「臆病」であることの原因である。プライドが高いから、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」を抱くのである。プライドが高ければ高いほど「危惧」は強まる。つまり「臆病」になる。
「臆病」になると他人とのつきあいが悪くなる。
人との交わりを断つことは「自尊心」にどのような影響を及ぼすか?
「自尊心」は言葉どおりに「自分で自分を尊ぶ心理」というだけではない。むしろ、他人に尊ばれたいという心理である。他人に評価されなければ自尊心は満たされない。
だが「羞恥心」はその回路を断ってしまう。人との交わりを断ってしまえば、他人からの評価は得られない。詩は発表されなければ評価の対象とならず、付き合いにくい者を人は褒めない。
「自尊心」は言葉どおりに「自分で自分を尊ぶ心理」というだけではない。むしろ、他人に尊ばれたいという心理である。他人に評価されなければ自尊心は満たされない。
だが「羞恥心」はその回路を断ってしまう。人との交わりを断ってしまえば、他人からの評価は得られない。詩は発表されなければ評価の対象とならず、付き合いにくい者を人は褒めない。
満たされない自尊心は燻ったまま蓄積する。自己評価と客観的な社会的評価は乖離していく。他人に認められないから自尊心が満足されないのに、自尊心故に他人に認められる機会を遠ざけずにはいられないのである。
結果は原因に帰っていく。互いの結果を自らの原因として双方向に循環しながら、やがて制御できないまでに増幅し、「猛獣」として李徴を虎にしてしまう。
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が李徴を虎にしたメカニズムとはそのようなものだ。
また、李徴の心を占める二つの心理は、悪循環を構成していると同時に、互いに互いを抑制する「二竦み=ジレンマ」の状態に陥っているともいえる。
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が李徴を虎にしたメカニズムとはそのようなものだ。
また、李徴の心を占める二つの心理は、悪循環を構成していると同時に、互いに互いを抑制する「二竦み=ジレンマ」の状態に陥っているともいえる。
「自尊心」が「臆病」からの脱出を妨げ、「臆病」が「自尊心」の満足を妨げている。決定不能の状態に止め置かれたまま、どちらへも進めない。心の平穏は永久におとずれない。
悪循環にせよジレンマにせよ、どうすればこの地獄から逃れられたのか?
「なぜなったのか?」の裏返しとしての「ならなかった」可能性はどのように記述できるか?
「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」は間違っていない。
いずれにせよ、目の前の仕事を「やりきる」ことがなかったから、彼は自縄自縛の中で自家中毒的な悪循環に陥るしかなかったのである。
俺はやればできるんだ、と言ってやらない者は永遠に不満を抱き続ける。これは我々のよく思い当たる感覚である。
「山月記」はこの、おなじみの感覚、身に覚えのある感じを、極端な設定と展開によって増幅して見せている。それが人々の後ろめたい共感を喚ぶ。
「山月記」を授業で読むとは、この「感じ」と、そのメカニズムを明確に言葉にする試みである。
「なぜなったのか?」の裏返しとしての「ならなかった」可能性はどのように記述できるか?
