メソッド1
問いを立てる3
読解するためのメソッド「問いを立てる」、「ホンモノのおカネの作り方」について、考えてみましたか?
と、その前に要約はしてあるでしょうか。
「要約」「問いを立てる」、現代文探究で紹介する「読み比べる」、いずれも、読解するためのメソッドです。ブログでは、実際に授業で取り上げたかもしれない教科書の文章を教材として、その有効性を明らかにしていくつもりですが、何よりもこれらのメソッドは、みなさんが自分で実行し、自らの国語力向上を図るために紹介し、その実行を求めるものです。
そしてメソッドとは「知っている」だけで有効なのではなく、繰り返し実行して身につけることによって有用な技術になるものです。
実行してください。繰り返し。ルーチンとして。
さて、既に「ホンモノのおカネの作り方」の要約をしたことを前提に話を進めましょう。
「要約の実演」の中で、本文の順番に要約していく方法を提案しました。この方法で要約してみましょう。
A ホンモノのおカネを作るには、ホンモノのおカネに似せようとしなければいい。佐土原藩のニセの二分判金はホンモノに似せようとした、あくまで「ニセガネ」に過ぎないが、両替屋の天王寺屋や鴻池屋の発行する「手形」はホンモノには似ていないが、後にホンモノのおカネのように実際の支払い手段として流通するようになった。ホンモノの「代わり」がそれ自身ホンモノになってしまうという逆説の作用が、ホンモノのおカネを作る。(198字)
要約に使うキーセンテンスを選ぶ際には、具体例の挙がっている文よりも、抽象的な表現の文を選ぶ方が、短く結論を示すことができます。この文章の場合は佐土原藩のニセガネ作りと天王寺屋や鴻池屋の発行する「預かり手形」のエピソードが具体例にあたります。これらを取り上げずに要約文を作ることもできます。
B ニセガネ作りたちを支配していた、ホンモノのおカネがホンモノなのはホンモノの金銀からできているからだという「ホンモノの形而上学」ではなく、本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」が、太古から現在までホンモノのおカネというものを作り続けてきた。本来のホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意なのである。(200字)
ABどちらが正解ということもありません。
砂土原藩のニセガネ作りのエピソードも、両替屋の預かり手形のエピソードも、本文中では多くの紙幅を費やして語られており、その例示自体にも情報としての重要性はあります。抽象度を高めた下の要約より、具体例を含んだ上の要約の方がわかりやすい(情報が読み手に伝わる)とも言えます。
ですが、100字に要約するとなるとさすがに具体例と抽象的表現の両立が難しくなります。下の要約abはどちらが「わかりやすい」でしょうか。
a ホンモノに似せようとした佐土原藩のニセの二分判金はついにはホンモノにはなりえず、両替屋の手形はホンモノには似ていないからこそ、後にホンモノの「代わり」として流通するいわば「ホンモノのおカネ」になった。(100字)
b 本来のホンモノのおカネに「代わって」それ自身がホンモノのおカネになってしまうという「逆説」、つまりホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに代わってしまうことがホンモノのおカネを作る極意である。(99字)
具体例を含む要約aの方がわかりやすいけれど、だから何なんだ? と言いたくなる舌足らずさも感じます。一方の下の抽象的な要約bは、これだけでは何を言っているかわからない(原文を読んで理解している人にしかわからない)文だろうと思います。
ともあれ要約は、要約しようという思考がトレーニングなので、その結果がどのような形になっても有益です。もちろん、上の要約を自分の要約と比べてみる、などという思考も。
さて、こうして何種類かの要約をしてみると、そこには既に「問い(問題)」と「答え(結論)」が潜在していることに気づきます。
どのような「問い」でしょうか?
おそらくみなさんは次のような「問い」を立てただろうと思います(そうではない、という人はちょっと待っていてください。ひとまずは想定される多数派からとりあげます)。
どうしたらホンモノのおカネを作れるか(ホンモノのおカネの作り方の極意とは何か)?
この問いは題名の「ホンモノのおカネの作り方」に、既に潜在しています。「文系と理系の壁はあるか」でもそうですが、題名は主題の在処を示していますから、そこにその文章が提起する問題が潜在しているのは当然です。
そしてこの「問い」の適切さは、「答え」との対応関係から判定されます。「答え」はなんでしょう?
次のような「答え」を想定しているはずです。
ホンモノのおカネに似せるのではなく、ホンモノに似ていない、ホンモノの「代わり」を作ればいい。
これらの問いと答えの組み合わせは、既に要約文中にも見て取れます。「要約する」ことも、「問いを立てる」ことも、読むための思考法=メソッドですから、それを通して形になる読み=理解に共通性があるのは当然です。このような要約をしたということは、この文章を、このような「問い」に対してこのように「答え」ている文章であると理解したということなのです。
さて、このように要約され、このように問いを立てられたなら、この文章に対する理解は「正解」です。この文章はまさにそう言っています。
にもかかわらず、みなさんの実感は「腑に落ちない…」といったところだろうと思います。
例えば大学入試問題のような問いは、基本的には本文中の論理の対応を問うているはずなので、上のような論理の整理ができれば答えられます。ですが、そのように「答えがわかる」ことと、その文章が「わかる」と感じられることは、必ずしもイコールではないのです。
この文章を「わかる」ためには、別の問いの立て方が必要です。
そもそも、筆者岩井克人にとっても、この文章で説きたいことを「どうしたらホンモノのおカネを作れるか?」と表現するのは少々不適切なはずです。この問いの形は、わざと奇を衒(てら)ってこの文章を面白くしようというレトリック(修辞)に引っ張られて、文章が本当に問題にしていることを見えにくくしています。この文章がわかりにくいのはそのせいだとも言えます。
この文章では何が問題になっているのでしょうか?
再び、上記とは違った「問い」を立て、その「答え」を文中から探してください。
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