ラベル 問いを立てる の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 問いを立てる の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年12月16日木曜日

舞姫 27 比較読解「檸檬」1 問いを立てる

 次は「檸檬」と「舞姫」。

 「檸檬」も教科書小説教材の定番だ。有名だし好きな人も多い作品だが、それは教科書に載っているからでもある。

 授業者も高校の授業で読んだ。だがもちろん何を言っているのか、ちっともわからなかった。当時の教師が何を言っていたのかは覚えていない。ただ、良いだろ、これ、というような「文学的」な享受を生徒に期待していたような気がする。高校生としては、主人公の抱える憂鬱もなんだか文学っぽいポーズのようなものとしてしか受け取っていなかったし、檸檬が爆弾だとかいう想像もまるで理解も共感もできなかった(だがこれに共感できるという人は世の中にはいっぱいいるらしい。A教諭とかG組Y君とか…)。

 ただ、授業でそんなものを読んだことは覚えていない、などと言うつもりはない。むしろ印象は強い。

 授業者にとって、高校生の頃に読んだ「檸檬」は、ただひたすらに「描写」の小説だった。とりわけ、檸檬を購ったかの果物屋の描写の美しさには感嘆した。

 そういった文学享受のありようも否定はしないが、今回授業で取り上げるにあたっては、ある読解の決着点を目指す。


 全ての文章の読解は、まずは「この文章は何を言っているか?」を当面の目標とする。

 もちろんそれではとりつくシマもないと感ずるから、それぞれの文章で、それを考える上で有効と思われる問いを細分化して立てる。「羅生門」ならば「下人はなぜ引剥をしたか?」だし、「山月記」なら「李徴はなぜ虎になったか?」だし、「こころ」なら「Kはなぜ自殺したか?」…。さて「檸檬」では?

 話し合いの中で提出された問いは、さまざまな抽象度のものが混ざっているだろうから、そこから精選して、次の問いを全体で共有しておく。


  1. 「えたいの知れない不吉な塊」とは何か?
  2. 檸檬は「私」にとって何の象徴か?
  3. 画集を積み上げて檸檬を置くことや、檸檬を爆弾だと想像することは何を意味するか? それが「私」にとってなぜ快感なのか?
  4. 最後の一文をどう解釈するか?


 これら諸点について、当時の教師がどのように語ったのかはまるで覚えていないが、少なくとも授業者にそれが理解されなかったことは確かだ。

 だが、今授業の読解は、これらの問いに答える、つまり「檸檬」とはどのような物語かを、いささかなりと語りうる方途を見出すことを図る。

 さしあたって、これらの問いの関係を概観しておく。

 1と2は対になっている。「不吉な塊」と「檸檬」が対立的な意味をもっているらしいことはわかる。

 物語に、何のことだが腑に落ちないことは山ほどあるが、それを例えば2のような抽象度の問いとして発想できるようにすることは、2年間の授業を通しての一つの目標ではあった。「不吉な塊」は最初から比喩だから、それが何を喩えているのかと考えることは自然だが、檸檬という具体物を、ここでは象徴として読む必要があるのだと明確に意識できるかどうかが、小説を読む上での一つのスキルなのだ。

 そして、檸檬の色、形、重さ、冷たさが念入りに描かれているから、それら何の意味があるのかと気になるが、それらは2を考える上でほとんど有効でないこともわかってほしい(いや、単に授業者が思いついていないだけで、これらをヒントとする読解も可能なのかもしれない)。

 ではどうするか?

 3から考えるのである。2は3からしか考えられないし、3に答えられるということは2がわかるということだ。つまり2と3は相補的な問いなのである(檸檬を手にしているとなぜ丸善に入る気になるのか、とか、なぜ画集を見ることに疲れてしまったのか、といった疑問もこれに付随する)。

 4はその上でもう一歩、自由度の高い小説の解釈の愉しみを味わいたい。


2021年4月28日水曜日

ぬくみ 1 主旨を捉える

 年度の最初はイレギュラーな形で「羅生門」の再読をしてみたが、ここからはレギュラーなサイクルで教科書や「ちくま評論選」を読む。

 一つ目は教科書の「第2部」の冒頭に収録されている鷲田清一の「ぬくみ」だ。

 鷲田清一の名に覚えがなければならない。

 可能な限り、前に読んだ文章は作者名とともに覚えておいた方が良い。次に読む時に、前に読んだことがある筆者の文章だと思えるだけで、なにほどか受け入れる態勢ができる。内容を覚えてあればなお良い。似たようなことを言っている可能性がある。内山節はどの文章でも大抵同じようなことを言っている。

 鷲田清一は入試でも再頻出の文筆家だから、ああ、あの人か、と思うだけでいくらか有利になることは間違いない。

 ところでどこで?


 昨年度第4回の一斉テストに出題した、「ある」と「いる」をキーワードにした文章2本のうちの一つ、「ある」には、相手を「所有」するという意味合いがあり、「いる」には相手に対する「問安」の姿勢があるという文章の筆者である。出題は早稲田大学。読みにくい文章だったはずだ。


 さて「ぬくみ」もまた、決して読みやすい文章ではない。だが一方で難しいことを言ってはいない、とも思う。なんだか焦点が定まらない文章だ。

 これは、この文章が明確な対比に基づいて論が進んでいないことと、明確な「問い」が立てられていないことによる。

 逆に言えば対比が明確だったり、「問い」が明確だったりすると、立論の枠組みが捉えやすいということでもある(それはすなわち簡単だということにはならないが)。

 だから、ぼんやりした印象の文章には、こちらから対比を探したり、問いを立てたりすることが有効なのである。


 ところが、さらに「ぬくみ」では対比を探すことも問いを立てることも容易ではない。対比も問いも、明確には語られない。

 となると、この文章が何を言っているかを捉え、そこから遡ってそれが何に対比されているのか、どんな問いに答えているのか、と考えるしかない。


 そこでもう一つのメソッドは「要約」だ。

 条件をつけよう。単文の一文、5文節以内。

 シンプルな形にするのは核心部分を捉えるためであり、それだけ頭が整理される。情報量が少ないと使い回すのに便利だ。


 こういう時はまず主語を決める、というのが迷ったときの一つの方法だ。

 大抵は主語が想起されているときには、述語も同時に想起されている。何らかの述語で受けられそうだという見込みがあるから主語として有効だろうと見当がつくからだ。

 主語と述語が決まったら、そこに最低限必要な補語(形容句や目的語、条件節など)を補う。


 皆、だいたい同じ文になるんだろうと予想して聞いてみると、意外なほどバリエーションに富んだ文になった。そしてそれぞれ、本文の主旨を的確に捉えているように感じる。

 厳密に言えばその要約文の適否についての評価に差をつけることもできるのかもしれないが、要約の要諦は、要約する、という頭の働きにあるのであって、要約文の適否は二の次だ。よほど見当外れでない限り、それぞれ良い、といった反応をしておいた。いや、実際にどれも的確だったのだ。


 授業者の想定していた文も紹介する。

現代の人々はつながりを求めている。

 ほぼこれと同じ文を考えている人は勿論いた。だからといって唯一の「正解」だというわけではない。

 たとえばここから対比問いを立てることもできないわけではない。

 「つながりを求めている」というのは、「つながりがない」ということを言っているのだから「つながりがある/ない」という対比になっているのだとはいえる。

 だがこの文章は殊更に「つながりがある」状態を対比に用いて、「つながりがない」状態を明らかにしようとはしていない。「ある/ない」の対比はあまりに自明な対比であって、あらためて論ずるようなことではないからだ。

 では問いは?

 上の要約が答えになるような問いなのだから「現代の人々はどうなのか?」といったところだろう。

 だがこれも立ててみればあまりに自明で、答えから無理矢理立てた問いに過ぎない。


 当然「現代人はなぜつながりを求めているのか?」と問いたくなる。だが、この文章から、この問いに対する明確な答えを抽出することには、少々のハードルがある。

 あるいは「つながりを求めているとどうなるのか?」といった問題意識も見てとれる。とりあえず「つながりを求めている」という現状を指摘した上で、それがどのような問題につながるかを考察しているのだ。だがこれもまた明確な答えを抽出するのは容易ではない。

 とはいえ、どちらも鷲田にはその問題意識はあるはずだ。それを読み取るためにはまた別の問題設定が授業には必要である。


2021年4月16日金曜日

羅生門 2 問いを立てる

  これまでのテキスト読解でも常に、そのテキストが「何を言っているか」を考えるための、それぞれのテキストにあわせた「問い」を考えてきた。「問いを立てる」ことは読解のための有力なメソッドだ。

 そうした問いは、読解の最初の段階で明らかなこともあれば、とりあえず読解を進めながら、徐々に浮上してくる場合もある。

 「こころ」ならば「Kはなぜ自殺したか」だし、「山月記」ならば「李徴はなぜ虎になったか」だ。「少年という名のメカ」は最初のうちはわからない。だが考えていくうちに「『少年』とは何を象徴しているか」というのが一つの有力な問いとして浮かび上がってくる(問題は「メカ」ではなく「少年」なのだった)。

 「問いを立てる」というメソッドは、評論の読解でも実践してきた。「ホンモノのおカネの作り方」ならば「おカネとはどういうものか?」だし、「ロゴスと言葉」なら「言葉とはどういうものか?」だ。「ミロのヴィーナス」なら「腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」だし、「南の貧困/北の貧困」は「貧困はどのようにして生ずるのか?」だ。

 ちなみに「『である』ことと『する』こと」はちょっと難しい。あらためて考えなければ「問い」の形で表現できない。授業者ならば「『である/する』という枠組みで社会の問題を考えると何が見えてくるか?」といった表現をするところだ。

 これらの「問い」は、その文章がそもそもそうした問題に答えるべく考察を展開しているということだが、その「問い」と、文中で語られる「答え」(「問題」と「結論・主張」)を把握することが、その文章を読むことの中心にあるということでもあるから、読者もまたそうした「問い」を共有することになる。


 さてでは、「羅生門」を読むための中心となる「問い」とは?


 実は去年「山月記」の授業の冒頭でもこのやりとりをした。

 「羅生門」理解の最大公約数的「問い」は? と聞いて、すぐに適切な答えが出てきたクラスと案外に手こずったクラスがあったが、一応どこのクラスでも確認したのだった。

 思い出せというのではない。あらためて考えてみる。

 「羅生門」を一読した今、最も大きな謎は何だと感じらているか? 「羅生門」がひとまず「わかった」と思うためには、何がわかればいいのか?


 最大の問いは明らかだ。それを提示すれば皆、それが最重要の問いであることにただちに同意するだろう。

 だがそれを考えるためにいささかの回り道をしよう。


 この小説は『今昔物語』の一編 「羅城門登上層見死人盗人語」(らじょうもんのうわこしにのぼりてしびとをみたるぬすびとのかたりけること)を元にしている(もう一つ別の説話のエピソードも途中に組み込まれてはいるが、話の大筋は「羅城門…」だ)。

 これを読み比べることによって、「羅生門」という小説を相対化することができる。

 話の骨格の共通点とともに、いくつかの相違点を指摘することができる。

 最大の相違点は何か?