「もっと人と交わる」「もっと謙虚になる」は間違っていない。
だがそれは、「李徴は狷介だったから=傲岸だったから虎になったのだ」ということの裏返しでしかない。それは間違ってはいないが、「虎になる」という現象の仕組みを一面的にしか言い当ててない。「悪循環による暴走」というシステムを説明していない。
授業者が現在用意している表現は「やりきる」である。李徴は「やりきらなかった」から虎になるしかなかったのである。
例えば詩家として認められるためには、作品を発表するしかない。それは一時的には彼の自尊心を傷つけるかもしれないが、それでもそうしなければ彼の望んだものは手に入らない。
例えば詩家として認められるためには、作品を発表するしかない。それは一時的には彼の自尊心を傷つけるかもしれないが、それでもそうしなければ彼の望んだものは手に入らない。
むしろ、続けていれば望みは叶ったかもしれない。「おれよりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいる」ことに、李徴は今、気づいている。
また、望みが叶わなくとも、少なくとも諦めることができるようになる。発表しないうちは自分の詩が優れていることについての可能性は否定も肯定もされない。それは自尊心と羞恥心の自縄自縛から逃れられないということだ。だが、やってだめなら、傷つきはするかもしれないが、諦めと納得によって少なくとも循環の外に出られるのである。
あるいは官吏としての人生も、現在がいくら不満であろうとも「やりき」ってしまえば望みどおりの高位に上れる可能性は充分あったのだ。彼にはそれだけの能力があるのである。
あるいは地方の官吏として妻子を大切にして子供の成長を喜ぶ良い父親になることも、地域の人々に貢献する喜びを感じることも、あるいは余技としての詩作を続け、それが認められる穏やかで幸せな人生の可能性もあったかもしれない。
また、望みが叶わなくとも、少なくとも諦めることができるようになる。発表しないうちは自分の詩が優れていることについての可能性は否定も肯定もされない。それは自尊心と羞恥心の自縄自縛から逃れられないということだ。だが、やってだめなら、傷つきはするかもしれないが、諦めと納得によって少なくとも循環の外に出られるのである。
あるいは官吏としての人生も、現在がいくら不満であろうとも「やりき」ってしまえば望みどおりの高位に上れる可能性は充分あったのだ。彼にはそれだけの能力があるのである。
あるいは地方の官吏として妻子を大切にして子供の成長を喜ぶ良い父親になることも、地域の人々に貢献する喜びを感じることも、あるいは余技としての詩作を続け、それが認められる穏やかで幸せな人生の可能性もあったかもしれない。
いずれにせよ、目の前の仕事を「やりきる」ことがなかったから、彼は自縄自縛の中で自家中毒的な悪循環に陥るしかなかったのである。
虎にならないためには、「悪循環による暴走」を断ち切らなければならない。そのためにはまず行動に移し、それを「やりきる」必要があったのだ。
最初に挙げた「三つの答え」のうちの一つ、第3の「答え」についても再検討しよう。
最初に挙げた「三つの答え」のうちの一つ、第3の「答え」についても再検討しよう。
「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」という述懐がこうしたメカニズムと同じことを意味していると考えることは可能だろうか?
両者を結びつける言葉は「我執」「自意識」である。
「自意識」もまた「自尊心」と同じように、自分で自分を見ている意識という意味の言葉であるはずなのに、それは内省によって捉えられた「自己」ではなく、常に他人の目を通した「自己」である。「自意識過剰」という言葉は、言葉通りには自分のことを意識し過ぎるという意味のはずなのに、日常的にはほとんど「他人の目を気にし過ぎ」という意味で使われている。他人に認められることではじめて自分を認めることができるのである。
そうしてみると「己の乏しい詩業のほうを気にかけている」とはそのまま、上に述べた自閉した循環を指していると考えることができる。李徴は今でも「おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見」ているのだから。
他人からの評価によって満たされるべき自尊心が、行き所を失ったまま李徴の中で燻り続けている。それが制御できなくなって、遂には李徴を虎に変えてしまう。
「自意識」もまた「自尊心」と同じように、自分で自分を見ている意識という意味の言葉であるはずなのに、それは内省によって捉えられた「自己」ではなく、常に他人の目を通した「自己」である。「自意識過剰」という言葉は、言葉通りには自分のことを意識し過ぎるという意味のはずなのに、日常的にはほとんど「他人の目を気にし過ぎ」という意味で使われている。他人に認められることではじめて自分を認めることができるのである。
そうしてみると「己の乏しい詩業のほうを気にかけている」とはそのまま、上に述べた自閉した循環を指していると考えることができる。李徴は今でも「おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見」ているのだから。
他人からの評価によって満たされるべき自尊心が、行き所を失ったまま李徴の中で燻り続けている。それが制御できなくなって、遂には李徴を虎に変えてしまう。
俺はやればできるんだ、と言ってやらない者は永遠に不満を抱き続ける。これは我々のよく思い当たる感覚である。
「山月記」はこの、おなじみの感覚、身に覚えのある感じを、極端な設定と展開によって増幅して見せている。それが人々の後ろめたい共感を喚ぶ。
「山月記」を授業で読むとは、この「感じ」と、そのメカニズムを明確に言葉にする試みである。
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