授業者は、そもそもこうした出題を「漢字問題」だと思っていません。「語彙力問題」だと思っています。
「語彙力」とは、文脈体験の豊富さのことです。
「言葉の意味」とは、辞書にあるような説明(テキストに朱文字で書いてあるような「意味」)のことではなく、文中での使用例の集合体です。
つまりこれらの問題は、「暗記」された「漢字の読み書き」の知識ではなく、どれほど多くの言語体験があるかを問うているのです。
したがってこれは「漢字テスト」なのではなく、「国語のテスト」なのです。
また、今回の40点は、前年度の未実施だった試験範囲を含めているせいでもありますが、基本的にこうしたテキストからの出題は、毎回30点前後の配点をするつもりです。
定期テストは、純然たる「国語力」を測定しているわけではなく、言わば「学習の成果」に対する評価でもあります。「意欲」も評価対象なのです。
国語はもともと学習とテストの点数がストレートには結びつきにくい教科です。
その中でも、比較的「やればできる」部分の割合をなるべく大きくしたいと考えています。
今回の「山月記」は例外で、今後は授業中に読んだ文章を出題することはありません。テスト勉強は、予定されたテキストの範囲を勉強してください。
出題形式は今後も、今回のような「語彙力」を問う問題です。
第二回テスト p175~195
第三回テスト p196~213
以下蛇足と言わず読んで。
今回のテストは時間に余裕があったと思いますが、大問の1、2は、時間のある限り見直してほしいところでもあります。
昔、こういう問題は覚えているかいないかなんだから、時間をかけたり見直したりしたってしょうがないと言った人がいました(教員で)。
それは違うと思います。知っているかいないかはそうかもしれません。しかし覚えているかいないかは、それほどはっきりした違いではありません。
人間は、一度触れた情報を基本的には忘れない、という説があります。問題は思い出せるかどうかです。「思い出せない」ことを慣用的に「覚えていない」と言っているだけで、一旦考えて浮かんでこないことでも、じっくり考えているうちに突然何かに結びつく、ということがあります(「知らない」でさえ、実はその瞬間「思い出せない」だけかもしれません)。
そして「思い出す」とは、何かの刺激によって、それに関連する情報が活性化される状態です。活性化される頻度が高いほど容易に思い出すことができ、関連する情報が多いほど思い出す可能性が高まります。
ことさらに勉強せずにテストを受けていても、日常生活においてそれらの言葉に触れたことがまったくないわけではない、ということもありえます。
したがって、時間のある限り、様々な方向から記憶を探って、これでピッタリだ、と思える言葉を、漢字を探し当ててください。
また、こうした考え方からすると、勉強する際にも、例えば所謂「漢字練習」でも、有効な方法は、「考える」ことです。
「漢字練習」は「暗記」で、「暗記」とは考えずに覚えることだ、と思っていませんか?
勉強は「覚えよう」とするよりも「思い出そう」とする方が効果的です。これは心理学の実験で確かめられています。
そして刺激に関連していない情報は活性化されません。つまり、関連する情報が多いほど、思い出しやすくなるわけです。
「漢字練習」でも、どうしてその熟語がその漢字の組合わせなのかを、一瞬でも考えることで、関連ができます。
そのためには、それぞれの漢字の意味を考え、その組合わせとしての熟語の意味を考えてみてください。ああなるほど、と思えれば、その納得が(もしくはどうして? という疑問が)、思い出すための関連となります。
だいたい、「漢字テストではなく語彙力テストだ」とか言ってるわけですから、そもそも言葉の意味がわからないまま漢字だけ覚えるなど、話にならないのですが。
また、どこで間違いやすいか、何と何を区別すべきかといった判断も、「考える」ことによって印象づけられます。
たとえば
「疲弊」の「弊」と、「貨幣」の「幣」は違います。
コロナのニュースで「終息」と「収束」の違いを意識しませんでしたか?
ニュースで「コロナ禍」が「コロナ渦」「コロナ鍋」になったという笑い話がありますが、「災禍」の「禍」は「しめすへん」、「胸襟」の「襟」は「ころもへん」です。「神様関係のしめすへん」「衣服関係のころもへん」と覚えます。意味を考えればどちらかの判断ができます。
「比肩」は「肩を並べる」ことです。「比見」=「見比べる」ことではありません。
「難行」は「なんぎょう」です。「難航する」は「航行が難しい」ことです。
「符合」「符号」「付合」はそれぞれ違う言葉です。
「相好」「必定」「席巻」はそれぞれ「そうごう」「ひつじょう」「せっけん」です。「そうこう」「ひってい」「せっかん」じゃないんだなあ、と思う瞬間が大事なのです。
「耽溺=たんでき」は「沈弱(ちんじゃく?)」ではありません。「耽(ふけ)り溺れる」ことです。
「要旨」は「ようし」、「造詣」は「ぞうけい」です。
「耽美的(たんびてき)」「参詣(さんけい)」という言葉に見覚えはありませんか?
残りの大問についての解説は省略しますが、字数だけでなく「一文節で」「二文で」などの問題で指定されている解答の条件を見落としている回答が多かったのは残念です。
それと「瀟洒(しょうしゃ)=すっきりとしてあかぬけしたさま。」「瓜実(うりざね)=面長」を読めた者は、驚くほど少なかった。
「瀟洒なレストランで夕飯」などという表現は日常でしばしば目にします。また、昨年読んだ「夢十夜」の「第一夜」で死ぬ女は「輪郭の柔らかな瓜実顔」と描写されていたではありませんか!
7月の残りの授業では「永訣の朝」を読みます。国語の授業で詩を読むのはこれきりになるかもしれません。
9月には本格的な評論「ロゴスと言葉」を読みます。「ミロのヴィーナス」は評論と言うより随筆です。「ロゴスと言葉」ではそれよりはるかに抽象度の高い認識と論理性が要求されます。
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