 近代小説の特徴である詳細な情景描写や心理描写によって、単にテキストの量が増大していることは言うまでもない。門の上層に上った理由や、老婆から奪い取る物に違いもある。

 だが最も重要なことは、原話の「盗人」が「羅生門」では「下人」となっていることである。

 これは何を意味するか?


 「盗人」と「下人」の違いが、小説「羅生門」における最大の謎を生んでいる。

 すなわち「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」である。

 むしろこれが「羅生門」において最大の謎だと感じられるからこそ、「盗人」と「下人」の違いが重要であることに気づくのだ。そうでなければ「盗人」と「下人」というそれぞれの呼称は相違というより単なる翻訳としか思えないはずだ。

 だから「盗人」と「下人」が「相違」として感じられることと、「羅生門」において下人が引剥ぎをしたことの意味が重要なのだという認識は表裏一体である。

 盗人が盗みをするのは当然だ。そこに謎はない。

 一方「羅生門」の終わりで下人が老婆に対してはたらく引剥ぎは、読者の当惑を誘う。なぜそうするのかが、にわかにはわからない。

 そしてこの引剥ぎの意味の重要性から遡って、芥川が「盗人」を「下人」に変えたことの意味に思いを致す。


 なぜこの行為の意味が、「羅生門」という小説にとって最重要の謎だと感じられるのか?


 「羅生門」では、冒頭で行為に対する迷いが提示され、その行為が実行されて終わる。つまり迷いとその解決をつなぐ論理が物語の背骨を構成している。物語全体がこの問題と回答の対応の中で把握されるように感じられるのである。

 そしてその行為は、読者にとって自然に受け入れることのできない、看過できない違和感とともに提示されている。行為の実行に、ある飛躍が感じられるのである。ここには何かがあるはずだという感触を感じさせる。この行為は何を意味しているのか。そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない課題が読者に提示されている。


 問題は「行為の必然性」である。

 「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いを、引剥ぎという「行為の必然性」をどのように論理づけるか? と置き換えよう。

 こうした抽象化は思考にとって重要な手続きである。問題の焦点を明らかにし、議論の利便性を増す。

 だが、「行為の必然性」が明らかになることが即ち「この小説は何を言っているか」が明らかであるということにはならないかもしれない。この「問い」が、小説全体を捉えるには不適切なのかもしれないのだ。

 「行為の必然性」は、「これは何を言っている小説か?」という問いに対する答えとどのように結びつくか?

 「これは何を言っている小説か」という認識のことを我々は通常「小説の主題」と言い習わしている。

 つまり「行為の必然性」が、どのようにこの小説の主題を構成することになるのかが問われなければならない。

 これは、「行為の必然性」から主題が導かれるということでもあるが、「行為の必然性」を説明する論理の妥当性が、どのような主題を構成するかという納得によって確信される、ということでもある。両者は相補的なのだ。下人がなぜ引剥をしたのかを納得するということは、「羅生門」をどういう話と受け取るかという話でもある。


 『今昔物語』の原話では「行為の必然性」が問題になってはいない。盗人にとっての盗みは、わざわざ語られることもないほど当然でありすぎて、だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。

 だからこの原話では、何を伝えたい話なのか――それが「主題」だ――がわかりにくい。だがそれは「羅生門」という近代小説を通して「今昔物語」を見てしまうからであって、この挿話の主題は、盗人の「行為」にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という「状況」そのものを読者に伝えることなのである。だから「羅城門登上層見死人盗人語」とは簡にして要を得た「あらすじ」であり、そのまま「主題」の在処を示している。

 一方、芥川によって書かれた小説「羅生門」には、明らかに「行為の必然性」を「主題」の把握にいたる論理的な一貫性の中で捉えなければならないと感ずる。芥川はそのような意図をもって原話を小説として書き直している。


 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?

 そして、「羅生門」の主題とは何か?


2021年3月5日金曜日

最後の読み比べ 6 発表

 今年度の授業の終わりにあたって、こうした読み比べによる考察を、班毎に発表してもらうことにした。

 高校入試の休みの間に読んで考えてこいとは言ったものの、とりあえず内山の文章を読むだけで授業に臨んだ者も多かったに違いない(もちろん読んですらこなかった者もいたろうが)。

 残り2時限でこの課題だから、1時限で発表準備、2時限目に発表、という想定だったが、結論としては無理があった。最初のクラスでこれをやったところ、発表の準備として1時限ではあまりに時間が足りず、生煮えのまま発表に入って情報量に乏しかったり詰まってしまったり。

 後に続くクラスでは、最初の1時限に誘導する部分を多く取り(今回のシリーズの3回目までの記事にあたる)、2時限目にも準備に時間をとってから2班ほどの発表が精一杯だった。

 最大で4時間とれたクラスでは、3時限目の半分まで準備にとり、3時限の終わりにようやく最初の班の発表となったが、これでも長すぎることはないという感じだった。そこまでの準備に、目一杯活発な議論が続いたのだった。


 今年度は、最初の休校があって、時間が少ないという焦りと、このブログ記事の執筆が授業者にとっての授業準備になっているせいで、総じてすべての授業が高密度だったが、その中で、まとまった文章を書かせることと、まとまった発表をさせることができなかったのが心残りだった。

 もちろん常に授業は議論発表の連続だった。毎時間、疲れるほどに頭を使ったはずだ。

 だが、準備に1時限以上の時間を費やすようなまとまった発表は実施する機会を逸してきた。


 学習とは「わかる」ことが目的ではない、と最初から言ってきた。わかったことが、何らかの形で活かされるのでなければ、「わかる」こと自体は自閉的な営みに過ぎない。「わか」った後に何ができるかが問われるのだ。「学力」が「生きる力」と措定されているのはそういうことだ。

 だから入力から考察を経て変形された情報は出力されなければならない。

 それもまた明らかに国語の学力だ。


 発表は「4つの文章を読んで、それなりに理解はしているが、繋げて考えることはしていない東葛生」を対象とした国語の授業のように、と設定した。

 つまり黒板に図示しながら語っていく。いわゆるプレゼンテーションである。


 どのような図を画くか。

 必ずしも完結したものでなくとも構わない。話の補助として、聴覚情報を視覚情報で補うのが目的だ。

 認識の構造は本当は4次元的なものだ。論理は3次元どころか、時間軸さえ飛び越えて連結する。

 それを2次元に投影したものが「図」だ。

 取り上げるべき情報を選んで、それを平面上に配置し、その関係を線などで示す。どこかを繋げ、どこかを区切り…。

 それをさらに1次元にしたものが「話」や「文章」だ。本当は4次元的な認識を時間軸に沿って並べていく。ジャングルジムを一筆書きするようなものである。あるいは複雑な建物の中を道案内するようなものだ。話し手・書き手は、聴き手・読み手に建物の構造を把握させる案内人だ。

 だからその出発点やら経路やら終点やらは、無限の可能性がある。同じところを何度も通ってしまったり、遂に通れないまま終わってしまう部分が残ったり、つながっていないところを跳躍したりして、聴き手・読み手を迷わせるような「話」「文章」もあるだろう。

 案内のための地図が、黒板に画く図である。

 その図を示しながら、皆をどんな認識に案内してくれるだろうか。


 さて、授業者なりに案内したのが前回までの4,5回の記事だ。

 これは「対比」「問いを立てる」「抽象と具体の往復」というメソッドを意識した一つの方法である。唯一の「正解」などではない。

 だから全ての班に発表してもらうことはできなかったのが残念だ。皆の議論の様子はとても活発で、レベルの高いやりとりをしていたように思う。

 籤にあたった班の発表もそれぞれ的確で、1年の集大成にふさわしい思考の成果を示していた。

 そして全ての班の発表は聞けなかったとはいえ、準備の段階でそれぞれの班の中で発表の流れを追いながら語りおろすことが、それぞれの班にとっての「まとまった発表」になっていたと思う。

 とはいえ、時間が足りなかったことはやはり心残りなので、せめて、みんなが用意してあった「図」だけでも紹介したい。

 これらはどれも板書を書き写したものなどではないことに価値がある。こうした図は、それを構想し、構築することだけに価値があるのであり、誰かが作ったものを見たり書き写したりすることにはほとんど価値がないのだ。授業者の板書も、皆の思考の共有基盤(プラットホーム)として機能することを意図しており、決して「まとめ」ではない。

 これらはそれぞれの作者の(班の)思考の過程を表わしている。

 



 A組N君の構想図。
 対比軸に沿って上下に振り分けた項目を横に並べていくという構図は授業者の想定に近いものだった。ここまでのブログ記事の文章にも近い。
 それに対し以下の図は、四つの文章の読み比べという設定を平面図に表わすのに、平面を四分割して各象限にそれぞれの文章の項目を割り振るというレイアウト。
 いずれも真ん中に共通する要素を置いて全体を一括したうえで、それぞれの文章で、それがどう語られているかを一望できるように配置している。

B組のOさんN君Iさん。的確な項目をシンプルに書き出してある。

B組のI君。カラフルなレイアウト図が目を引く。さらに、二つの文章間の共通領域をそれぞれ書けるようにレイアウトしていることで詳細な読解が可能になっている。

 その他、情報量の豊富さや項目の整理、見やすさの点で目を引いた図を挙げる。 

G組Oさん

A組Tさん


A組I君


D組Eさん


D組S君


G組O君


G組Mさん

 これらはそれぞれの班が発表用に準備したメモなので、「まとめ」としては上の図では不本意なところがあるかもしれないし、上記に引用した以外の班も、それぞれに工夫をした図を作成していたとは思う。本当はこれらの図を元にして、発表の際に肉付けしながら語りおろすところがそれぞれの班の腕の見せ所だったはずだ。
 実際にC組YさんR君のように、発表にあわせて書き加えていくことで情報量を充実させていく、図の生成過程を見せるのも有益だった。
 もう一つ、A組K君。
 構想の段階から、黒板に画く図、発表の骨子まで、タブレットを使って複数枚のメモを作成して発表の準備をしている。見事です。
メモ①

メモ②

板書①

板書②

板書③

発表要旨①

発表要旨②


 来年度もまたこうした「まとまった発表」の機会も、そして、「まとまった文章を書く」機会も作りたいと思う。
 だが特別そういう機会でなくとも、毎時間毎回の課題において、常に発表できる(書ける)だけのまとまりを、ひとりひとりが目指して考察を進めてほしい。

 学習の目的は「わかる」ことではない。「使う」「伝える」ことだ。

最後の読み比べ 5 近代化という問題

 次に、それぞれの文章で何が「問題」なのかをみていく。その際、前項で確認した対比が、どのようにしてその「問題」を生んでいるかを確認する。


  • 「である」ことと「する」こと

 「する」化がもたらす「過近代」的問題とは、休日が却って忙しい日になっているとかいう問題も挙がってはいるが、大きな問題は文化=学問・芸術に好ましくない影響があることだ。この「影響」は、あまり具体例としては挙がっていない。研究者の評価が論文ので(ではなく)決まってしまうことくらいだ。
 だが文化が「する」論理=「大衆的な効果と卑近な『実用』の基準」で評価されることは明らかに文化の衰退を招きそうな予感はある。「である」価値の軽視は文化にとって重要な「蓄積」にも悪影響があるだろう。

  • 不均等な時間
 「均等な時間」=「する」時間の浸透によって、「労働時間の作り出す経済価値がすべて」になると、そこに生きる人々のそれまでの共同体や自然との「すべての関係が崩れ去ってしまう」。そうなると人々は「自分たちの存在の形がな」くなることになる。
 つまり「時間に管理される」ことは、自然と、そこに生きる人々にとって「暴力」なのである。
 「時間に管理される」と、「経済価値を生まなくなった時間には、別の意味が付与されなければならなくなるだろう。その意味とは、充実した生活かもしれないし、休息や余暇かもしれない。」というくだりは、上の「『である』ことと『する』こと」の「休日」のくだりに完全に対応している。
 そして「時間に管理される」とは、授業でも確認した「疎外」の概念「自分たちの作りだしたものに逆に支配され、本来の人間らしさを失う」状態を言っているのだということも多くの者が気づいたはずだ。

  • この村が日本で一番
 上の「疎外」の問題が、この文章でも言及されている。
グローバル化という形で拡大していく市場経済は、人間自体に対して深刻な問題を投げかけているのである。だからこのような時代には、「自己実現」とか「自分探し」、「個の確立」といった疎外された意識が次々に出てくる。だれもが、自分の確実な存在を見つけ出せないのである。
 ローカル=「我らが世界」では、「自分を見つけ出すことができる」。それがグローバル化によって、すべてを経済価値で測る「する」論理が支配するようになると、「自分」が「自分」であるという「かけがえのない個体性」は見失われてしまう。
 そうした「疎外」状況だからこそ、逆に「自分探し」に駆り立てられる。

  • 南の貧困/北の貧困
 問題は単なる貧困ではない。貧困を生み出す前提となる「貨幣への疎外」が問題だと見田はいっている。
 「貨幣への疎外」が「する」化であることは前項で確認済み。
 「問題」はその時に「人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される」ことだ。
 これはそのまま上の内山の「自分たちの存在の形がなくなる」ことに等しい。
 「南の貧困/北の貧困」ではこれを「見えない幸福の次元」「測定できない幸福の次元」を失う、と表現している。「測定できない」つまり「する」原理=機能・効率で量ることができない「幸福」こそ、「である」価値をもったものである。

 ではこれらに共通する「問題」を抽象化して言ってみよう。
近代化に伴う「である」価値の喪失
 これならば4つの文章に適用できる。
 「近代化」はそれぞれ次のように変奏している。
  • 「である」→ 「する」化
  • 「不均等」→ 時間の合理化
  • 「この村」→ グローバル化
  • 「南の貧困」→ 市場経済化=「貨幣への疎外」

 そこで失われる「である」価値とは何か?
  • 「である」→ 文化
  • 「不均等」→ 自然・共同体
  • 「この村」→ 自然・共同体
  • 「南の貧困」→ 自然・共同体

 そして内山の文章では「自然・共同体」との関係の喪失は「自分の存在」を危うくするという視点が重視されている。喪失するのは「自己」である。「疎外」とはそのような状態を指している。
 「『である』ことと『する』こと」でもこの「自己」の問題に言及している。
「教養においては、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。」教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚をもとうとするところに軸をおいていることを強調しています。
 「する」化によって失われるのは「教養」であり、「教養」が失われることは「かけがえのない個体性」をもった「自分」が失われることだ。そしてここでも「自分」という存在は社会や自然との関係において「自覚」されている。
 文化・教養、自然・共同体、そして自己。
 ここに「市民社会化する家族」から「家族」を加えてもいい。
 これらはどれも「する」論理で切り棄ててはならない「それ自体」=「である」価値を持ったものである。
 近代化はそうした「である」価値をもった存在を危うくするのである。

2021年3月2日火曜日

最後の読み比べ 3 「問題」

 それぞれの文章では何が「問題」とされているか?

 「問題」という言葉は「question・theme」の意味と「problem・matter」の意味を含んでいる。この二つはどのような関係か?

 そもそも何事かを「problem・matter」だと感じ、その事について考えようとするから評論など書かれるのだ。だから基本的には、それらの「problem・matter」がどのようにして発生するのかとか、どのように解決を図るかといったあたりが「question・theme」となっているのだと考えられる。

 以下、二つの「問題」を混在させて語っていく。どちらかは文脈に応じて判断されたい。


  • 「である」ことと「する」こと

 この文章における問題を端的に表わす一語は?

 「倒錯」の一語が想起されてほしい。

 「倒錯」は二つに分けられる。どちらかが問題か?

 「非近代」と「過近代」だ。感触として「非近代」ではなく「過近代」の方が、ここで共通する問題圏にあるのだと、とりあえずは捉えられるだろうか。

 「過近代」というのはどのような状態をいうのだったか?

 それが他の文章とどのように重なるのか?


  • 不均等な時間

 何が問題かはわかりにくい。

 だが読み進めていくとかろうじて「すべての関係が崩れ去ってしまう」「時間に管理される」「自分たちの存在の形がない」「暴力」など、否定的イメージの表現がみつかる。これらの問題がどのようにして生じたのか? というのが問題だ。


  • この村が日本で一番

 こちらも「関係を見失う」などといった、「不均等な時間」と共通する問題が語られている。そこに「自然が荒れていく」といった問題も付加されている。

 さて問題は、こうした問題が今度は「ローカル/グローバル」という対比から、どのように導き出されるか、だ。


  • 南の貧困/北の貧困

 ここでの問題は言うまでもなく「貧困」だ。

 だが前述の通り、単に「貧困」といった場合、「貨幣からの疎外」を条件として結果的に成立する事態なので、あくまでここでは「貨幣への疎外」を問題として捉えなければならない。

 そして「南の貧困」と「北の貧困」は同じコンセプトで語られているが、今回の読み比べにおいては「南の貧困」の方が使える。授業では難解な表現が集中した「北の貧困」について考察するのに時間をかけたから印象に残っているようで、皆の話し合いを聞いているとそちらばかりが言及されているのだが、「北の貧困」とは「情報消費社会」における問題であり、内山が問題にしているのは「市場経済社会」だから、今回の近代化の問題に対応させるには「南の貧困」の方が適切だ。

 「『である』ことと『する』こと」も70年以上前の講演なので、やはりすぐれて現代的問題である「北の貧困」の、あの難解な議論に惑わされない方が良い。

 南の貧困という問題はどのようにして生ずるのか?


 これら「問題(problem・matter)」を全体としてどのように一括して表現したらよいか?

 そして、それらの「問題」が起こる機制を、それぞれの文章の対比から説明してみよう。これが「問題(question・theme)」である。


最後の読み比べ 1 方法論

 「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」をひとまず読み終えた。

 今年度の最後は、重量感のあるこの二つの評論をつなぐ論理を見つけ出す。


 授業者自身がこれをやろうと思いついたきっかけは、昨年の終わり頃、偶然の機会があって内山節の「不均等な時間」を読んだことによる。特別にこれらを結びつける発想をすることがないほどに時期が離れていれば、それぞれはバラバラな問題を論ずる文章としてしか読まれなかったかもしれない。実際、2年前に2学年を受け持って「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を授業で読んだときは、それぞれに「『市民』のイメージ」や「『贅沢』のすすめ」との読み比べはしたが、「である」と「貧困」を結びつける発想はなかった。

 だが今回、この後で授業で読む「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」を想起しやすい状態で「不均等な時間」を読んでみると、それぞれに共通する論旨を読み取れることに気づいた。ならば内山節を介して、すべてを大きな問題圏の裡にあるものとして捉え直せるのではないか?


 これまでの授業での読み比べ同様、まずは全体の感触として、それぞれの論旨がどのような位置関係にあるのかを掴む。そのうえで、どうしてそのような読解が成り立つのかを、それぞれの文章の一節と一節を対応させつつ語っていく。

 また、「『である』ことと『する』こと」と「『市民』のイメージ」「市民社会化する家族」を読み比べたときには、後2者を「である/する」という対比を使って読み解いたのだった。この方法は今回も使える。「不均等な時間」と「この村が日本で一番」を、「である/する」図式で読むのだ。

 そして内山節を介して「南の貧困/北の貧困」もあらためて「である/する」図式に落とし込む。


 だがこのような方法を漫然と実行するだけでは時間がかかりすぎる。本当は方法自体も模索させ、試行錯誤させたいのだが、その時間は残念ながら残されていない。

 ここまで繰り返し実行してきた考え方、読み方のメソッドは今回もまた有効だ。無意識に使えることこそ本当に技術が身についた状態だとはいえ、とりあえずは意識的に使うことを心がける。「問いを立てる」「対比」「抽象と具体の往復」など、1年間で実践してきたメソッドを思い起こそう。これらのテクニックを駆使して考えを進めていく。

 これらの考え方は、自分が考える上でも、班の議論のプラットホームとしても有効だ。あてもなく漫然とテキストをなぞってみたり、噛み合わない感想をポツリポツリと言い合うだけでなく、方法論を意識して思考や議論の方向性を明確にする。

  •  それぞれの文章の対比を確認しよう。
  •  それぞれの文章が「問題」としてとりあげているのは何か?
  •  上の「問題」は具体的にはどのような事態として現われているか?

 こうした、同じ型に沿ってそれぞれの論から要素を抽出して並べてみる。


2021年2月18日木曜日

南の貧困/北の貧困 7 必要/需要

 情報消費社会における「必要」の地平は、差異化によって「常に更新されてゆく」。北の国で生きていくためには南の国の10倍の金が要る。

 「本来的な必要/新しい必要」という対比はこのことをいうための対比だった。

 だが「『贅沢』のすすめ」の「浪費/消費」の対比に対応する対比を「南の貧困/北の貧困」から探した折に、「本来的な必要/新しい必要」ではなく、その隣の行の「必要/需要」を挙げた者も多かった。

 ではこの対比は何を意味しているのか?


 付せられた形容が手がかりにはなる。

 「人間に(とっての)必要/マーケットとして存在する需要」だ。

 だがその言葉の意味を説明していくだけでは、その意味が「わかった」とは思えないはずだ。「人間にとっての必要」と「マーケットとしての需要」という表現は、それなりに「わかる」。わからないほど難解な表現ではない。だが両者を対比的に並べることによって何を言いたいのかを捉えないと、この部分が「わかった」とは思えないのだ。

 対比を用いるのは、何かを明確にしたいからだ。だから「必要/需要」という対比が何を明らかにするための対比なのかを考える。

 だがにわかにはその意図は読めない。


 これは「本来的な必要/新しい必要」の変奏だろうか?

 あるいは「主観・相対/客観・絶対」の?


 「主観・相対/客観・絶対」という対比は「新しい必要」の「地平」の高さが「客観・絶対」的であることをいうための対比だ。「本来的な必要」が「主観・相対」的なわけでもないから、上の二つの対比軸は全く別の位相にある。

 「必要/需要」という対比はまたさらに別の対比軸に沿って配置されている。

本来的な必要であれ新しい必要であれ、既に見たように現代の情報消費社会は、人間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーケット(市場)」として存在する「需要」にしか相関することがない。

 上の文では「本来的な必要/新しい必要」という対比は「であれ」で接続する「並列」だ。だがそこまでの論は、やはりこれを「対立」と見なすことで進んできたのだ。

 そのうえで、この一節は、語順を変えて「既に見たように現代の情報消費社会は、本来的な必要であれ新しい必要であれ、人間にとっての『必要』に対応するシステムではない。マーケットとして存在する『需要』にしか相関することがない。」と並べ替えてしまえば明らかなように、「本来的な必要/新しい必要」が「人間にとっての必要」とまとめられているのである。その上で、それと「需要」が対比されているのである。


 そしてさらに「必要/需要」は「ではない」で挟まれているのだから、明らかな「対立」的対比項目だ。

 では「必要/需要」という対比によって何を明らかにしたいか?


2021年2月17日水曜日

南の貧困/北の貧困 6 常に更新されてゆく水準

 「幾重にも間接化された充足」について考察するために、國分功一郎「『贅沢』のすすめ」を援用して、何が間に挟まっているのかを考察した。

 我々と「物」との間を、「メディア」を通して「他者」の欲望が乱反射した「観念や意味」=「情報」が隔てている。

 「幾重にも間接化された」のイメージとしてこれが適切だと考えられるのは、見田がこの前後の文脈の中で「情報消費社会」という言葉を再三使っているからだ。「貨幣」が間に入るというのは南の国でもそうだし、「流通経路」の重層化による「間接化」が問題だとしたら、おそらく「資本主義社会」「市場経済社会」という言葉を使っているはずだ。「必要から離陸した欲望を相関項とする」という表現も、「物」が我々の手に届くまでの物理的な「間接化」のことよりも、「メディア」による「情報」の付加を意味していると考えられる。


 さて、これで何が明らかになったのか?

 「幾重にも間接化されている」からどうだというのか?

 このブログではそれを疑問として明示したが、自分で文章を読んでそれを意識するのはなかなかに難しい。

 どんな問いだったか?


 「北の貧困」の考察を始めるところで掲げた疑問は「なぜ北の国の必要の地平=水準は高いのか?(10倍あっても足りないのか?)」だ。答えは出ただろうか?

 つまり「幾重にも間接化され」ているから「高い」のだ。間に入るものが少ない方が安いであろうことは道理だ。

 「貨幣」が間に入ることについては南の国々でももはや「貨幣への疎外」によって同様の状態になっている。それより「10倍」であることの理由を今は問うているのだ。

 もちろん「資本主義社会・市場経済社会」も地平=水準を高く「つり上げ」るには違いない。「流通経路」が「重層化」すれば、それだけ中間搾取がはたらいて、コスト分が価格に反映する。そもそも「資本主義」は利益を生み出すために地平=水準を「常に新しく更新」する。

 では「情報消費社会」において、なぜ地平=水準は「常に新しく更新されてゆく」のか?


 「消費」は「観念や意味」を消費しているのだ、というのが國分功一郎の定義だ。

 ここに丸山圭三郎「ロゴスと言葉」を応用しよう(「懐かしい」とか「忘れた」言うな。今年度のことだ)。

 「意味」とは何か?

 「ロゴスと言葉」において、言葉の意味とは、まずは「カテゴリー」のことだと説明されていた。だがそれではまだここに応用できない。

 「カテゴリー」は何によって生ずるか?

 「分節化」による。近づいた。では「分節化」とは何か?

 「ロゴスと言葉」の結論は、言葉の意味とはカテゴリーであり、カテゴリーとはそれとそれ以外のものを分節すること、つまり差異化によって生ずる、というものである(「Water/non-water」という差異化)。

 つまり「差違」が「意味」を生むのだ。

 「情報」とは「差違」である。デジタル情報とはonとoff、1と0の違いだ。

 このことは國分功一郎が述べている何の例と対応しているか?


 「モデルチェンジ」と「個性」だ。前のモデルとは違うこと、他人と違うこと、いずれも、差違が享受すべき意味=価値を生んでいるのである。

 とすれば、「必要の地平」は「常に更新されてゆく」しかない。更新という差異化こそが「意味」を作り出すからだ。差異化されないものは単なる「物」でしかない。それは「本来的な必要」の対象だ。


 こうして、「幾重にも間接化された」必要の地平=水準は「常に更新されてゆく」。だから北の国で生きていくためには南の国の10倍の金が要る。

 「本来的な必要/新しい必要」という対比はこのことをいうための対比だ。


2021年2月15日月曜日

南の貧困/北の貧困 2 貨幣への疎外

 「貨幣への疎外」?

 おそらくこの表現は、にわかにはピンとこないはずだ。

 もちろんこれは「貨幣からの疎外」とセットで理解されなければならない。

 そしてこれらの表現は、単に文中から言い換えを探すことで、ひとまずは考察が先に進む。

 どこか?

貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。この二重の疎外が、貧困の概念である。


 「二重の疎外」→「貨幣からの疎外・貨幣への疎外」と遡って辿れば「金銭を持たないこと」が「貨幣からの疎外」で、「金銭を必要とする生活の形式の中で」が「貨幣への疎外」だとわかる(実際には後の部分との整合性で「わかる」のだが)。


 とりあえずどういう意味かはわかる。それなのに「貨幣への疎外」という言葉に違和感を覚えるのはなぜか?

 「疎外」という言葉はサ変動詞だ。つまり「疎外する」か「疎外される」を名詞化している。そしてその前に接続する格助詞は「~を疎外する」か「~から疎外される」だ。

 だから「貨幣からの疎外」は「貨幣から疎外される」として解釈できる。

 だが「~への疎外」だと「貨幣へ疎外する」なのか「貨幣へ疎外される」のかがまずわからない。しかも何が何を「疎外」しているかもわからない。


 「疎外」という言葉は一般的には「仲間外れ」というような意味で使われる。「友達が話している話題に入っていけずに疎外感を感じた」などのように。

 とすると「貨幣からの疎外」は、貨幣から仲間外れにされているという、貨幣を擬人化した表現として理解することもできる。

 あるいは「関係が断たれる。縁遠くなる」くらいに捉えてもいい。貨幣との関係が断たれ、貨幣と縁遠くなるのだ。

 いずれにせよ、つまりは金のない状態である。


 一方「貨幣への疎外」は、直後で次のように言い換えられる。

貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人々が投げ込まれる時、つまり人々の生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。(149頁)

 どの部分を「への」と読んだらいいのか?


 上の表現は、後に「GNPを必要とするシステムのうちに投げ込まれてしま(う)」とも言い換えられる(151頁)。

 「への疎外」は「投げ込まれる」と受身に言い換えられている。とすれば「疎外される」の方か?

 となれば主語は「人々は」だろう。

 では「疎外する」の主語は? 人々は何によって「疎外された」のか?

 「システムのうちに投げ込まれる」というのだから、システムの外にある「自然」や「共同体」からか?

 「自然」や「共同体」が人々を仲間外れにしたのか?

 なんだかピンとこない。


 ここは「疎外」という言葉の独特な使い方に馴染む必要がある。

 例えば例の『現代文単語』では「疎外」を「仲間外れにすること」としたうえで、「人間が本来あるべき姿を失った状態を意味する場合がある」と付け加えてある。広辞苑には「人間が自己の作りだしたもの(生産物・制度など)によって支配される状況」とある。

 これはヘーゲルやマルクスの思想において使われる意味合いだ。つまり独特のニュアンスを帯びた哲学用語なのである。

 「疎外」は「疎外する」という動詞で使うのだから、誰か疎外した主語があるように思われる。「投げ込まれる」にしても、誰かが「投げ込む」のだろうから、その主語は想定できるはずだ。

 だがその主語は、自分のいる場所から人々を「仲間外れ」にして、システムの中に「投げ込んだ」わけではない。

 そうではなく、人々がシステムの中に「投げ込まれ」て、そこで「疎外される」=「人間が本来あるべき姿を失う」のだ。だから「疎外する」の主語を想定するならば、「システムが」だ。

 「への」はこの「投げ込まれる」という移行を示し、「疎外」は移行によって起こる事態を指している。上の引用の「貨幣が人々と自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、所得が人々の豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。」あたりが、こうした意味での「疎外」のニュアンスを表現している。

 だから「貨幣への疎外」は「人々が貨幣を必要とするシステム投げ込まれてそこで疎外される」もしくは「人々が疎外されるようなシステム投げ込まれる」といった意味合いなのである。


 「疎外」のこのような意味合いについては、「倫理」や「政経」、「現代社会」でも触れられるはずなので、意識しておくといい。もちろん「現代文」で評論を読むときにも、その「疎外」がこういった意味合いなのかどうかは注意しておく。


2021年2月9日火曜日

南の貧困/北の貧困 1 問いを立てる

 「南の貧困/北の貧困」の筆者・見田宗介は、日本を代表する社会学者。この文章が収められた『現代社会の理論』は、本校図書室の新書コーナーにある。

 現代社会の貧困について、本質的なモデルを提示していて、考える上で汎用性のある、とても「使える」文章だ。例えば社会学とか国際関係学などで貧困や開発や国際貢献がテーマとなる小論文に、この考え方を援用できる。


 だが正直、不必要に捻った言い回しが多く、読みにくい文章でもある。

 となれば手がかかるのは「部分」だ。

 そのためにはまず「全体」を把握しておく。


 そのために使えるメソッドは?

 「問いを立てる」である。

 というわけでこれが冬休みの課題だった。

 「『である』ことと『する』こと」に比べて、「南の貧困/北の貧困」では、これはそれほど難しくない。

 ところが、提出された課題を見ると、このメソッドの注意事項を、実行の際には忘れている人が多かった。自覚はあるだろうか?


 年度当初にブログでこのメソッドを紹介した際、「イエス/ノーで答えられる問いではなく、疑問詞を使った問いにする」という注意事項を掲げておいた。

 それなのに「『二重の疎外』という貧困のコンセプトは正しいか(適切か)?」というような形にした人が、意外なほど多かった(初期の提出者の半分がそうだった)。

 このように問いを立てると、ほとんどの場合、答えは「正しくない(不適切だ)」となってしまう。「正しいのか?」というのは、疑問と言うより反語なのだ。答えが決まっている。

 確かにこれが筆者の主張とか文章の主旨を適切に表わしていると感じられる場合もある。「南の貧困/北の貧困」もそうだ。

 だが今は文章把握のためのメソッドとしてこれをやっている。その場合、反語的な「~か?」は問いと答えのセットが持つ情報量が少ないのだ。

 例えば「『二重の疎外』という貧困のコンセプトはなぜ不適切か?」などと、疑問詞を使った問いの形の方が、思考の整理のために有益だ。


 それよりも、この文章ではシンプルに「貧困はなぜ起こるのか?」でいい。「貧困のコンセプトはどのようなものか?」でもいい。

 この問いに対する簡単な答えは「貨幣からの疎外貨幣への疎外という、二重の疎外に因る。」だ。

 さて、そのように「全体」を把握して、最初に考察に値する「部分」は何か?

 言うまでもなく「貨幣への疎外」である。


2021年1月13日水曜日

「である」ことと「する」こと 1 全体と部分

 今年度の授業は、年が明けて10回ほどしかない。この中で「『である』ことと『する』こと」「市民のイメージ」「南の貧困/北の貧困」「『贅沢』のすすめ」を読む。

 メインは「『である』ことと『する』こと」と「南の貧困/北の貧困」だが、後の二つはそれぞれと結びつけて読む。

 そして最終的には「『である』~」と「南の貧困~」を結びつける。

 そのために、さらに他に二つほどの文章を読みたい。

 正直、かなりきつい。

 まともな考察をするためには、まずテキストの情報を(表面的にではあれ)ひとまず把握するために、既に長い時間が必要になる。

 そこでそれぞれは冬休みに読むことにして、それを促す課題を出した。

 若干の未提出者がいるとはいえ、それらはシステムの不具合で提出できなかっただけだろうから、授業は、皆が既に上記の文章を読んでいて、それについて課題に答えるだけの考察もしてある前提で展開する。


 まずは「『である』ことと『する』こと」。

 今回は事前の授業準備に、「疑問点・考察したい点」を挙げよ、という課題を出しておいた。受身で授業に臨むのではなく、自分で問題意識をもっておこうというわけだ。

 それらの疑問は、文章全体の主旨にかかわるものと、部分的な表現にかかわるものとがあった。

 授業での読解は、これまでの評論教材でも、この「全体/部分」を行き来する形で読み進めていった。どちらかだけを先に完了することはできない。わかりにくいと感じられる「部分」を適切に理解したり説明したりするためには「全体」に対する見通しが必要だし、「全体」は「部分」の集積でできている。だから「行き来」が必要だ。これはどんな文章の読解でも鉄則である。

 とはいえ、とりあえずどちらかに手をつけるしかない。まず通読した。「部分」だ。では次に「全体」を?

 だが「『である』ことと『する』こと」は、この「全体」の把握がそもそも難しい。「ミロのヴィーナス」や「空白の意味」が一読しただけで、とりあえず「全体」の主旨がわかったようには、この文章は把握できない。

 例えば「全体」を把握しようという思考を促すためのメソッドが「問いを立てる」である→。 この文章の主旨を掴もうとし、それがどのような問いに対する答えなのかを想定する。その問いを「~か?」の形で表現する。

 だがこれが「『である』ことと『する』こと」では容易にはできない。ちょっと考えてみればわかる。「ホンモノのおカネの作り方」「ミロのヴィーナス」「ロゴスと言葉」に比べてもはるかに難しい。


 ではやはり、引き続き「部分」を?

 だが実は皆が疑問として挙げた「部分」の多くは、「全体」の主旨が凝縮した表現なのだ。

 その意味で目の付け所として適切ではあるが、ということは「全体」の把握ができなければ、その「部分」については考察も説明も議論もできないのである。「ミロのヴィーナス」でも「ロゴスと言葉」でも、そういった「部分」の考察は最後に回したのだった。

 さてどうするか?


 ということで、当然のことだが、まずは全体に関わる核心的な「部分」ではなく、冒頭から読む。そして段落ごとに把握する。

 このための思考が、各章一文要約である。「全体」を捉えるために、各章はなるべく短く圧縮しておく。

 これを例年は授業時に行っていたが、今回は冬休みの課題とした。

 そして、その範囲で考察できる部分的な「部分」を考察していく。

 つまり小さい範囲での「全体→部分」を繰り返していくのである。ある意味で授業の読解の常套手段だ。

 そのうえで、文章「全体」につなげていくための読解として何をすべきか?


2020年9月1日火曜日

ロゴスと言葉 1 -問いを立てる

 夏休み明け、第2回の定期考査前まで7~8時限、言語論を読む
 まずは教科書の「ロゴスと言葉」だ。

 「言語論を読む」と言い、「まずは」と言う。
 つまり最初からいくつかの文章を読むつもりなのだ。
 国語の授業は、教科書の文章を「教える」ものではない、と繰り返し書いて(言って)きた。「ロゴスと言葉」を「教える」つもりはもちろんない。みんなも「ロゴスと言葉」を理解することが目的だ、などと考えてはいけない(だがもちろん理解しなくてはならない。その都度、授業の場面場面では理解しようとしなくてはならない。ここらあたりの理屈は→)。
 今回の7~8回の授業も、どんな教材文を扱っても常に共通した目的であるところの「国語力増強」のためにせっせと文章を読んだり話し合ったりする。だがそれは「ロゴスと言葉」という文章を理解することが目的ではない。それは手段であり一過程だ。
 と同時に、いくつかの文章を読むことで、現代の言語学の基本的な考え方を理解することも目論んでもいる。それはそれで有益な知識であり認識である。
 だがそれは、一つの文章を詳細に解説されることで達成されるというようなものではなく、同じ考え方に基づいた文章を複数読み比べる方が、はるかに身につくものなのだ。
 「ロゴスと言葉」もそうした言語学の基本的な考え方の、一つの表れとして読む。

 まずは「ロゴスと言葉」を読む。
 授業ではまず「この文章は何を言っているか?」と聞いた。教科書を閉じておいて、隣の人に、この文章の内容を話しなさい…。
 これができることは、記憶力が高いということではない。
 何が書いてあったかを頭にとどめておくためには、理解と要約が必要である。画像のように字面を記憶したり、音声レコーダーのように文章を暗唱したりすることができる特殊能力者も世の中にはいるのだろうが、普通は理解していないことは覚えられない。だから情報を圧縮する過程で理解が促される。
 そしてそれを他人に伝えるときにはもう一度、圧縮した情報を解凍して、表現しなおさなければならない。
 つまり情報の圧縮解凍とは、国語における理解表現にあたる。
 その文章の内容を、テキストを見ずに他人に説明できる長さと適切さは、そのままその人の「国語力」を表わしていると言っていい。細かく、適切に伝えられる人ほど、国語力が高い。
 文章の内容を他人に伝えるというのは、最も簡便で最も効果的な国語科学習である。実際に他人がいなかったら、頭の中で思い返すだけでもいい。読み終わったらテキストを伏せる、というのがミソである。

 次は、読解のためのメソッドを使おう。
 まず「問いを立てる」である。この文章が考察している問題を疑問形で表わす。
 どのような「問い」が全体を最も包括的に捉えるのに有効かを考えるだけで、文章の読解に向けての考察は大きく前進する。適切な問いが立ったら、それだけで頭がスッキリする感覚が実感できるはずである。
 どのような問いが適切か?
そう考えてみるだけで有益だ。
 そしてこの文章について授業者は、これがとりわけ考えるのに手間のかかる作業とは思っておらず、答えるのがそれほど難しいとは想定していなかった。
 ところが授業ではここに思いの外、手こずった人も多かったのだった。
 授業では、誰が指名されるか、どのような順番で指名されるかによって展開に大きく変わるから、指名された一人目が的確な「答え」を出してしまえば、その問いの難しさは明らかにはならない。ところが多くのクラスで、この問いの適切な「答え」が出るまでには、案外に何人かを指名することになってしまったのだった。
 みんなが立てた問いは、部分的すぎたり、「答えがYes-Noになる問い」だったり、問いよりもむしろ答えであるべき内容に無理矢理疑問形を付け加えたものだったりした。
 たとえば「ロゴスとは何か?」という問いを立てた者は多かった。おそらく詳細な読解をしていない現状で、「ロゴスって結局何のこと?」というような疑問がもやもやと胸にあるのだろうという感じはわかる。
 だが、この文章はそれを明らかにしようとしているだろうか?(ちなみにこういうのが「答えがYes-Noになる問い」である。文末の疑問形は反語だ。「いや、していない」という否定が続くことが最初から含意されている)。
 題名の「ロゴスと言葉」を手がかりに問いを立てるとしても、次の二つの問いのどちらが適切かは考えればすぐわかるはずである。

  • 「ロゴス」とはどのようなものか?
  • 「言葉」とはどのようなものか?

 この文章は「ロゴス」という聞き慣れない言葉を読者に向けて解説したり、その概念について筆者自身が考察したりすることが、全体の目的になっているだろうか(いや、なっていない)。そもそも「ロゴス」という言葉は最初のうちしか出てこない。「ロゴスとは何か?」という問いが適切であるかどうかは、考えればすぐわかるはずである。
 「ロゴス」は「言葉」のはたらきを説明するための切り口の一つとして用いられているのであって、いわばこの評論にとっての手段である。目的ではない。
 それよりも「言葉とはどのようなものか?」という問いは、この文章全体を貫く問題意識であり、各部分、そして結論がそれぞれこの問いに対する「答え」を提示しようとし続けていることは、そう思って全体を思い返してみればすぐに実感されるはずだ。
 この、そう思って全体を見直してみたときスッキリ感を実感してほしい。

 さて、大きな問題意識は明確になった。だが今すぐに「言葉とはどのようなものか」が適切に説明できるわけではなかろう。部分的には答えられる、本文のフレーズをそのまま引用することはできる、が、それどういうこと? とさらに突っ込まれたらそれ以上に説明をすることはできない、というのが現状だろう。
 さらに読解を続ける。

2020年6月12日金曜日

ミロのヴィーナス1 -全体を捉える

 ブログ開設以来ここまで、休校中の特別措置ということで全体に語りかけるという体裁をとろうと、慣れない敬体で書いてきたが、ここからは授業の進行と並行して、授業の記録及び考察の整理のためにという、私的な目的が強くなるので、通常運転の常体に変える。
 もちろん公開はしているので誰でも読める。欠席者や、授業時には個人的に考え事をしていてボーッとしていたとかいう事情で授業内容を振り返りたい人など、積極的に読んでほしい人もいる。とはいえ、まあそういう人よりも、読むとしたら授業中にも積極的だった人だろうとも思う。
 さらに、こちらがクラスによって言い忘れたりしていることもなるべく書いておく。
 また、別のクラスで提出されたアイデアの交換にもなるはずだという期待もある。

 休校明けの最初の教材は「ミロのヴィーナス」。
 休校中に「ホンモノのおカネの作り方」「少年という名のメカ」と、評論→小説の順に扱ってきて、この後で定番の「ミロのヴィーナス」か「山月記」かという選択だったので、同じパターンを踏襲して、評論→小説にしようとしただけだ(ということでこの次は「山月記」)。
 だが始めてみると、ここまでのブログでの読解で使ってきたメソッドが意外と使えることに気づいて、「ミロのヴィーナス」を取り上げた偶然を幸運だと思わされる。

 読解のための作法は、文章の全体を見ることと部分を見ることを交互に関連させながら、それぞれの考察結果を互いにそれぞれの考察に活かすように進めていく、というのが常套手段だ。
 この文章は何を言っているんだろう? と、文章全体に意識を向けるか、ここの一節は何を言っているんだろう? と部分的な表現に意識を向けるか。
 ここでいう「全体」というのはその文章の主旨や、論の構成、そこで論じられている問題の社会的な背景などを指す。
 「部分」というのは、局所的に読みが滞ったり靄がかかったような印象があって、一読して腑に落ちるとは言い難い一節のことだ。
 「ミロのヴィーナス」という文章は「全体」と「部分」、どちらが難しいか?
 そう問えば誰もが思い当たる。「全体」よりも「部分」の方が圧倒的に手こずるはずである。「全体」として何を言っているかは一読してわかる。共感できるとは言い難いが、とりあえず主旨は読み取れる。
 そこでまず「全体」を問う(註)。導入にまず易しいところから入る。

 とはいえいま言ったとおり、この文章の主旨はあまりに明らかである。それを20字以内で簡潔に表現せよ、などという問いも悪くないが、その前に少々ひねる。教科書に収録されている「空白の意味」(原研哉)を読み比べるのである。
 二つの文章を読み比べて、次の2点について考えをまとめるように指示する。

  • 二つの文章で対応する表現
  • 二つの文章に共通する主旨

 ここからは初のグループワークだ。「主旨」は上記の通り簡単だが、「対応する表現」はさまざまな箇所を挙げうるから、それぞれの見つけたところを交換する。
 班での検討の後は発表だが、とにかくあちこちが挙がる。クラスによって様々な箇所が発見される。
 「可能性」は共通して文中に登場して「対応」する語である。
 「対応」のわかりにくいものは応答によって明らかにする。皆の言う引用が長いと、どこが「対応」しているかわかりにくい。
 例えば

  • 「ミロの…」  おびただしい夢をはらんでいる
  • 「空白の意味」 未来に充実した中身が満たされるべき機前の可能性

 が対応している、というような意見が出される。ぼんやりと、そうだとは思える。だがどこがどう「対応」しているのか?
 そこで、短く切って、何と何が「対応」しているかを明らかにする。
 「おびただしい夢」「機前の可能性」が、「夢をはらんでいる」「未来に充実した中身が満たされるべき」が対応しているとすれば「」は? 「空白」「」である。さらに「ミロの…」では他に「欠落」「失われた」があり、「空白の意味」では「省略」の語がある。
  • 「ミロの…」  存在すべき無数の美しい腕への暗示
  • 「空白の意味」 空っぽの器に~何かが入る「予兆」
が挙がった時にはこちらがハッとしせられた。「暗示」と「予兆」!

 また、皆から挙がらなかったもので、こちらから一方を挙げて考えさせたものもあった。
 「空白」の「イメージ」に対応する語を「ミロの…」から挙げよ、という問いは難易度のちょうど良い問いのはずだ。
 「イメージ」の日本語訳としてしばしば用いられる、などとヒントを出しながら、候補をどんどん挙げるよう指示すると、「想像」「夢」など、悪くない対応語が挙がり、誰かが「心象」にたどりつく。
 この問いはむしろ、最初のクラスで「イメージ」「心象」の対応を指摘した生徒がいたので、後のクラスではこちらから問いかけたのだった。

 さて「主旨」は「ない方がかえって想像させるので良い」くらいの捉え方で良い。数人にきくと、結局は趣旨は同じだが、それぞれに違った表現で語られるところが面白い。
 すぐに既習のメソッド二つを応用する。「問いと答え」「対比」だ。これもグループワークである。

  • 全体を捉える「問いと答え」はどう表現できるか?

 「問い」の形そのままの表現は文中にはない。上の「主旨」が「答え」になるように「問い」を設定するのである。
 抽象的な表現で、本質的な問題を問おうとする者もいる。それよりも「ミロのヴィーナス」という言葉を「問い」に入れて表現してみよう。
 例えば「ヴィーナスは腕があった方が良いか、ない方が良いか?」という問いは、前に触れた「イエスorノーで答えられる問い」と同じように、益が少ない。二択のどちらかを本気で検討しているような文章ならいいが、この場合は結論は明らかだからだ。
 「ミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?」はシンプルで良い。ただ注意が必要だ。「腕がないから。」が答えになりかねない。
 もちろん「腕がないことによって、さまざまな想像の可能性がひろがるから」という「答え」なら良い。
 「問い」の方に「腕がない」を入れてもいい。

  • 問い 腕のないミロのヴィーナスはなぜ魅惑的か?

 これなら先ほどの「主旨」がそのまま「答え」になる。

  • 答え ないことでかえってそれを想像させるから。

 こうした考察は、結論を聞いてしまえばあまりに当たり前で、そりゃそうだという以上の発見はないだろうが、問題は生徒一人一人がそれを形にすることには、それぞれにいくらかのハードルはあるということである。
 それなりに考える必要があるということは学習の機会になるということだ。これを聞いて「わかる」ことが学習なのではなく、これを自分で形にすることが学習なのだ。

 ここまでは難易度がそれほど高くないことから、お互いのコミュニケーションの機会として、年度初めにはちょうど良かった。
 だが2回目以降はどんどんハードルが上がる。


 文章を前から読み進めていくようなタイプの授業では、段落毎に「部分」を検討しつつその段落の内容をまとめ、最後の段落まで読んでから「全体」をまとめることが多いだろうが、筆者の授業では基本的に、前から順に内容を「まとめる」といった手順をふむことがない。最初から、考えるに値すると思われる問いを提示する。
 むろん、前の段落から順に「まとめる」ことが「考えるに値する問い」であるならばそうすることもある。それはつまりこちらが「まとめる」のではなく、皆に「まとめ」を問うということだ。
 みんなからすれば、こちらの「まとめ」を聞くまで待つのではなく、必ず自分で「まとめ」ようとしなければならないということだ。

2020年5月27日水曜日

少年という名のメカ 5 -対比・大きな問い

 「小説」を「物語」としてではなく「小説」として読むためには、メタな視点が必要です。
 そこで、予告の通り、「対比」と「問い」を上げてもらいました。

 「対比」については、たちまち複数の同じ回答が上がってしまったのですが、それはその通り、そうです、こちらの想定通りです。
対比 メカ少年/少年
  この対比から導き出される「問い」もまた、やはり想定通りに上がりました。
問い 「少年」とは何か?
この「対比」と「問い」の関係は、「ホンモノのおカネの作り方」と相似形です。
対比  メカ少年/少年
問い  「少年」とはどのようなものか?
       
対比  ニセガネ/ホンモノのおカネ
問い  「ホンモノのおカネ」とはどのようなものか?
「ホンモノのおカネの作り方」では、ニセガネ作りたちの失敗を通して、「ホンモノのおカネ」とは何かを考えているのだ、と整理できたのでした。同じように「少年という名のメカ」では、メカ少年の存在を通して「少年」という存在を浮き彫りにしているのだ、と考えることができるのです。
 メカ少年は、いわば「反『少年』」です。「アンチ『少年』」です。
 メカ少年の振る舞いは「…したりはしなかった。」と否定形で語られます。それはすなわち、逆にそれをする者としての「少年」の姿を彷彿させるのです。
 「少年」は主(あるじ)によって、おかみさんによって、少女によって、物語の語り手によって、様々に語られます。それはいわゆる「あるある」の楽しさに満ちています。「あるある」ネタは漫才などのギャグのパターンとしても最も有力な様式の一つです。この、いちいち思い当たる羅列がこの小説の面白さのひとつです。

 このように浮かび上がる「少年」とは一体なんでしょうか?

 …と問いかけたところ、後半でS君が「これは『少年』ではなく『少年らしさ』を表しているのではないか」と言ってくれました。前半でもM君が最初から「問い」を「少年らしいとは何なのか?」と表現しています。
 確かに問題は「少年らしさ」です。「少年」はどうやら個体ではなく、「あるある」というのはそもそも複数の個体の共通属性です。それらに見られる典型・ステレオタイプが問題なのです。

 こういうとき、小説の読解においては、こうした「らしさ」としての「少年」をどのような言葉で捉えるでしょうか? という問いに対してはA君が「象徴」という言葉を上げてくれました。Yさんも「『少年』と『メカ』はそれぞれ何を象徴しているのか?」という言葉で「問い」を表現していました。
 そうです。問題は「『少年』とは何の象徴か?」と表現されます。

 少々脇道に逸れると、授業者は「メカ少年」は「反」であることによって「少年」を浮かび上がらせるだけだと捉えていたのですが、「メカ」の象徴性についても問うているYさんの問いに、別のYさんの見解を接続させると、この設定は「この世界で様々なものが自然から機械に移行していく様子と通ずる」と捉えることができます。
 なるほど。人々の心のケアも、機械化された商品、テクノロジーの進歩によって解決しようとする、我々の世界が「象徴」されているのだ、という捉え方は、この小説の「読み方」として、ひとつ腑に落ちる解釈です。

 閑話休題。「少年」です。
 象徴とは、それをそのものではなく、別の何かであると見なす、という約束のことです。「何か」は基本的に抽象概念です。
 ある文脈において、鳩は鳥ではなく「平和」を、天皇はある個人ではなく「日本国」を表していると見なす、という約束が了解されているとき、鳩や天皇は「象徴」です。
 「少年」は何の象徴でしょうか?

 先ほどの「特許出願中。」についての考察において、たびたび、そこまでの「世界観」は「物語」的だ、という語られ方がされてきました。
 これは読者誰もがすぐに感ずることです(感ずることを言葉にして表現できるということが重要なのですが)。
 どのような「物語」と言えばいいのでしょうか?
 メディアの種類で言えば、ゲーム(RPG)、アニメ、小説(ラノベ)、マンガ…。
 ジャンルで言えばファンタジー、SF…。
 様々な設定や描写が、老夫婦や少女のいる世界が、これらのメディアによって語られるこれらのジャンルの「物語」であることを示しています。村の入口にある家にいて、「…じゃ。」という口調で語る、パイプを咥えた老人はどうみてもゲームにおける「村人」です。「エプロンで手をふきふき出てきたおかみさん」「悲しそうな目をした少女」などという形容もステロタイプです。「戦闘機らしき乗り物」などという形容は、その設定の大雑把さを皮肉っているようにも見えます。

 そのように作られる「物語」的世界における「少年」とは何を象徴しているでしょうか?

 さて、後半組では、話はここで終了だったのですが、前半組ではこの問いに対してS君の的確な答えが提示され、それを受けてYさんがあまりに見事にこの小説を解釈しきってしまいました。
 まさかそのタイミングでそのようにこの問題が「解決」してしまうとは思わなかったので、びっくりしました。

 明日、プレ講座も残り1回、後半組ではこの「解決」とその先へ向けて、前半組でももう一つの「解決」へ向けて考察を進めたいと思います。

2020年5月16日土曜日

少年という名のメカ 2 プレ講座の準備2

 前回、プレ講座「準備1」では「少年という名のメカ」という小説を教材として取り上げ、「小説の読み方」を考える、と予告しました。
 しかし「どう読んだら良いのか」などという問いは抽象的すぎて、みなさんにとっては考えるための手掛かりがほとんどないはずです。

 たとえば評論読解のためのメソッドは、小説読解にも使えるでしょうか?
 たとえば問い答えのセットを考える」は?
 おそらく直ちに思いつくであろう「問い」、

  • 「少年という名のメカ」の正体は何か?
  • 「少年という名のメカ」はなぜ作られたか? 目的は何か?

 などはもちろん重要な謎として物語をひっぱっていますが、この「答え」は小説中で明かされています。それを読んだ上で「だから何?」と感じているわけです。

  • 「主」や「おかみさん」「少女」はどのような気持ちだったのか?

 などという「問い」もむろんどうでもいい。

 これらの「問い」が有効に働かないのは抽象度の設定が不適切だからです。
 「この小説をどう読むか?」という問いは抽象度の階層が高い問いであり、そのレベルを問題にするには、問いの抽象度を上げる必要があります。
 といって「この小説をどう読むか?」はそもそも高すぎて焦点が絞られず、手が出ない。つまり上の「どうでもいい」問いよりも抽象度を上げ、なおかつ考えるべき焦点の定まった問いを設定する必要があるのです。
 うーん、これでもまだ難しいでしょうねぇ。「問い」を考えることは「答え」を考えることより難しいことが多いのです。やはり。
 とりあえず、ポイントは「問いの抽象度です。

 では「対比」は?
 実はすぐ目の前に明らさまな対比があります。明白なので、考えてみればすぐに思いつくかもしれません。思いつかないとすれば盲点に入っているだけです。言われてみれば「ああ、そうか」なはずです。
 この対比は上の「問いと答え」にも関わります。「ホンモノのおカネの作り方」でも、重要な対比がそのまま中心的な「問いと答え」に密接に関わっていました。同じように「少年という名のメカ」はどのような対比によって、何について語っているのでしょうか?

 最初は評論読解のためのメソッドは、今回の小説読解には使えないだろうな、と予想して、使えないことを書くつもりでいたのですが、上のように考えているうちに、それなりに使えるような気がしてきました。
 よし、この方向でも考察を展開していきます。

 さて、当初の思惑としては、「ホンモノのおカネの作り方」でもやった「部分的な表現を考える」でいくつもりでした。
 どこ?
 言うまでもないでしょう。末尾の一文「特許出願中。」です。
 何これ?
 誰もが素朴にそう思うはずです。
 だからといってもちろんこれもまた「~とは何か?」では埒が開きません。「逆説」「ホンモノの形而上学」で考えたように、問いを組み直す必要があるのです。

 頭の体操に、最初に取り上げようと思っていたのは34頁の「主」とメカの、おかしなやりとりです。これについてはこちらから「問い」を提示します。

  • このやりとりの「おかしさ(奇妙さ、変さ)」はどこから生じているか?
  • このやりとりからどのようなことがわかるか?

 これらの問いの「答え」を考えてください。

 上で提示したいくつもの問題は、いずれも事前に考えてほしい事柄です。授業時に初めて考えるのでは、3時間で想定した内容を扱うことはできそうにないからです。
 そして授業ではこれらを「教える」わけではありません。そのように「教える」内容に価値があるわけではないからです(もちろん最終的にはこちらの考えは明らかにしますが)。

 そして可能な限り自分なりの「答え」を書き出しておいてください。ノートにではなくテキストエディタやワープロで、テキストファイルにしておいてください。授業における「発言」を、チャットへのテキスト入力で代替しようと考えています。その時には、手元のテキストのコピペで済むのが効率的です。
 もちろんその時に思いついたら、音声で答えてくれてもかまいません。

 考えるべき優先順位は、上に述べた項目の後の方ほど高いと考えてください。つまり、

  1. 34頁の会話
  2. 特許出願中
  3. 対比
  4. 問いと答え

 の順に「答え」を考えておいてください。

2020年5月11日月曜日

ホンモノのおカネの作り方 14 -「問い」と「答え」

 いよいよ「ホンモノのおカネの作り方」最終回です。
 全体を捉えるための「問い」と「答え」のセットを考えます。

 まず題名からすぐに思いつく「ホンモノのおカネの作り方とは何か?」「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」はイマイチです。「作る」が不純な夾雑物として考えるべき像を不鮮明にします。
 次の組み合わせはそれよりは良い。
問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの
 「作る」を取り除いて、この文章のポイントがいくらか鮮明になりました。
 それでも問題は「答え」です。この、本文そのままの「答え」がわかりにくいからこそさらに問うているのでした。

 さて、グループ討論の中では、さまざまな「問い」と「答え」のセットが提案されました。例えば次のような組み合わせはどうでしょう?
問い どういうおカネがホンモノになるのか?
答え 利便性の高いもの(「預かり手形」など)。
 もちろんこれは間違っていないのですが、果たしてこの「答え」は、この文章の全体もしくは中心的な論点だと感じられるでしょうか?
 この「答え」は、上のわかりにくい「答え」に対して、付随的な条件を言っているというに過ぎません。「利便性の高さ」は「代わり」になるための条件の一つです。

 それよりも、この文章を読解するためのここまでの考察は有機的に結びついているはずです。上の「わかりにくい」「答え」は「逆説」そのものです。そして「問い」に含まれる「ホンモノ」についても考察しました。
 それらの成果を活かして「答え」を言い換えてみましょう。
問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
答え 「ホンモノのおカネ」などという絶対的なものは存在せず、「ホンモノ」とはその時々の「代わり」に対する相対的な「ホンモノ」でしかない。
答え 「ホンモノのおカネ」は変化していく流動的なものであり、絶対的な「ホンモノのおカネ」など存在しない。

 「ホンモノ」という片仮名表記についての考察がこの「答え」に活かされています。題名にも使われている「ホンモノの」という形容は重要なポイントです。

 これで終わりではありません。
 この文章は「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」を通して「『ホンモノのおカネ』とは何か?」を考えているのだ、と言うことができます。
 これをさらに突き詰めて言えば「『ホンモノのおカネ』とは何か?」を通して、この文章は「『おカネ』とは何か?」を考えているとは言えないでしょうか?
 実はこれこそ、最初に「問いを立てる」というメソッドを提示した時点で、こちらが想定していた「問い」です。
 この文章は、「おカネ」=「貨幣」の本質について考察しているのです。

 この「問い」を立てて、それに対する「答え」を考えたグループもありました。
問い おカネとは(そもそも)どのようなものか?
答え1 物質ではなく機能
答え2 人々の信用・承認によってなるもの

 「答え1」はニセガネ作りたちの失敗の教訓をうまく抽象化しています。
 「答え2」は教科書54頁の「実際、天王寺屋や鴻池屋ほどの大きな資力も厳重な金蔵もないところには、ホンモノのおカネを作り出すあの逆説は見向きもしてくれない。」という部分の趣旨を解釈したものです。良いところに目をつけました。
 これらと先ほどの「ホンモノの」の考察を合わせて表現してみましょう。
答え おカネとは、それを作っている物質に依存しているのではなく、それにみんなが価値を認めることによって成立するのであり、それには人々の信用を支えるだけの背景(資金力・金蔵)が必要である。
 これはこの文章の趣旨をなかなかうまく捉えていると思います。

 それでもなおかつ、ここには「逆説」の意外性、「似せる」「代わり」といった重要なキーワードのニュアンスが表現されていません。その意味で、まだこの文章の全体・中心を捉えているとは言えません。
 「似ている/似ていない」「代わり/ホンモノ」といった重要な対比要素は「おカネとは何か?」という「問い」に対してどのような「答え」を構成するのでしょうか?

 「似ていない」と「代わり」という言葉を使い、かつ「逆説」のニュアンスを出すように、この文章の主旨を表現してみます。
ホンモノに「似せる」ことでは「ホンモノのおカネ」になれず、「似ていない」ものこそが「ホンモノ」の「代わり」に「ホンモノのおカネ」になる。これこそが「おカネ」=「貨幣」というものの本質である。
 これが岩井克人がこの文章で論じている最も重要な論点だと授業者は考えています。
 いえ、こんなふうに言ってしまうと、結局は最初の「わかりにくい」「答え」といくらもかわりません。結論だけをすっきりと表現してしまうと、かえってその内容が頭に入ってこないということがあるのです。

 「似ていない」こと。
 「代わり」であること。

 この二つが「貨幣」の本質だ、というのがこの文章の主旨です(と大胆に言ってしまいます)。みなさんはこれまでの読解で、本当にこのことに納得しているでしょうか?

 貨幣経済が存在しない世界を考えてみてください。そこでの交易では物と物とが直接交換されています。いわゆる物々交換です。
 そこへ交換の取次ぎに「おカネ」が介入します。肉を「おカネ」に「代え」、「おカネ」を木の実に「代え」ます。本当に欲しいものは肉や木の実であり、「おカネ」はその「代わり」として、それらの交換を媒介します。
 つまり「おカネ」とは最初に存在を始めた時から一貫して常に、価値ある物の「代わり」だったのです。「代わり」であることこそ「おカネ」の本質なのです。

 その「おカネ」は、ある時にはそれ自身価値をもった金銀だったりしました。つまり、肉を金銀に「代え」、金銀を木の実に「代える」という交換が、「おカネ」を介した交換ということになります。
 だがこれは本当に貨幣による売買と言えるでしょうか。このような交換は物々交換と一体どこが違うのでしょうか。
 しかしその金銀が、それ自身の価値に見合った重さの金銀ではなく、わずかな金銀に数字を刻印しただけの薄い板金に「代わった」とすればどうでしょう?
 その板金には、それ自体、物質的には交換する物(肉・木の実…)の価値に見合った価値はありません。
 にもかかわらず、この交換が成立した時、交換の媒介としての金銀は初めて「おカネ」になったのです。
 つまり、媒介物が「おカネ」すなわち「代わり」になるためには、交換対象と「似ていない」必要があるのです。
 「似ていない」というのは「価値ある物」と「代わり」=「おカネ」が違う階層にあることが認識される、ということです。「価値ある物」こそ「ホンモノ」であり、「おカネ」は「代わり」です。
 両者は「似ていない」ことによって違う階層であることが明らかでなければなりません。「おカネ」が交換対象(価値ある物)と「似ていた」ら、「おカネ」が「代わり」であることは認識できず、それは単なる物々交換に過ぎないか、あるいは交換が階層の違うものの混在によって混乱してしまいます。
 「おカネ」はそれ自身には価値がない(紙幣が単なる紙切れであるように)ことによって、価値ある交換対象とは「似ていない」ことが必要なのです。
 「おカネ」は、交換対象とは「似ていない」ことによって区別される、すなわち違う階層(これを「メタレベル」といいます)にあることによって「代わり」になれるのです。

 価値あるモノ「代わり」であること。そしてそのモノ「似ていない」こと。
 この二つの性質こそ、この文章から導かれる「おカネ」=「貨幣」の本質なのです。

 こうした主旨を、本文から直接に引用することはできません。
 ですが、この文章を貫く最も根源的な「問い」を考えれば、岩井克人はこうした貨幣の本質を射程に収めていると考えざるを得ません。
 そしてここには、これまで考えてきたことが全て総合されているのです。

2020年4月30日木曜日

ホンモノのおカネの作り方 11 -グループワーク実施

 学校全体でTeamsが動き出すまで、もうしばらくかかりそうです。
 そこで、あるクラスで試験的に、Teamsとは別のオンライン通話で、前回の「問題の整理」にしたがって、話し合いをしてもらいました。
 基本4人ずつの10班によるグループワークです。話し合いの後、その成果(必ずしも「結論」というほどまとまらなくても)をレポートとしてそれぞれ班ごとに送ってもらいました。

 レポートには、部分的に面白い見解や「うまい」表現もあったのですが、全体としては問題に対する考察が十分に深まっているとは言えませんでした。これはやむをえないことです。今回の話し合いはあえて時間を短くするよう制限しましたし、授業のようなこちらからの微妙な誘導ができないからです。

 それでも、こうした話し合いは授業にとってやはり重要な意味をもつと、あらためて思いました。
 そうした契機がなければ、こんなブログの長い文章など、読むことすら面倒でしょう。そしてその問題について考えることも。
 そして「考える」ことこそが、国語の学習のほとんどなのです。
 この後の記事を読む上でも、この問題について考えた今回の経験がなければ、どれほどの関心を持って読めるか、あまりにも心許ない。このクラス以外の人たちにとって。 
 それでも、そうした機会を待って現状で止まっているより、問題を先に進めます。

 考察すべき問題を確認します。まず一点目。

①文中の「逆説」と「ホンモノの形而上学」とは何のことか説明する。

 この問いにストレートに答えてはいけません。前々回この問いは「雑な問い方」だと言ったはずです。「単なる『何のことか』よりも適切な問い」をまず考えなさい、というのが前回までのアドバイスです。
 また、どちらも、文中から該当箇所を挙げることはできるが、それだけでは「わからない」ので、「わかる」ための説明を考えなさい、というのが指示です。
 もちろんこれらの指示に応えるのは難しい。問いそのものを工夫しているレポートはありませんでしたし、「説明」も、結局本文といくらも変わらない表現にとどまっているレポートが多い。
 繰り返し言いますが、それらの「答え」は正解です。本文からの抜き出しが適切なら。
 にもかかわらず、それでは「わからない」と感じているのではないでしょうか?
 やはり「わかる」ために明らかにしなければならないポイントを捉える必要があるのです。

 予告どおり、今回はそこまで話を進めます。
 説明が「わかりやすい」と感じられるようになるためには、「そのこと」を説明するだけでなく、「そのことでないこと」と併せて説明するのが効果的です。「対比」の考え方です。「対比」の考え方は、自分が「わかる」ためにも有効ですが、相手に「わかってもらう」ためにも有効です。
 つまり「逆説」を説明するためには「通説」が何なのかを明らかにするのです。
 「問い」として言い直すなら「この『逆説』とはどのような『通説』に対して『逆』なのか?」です。
 対比される二つを、なるべく似た表現で並べてみせるのが肝心です。構文も語句も共通させて、その違いの部分だけが違いとして浮き出るような、比較が容易な表現にすることが、「そのこと」を認識しやすくします。
 さて「逆説」はもう明らかですね。ではこの場合「通説」とはどのようなものでしょう?

 「形而上学」も同じように考えます。「形而下」とは何のことか、と考えるのです。
 ただしこちらはこれだけではまだ「わかる」べきことが明らかにはなりません。
 授業ならば「『形而上学』という言葉を、筆者はどのようなニュアンスで使っているか?」と問います。
 「ニュアンス」?
 微妙な言葉です。ですが筆者がそれをどのような「ニュアンス」で使っているか、こそが「形而上学」の「わからなさ」です。
 そもそも肯定的? 否定的? どうして「形而上学」という言葉がそのような意味で使われるのでしょう? 筆者はこの言葉にどのような「ニュアンス」をこめているのでしょう?

 そしてもう一つ重要な問題は、題名にはじまって本文中一貫して「ホンモノ」という言葉がカタカナで表記されていることの意味です。ここにはどんなニュアンスがこめられているのでしょう?
 実は「形而上学」はそれだけを説明しても不十分で、「ホンモノの形而上学」と言わないとそのニュアンスが説明できないのです。
 筆者はなぜ、「本物」という言葉をカタカナで「ホンモノ」と表記するのでしょうか? それを含めて「ホンモノの形而上学」を「形而下」と比較しながら説明してください。

 ところで、レポートの中で「形而上学」を「ホンモノのおカネが確実に存在するという認識」と説明している班が複数ありました。察するに、おそらく昨年度の授業で確認された「公式」解答ということでしょうか。
 これは確かに間違ってはいません。ですが、単なる本文そのままの「ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという認識」より何かが「わかりやすく」なっているでしょうか? どうしてこれが「形而上学」という言葉で表現されているかは、依然として「わからない」のではないでしょうか?
 「ホンモノの形而上学」が本文の何を指しているか、が問題なのではなく、やはりこの表現のニュアンスが読み取れることが、ここでは読者に問われているのです。

 ②全体を捉える「問い」と「答え」の組み合わせを考える。

 まず「どうしたらホンモノのおカネが作れるか?」では駄目だと最初に言いました。
 「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」は、それよりは良いのですが、上述の通りまだ不十分です。
 この二つは、その「答え」が本文中からほとんどそのまま抜き出せて、それでも「わかる」という感覚がおとずれるとは言い難いからです。
 ポイントは二つだと私は考えています。
 まず一つは上記にも挙げた「ホンモノ」のニュアンスです。「ホンモノ」とは何か?
 もう一つは?
 これは、もう一度考えてみてください。「問い」の形はシンプルです。そしてこの「問い」こそ、全体を把握する「問い」です。
 そして、上記二つの「問い」に対する「答え」を考えてください。
 「答え」は、繰り返し言っている通り、本文そのままでは駄目です。解釈を通して、自分が納得できる「答え」を形にしてください。

 さて、上記クラスには、もう一度、こうした誘導にしたがって話し合いをしてもらおうと思います。
 他のクラスでもそうした取り組みが自主的に行われることを期待します。
 何よりそもそも、始めてしまえば楽しいに違いないのです。

2020年4月26日日曜日

ホンモノのおカネの作り方 10 -問題の整理

 休校中の課題の提示から2週間が経ちました。
 各科目の課題の中には、GW明けの学校再開を想定した課題もあります。一方、学習の方向性だけを示した課題もあります。本ブログ「現代文」の課題もそうです。要約を週に2本、という課題なので、ここまでで4、5本の要約をしていれば、とりあえずは指示どおりです。さらに「学習の手引き」について考えてあれば、「現代文」という科目の学習としては十分です。
 おそらく予定のGW明けの学校再開は難しいでしょう。感染者増加のペースは落ちていないので、緊急事態宣言を解除する理由がありません(解除するなら、活動自粛には実は感染拡大を防止する効果がない、という意見が専門家会議でまとまるしかないでしょう。が、それはここまでの方針を誤りであったと認めることになるので、難しい)。
 引き続き休校が続くとして、その間、課題は同じように続けてください。

 一方、このブログでは授業が行われていたら、という想定で、授業で取り上げたかもしれない教材文を題材に、読解のためのメソッドを紹介しています。
 繰り返し書いているように、メソッドは、知っていると役に立つというようなものではなく、使うことで、身につけることでしか役には立ちません。
 そしてさらに、可能ならば、ここで問題を提示することで、みなさんが授業を受けたときのように「考える」ことができないか、とも期待してきました。
 まあしかしこれについては悲観的にならざるをえません。おそらくみなさんは、数学の問題を解くようには、現代文の問題について一人で考えるという経験をしたことがないだろうと思われるからです。何かを一人で考え、考えが深まっていくという経験を。
 「考える」ためには、やはりある程度の強制力があり(例えば学校に集められて、授業を受けさせられる、といったような)、そこには目の前に他者がいて、対話をする、というような契機が必要なのです。
 一人で考えるという「経験」を数知れずしてきた私でも、前回までのように、対話という契機があると、いきなり、一人ではできなかったような考察に導かれます。前回までの考察では、自分なりにはこの文章はこう読めば良いだろうと見当をつけていた読みとは違う読みに目を見開かされました。「認識の変容」というやつです。
 こういうことが起こるから授業は面白い。

 さて、「ホンモノのおカネの作り方」について「考える」ために、問題を整理します。

  1. 文中の「逆説」と「ホンモノの形而上学」を説明する。
  2. 文章全体の「問い」を「~か?」という形で表し、その「答え」をまとめる。

 1については、もちろん語義ではなく、文中での意味を説明するのです。そしてもちろん、「逆説」も「形而上学」も、文中ではどういっているかを指摘することはできます。

  • 逆説ホンモノの「代わり」がそれに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうというこの逆説
  • ホンモノの形而上学ホンモノのおカネがホンモノであるのはそれがホンモノの金銀からできているからであるという「ホンモノの形而上学」

 文中から上記部分を指摘するだけでは「わかった」と感じられるようにはならないからこそ問題なのであって、上記記述の意味をこそ説明すべきなのです。
 ここでは「説明」するための方向性について、単なる「何のことか」よりも適切な問いがあるのですが、前回予告を先延ばしして、さらに次回。

 2「文章全体の『問い』」については前回「授業8」で言ったように、以下のように「問い」と「答え」が出揃うことは共通認識として、それでも「わからない」感覚をどう納得させたらいいのか、を考えてください。

  • 問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
  • 答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの

 つまり、上記とは違う「問い」と「答え」の組み合わせを考えてください。

2020年4月25日土曜日

ホンモノのおカネの作り方 8 -対話2「問いを立てる」

 引き続き、反応を返してくれた生徒の考察をもとに「対話」を試みます。
 この生徒はさらに続けてこのようにも言っています。

この文章全体が「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」という問いに答えようとしていると考えて要約したのですが、そもそも問いの方向性が間違っているということでしょうか?

 いや、これは正しい。とても。
 実は「授業4」回で「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」という問いはイマイチだ、ではどういう問いを立てるべきか、というお題を出したときに、みんなに考えついてほしかったのは、まさしくこれです。
 「どうしたら作れるか?」より「どのようなものか?」の方がいい。前回書いた通り「作り方」は本質的な問題ではないのです。「どのようなものか?」を論じるために二つの具体例をもってその成り立ちを説明していこうとして紹介したニセガネ作りたちの失敗例から、「作り方」を問うというレトリックを惹句として発想した、といったところでしょう。
 問題は確かに「ホンモノのおカネとはどのようなものか?」です。文章は間違いなくこの問いに答えようとしています。

 にもかかわらずなお、この問いは最終的に有効なわけではありません。
 この「問い」の「答え」は前回、要約で参照した引用部分に既にあります。

問い ホンモノのおカネとはどのようなものか?
答え その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったもの

 ここまで「わかった」上で、なおも「腑に落ちない」のではないでしょうか。
 書き送ってくれたあなた、あなたは必要な論旨の整理も理解もできています。その上でなお、これで本当に「わかった」と思えているのかどうかを自問してください。自問する間もなくまだ「腑に落ちない」と感じているとしたら、さらに有効な「問い」を立ててください。
 もちろん本講座の受講者全員も。

p.s.
 上記「答え」について、この生徒はさらに返信で、これがどういうことなのかという本人の解釈を書き送ってくれました。上の「答え」は単に本文から対応する部分を抜き出しただけですが、それをさらに解釈することによって、この「問い」に対して筆者が考えている、より本質的な「答え」が、抽象度の高い形で表現されていました。
 なるほど、この人はそのようにこの文章を読んだのか! 確かにこれは「腑に落ちて」いる!
 前回の「要約」があのように表現されていることも、それで納得されます。
 とても面白い問題です。次回紹介します。

P.P.S.
 「次回」取り上げられなかったので。
 この人はこの時点で、この文章は「『ホンモノのおカネは変化していく流動的なものであり、絶対的なホンモノのおカネは存在しない』ということを言いたいのだと思います。」と書いていました。このシリーズの最終回「授業14」で書いたことを、既に的確に表現していたわけです。