3.要約というトレーニング
教科書はトレーニングにおけるバーベルなどと同じで、バーベルが上がることを自己目的化してはならない。
だが同時に、トレーニングにおいてバーベルは持ち上げようとしなくてはならない。バーベルが持ち上がることは最終目的ではないが、自分でそれをしようとしないかぎり、トレーニングは成立しない。つまりバーベルを上げることは、やはり当面の目的であり、かつそれは上位目的のための手段に過ぎないのです。
このことを理解する必要があります。国語学習では、文章の内容を理解することは目的ではないが、にもかかわらず理解しようとする姿勢がトレーニングを成立させるのです。
というより単に「わかろう」とすれば必ず学習になります。バーベルは、持ち上げようと力を入れさえすれば、持ち上がらなくともトレーニングになります。つまり負荷をかけてそれに抗えば、既にトレーニングは成立しているのです。だから現状で持ち上がらない(=わからない)としても、それをしようとするかぎり、トレーニングとしては有益なのです(そもそも練習は「できない」ことを繰り返すことです。スポーツでも楽器の練習などでも)。
そのことを信じないと地道な練習は続けられません。地力とはそのような練習の積み重ねによってゆっくりと身についていくものであり、練習は(やり方によって程度の差こそあれ)必ず有効なのです(「練習は裏切らない」とは成功者のよく言う経験則です)。
この、国語力を高める練習として最も簡便でかつ有効だと推奨するのが、文章を要約する、というトレーニングです。
バーベルを上げようという意志と上がったという成果の関係は明白です。が、文章を理解しようとすることと理解できたという成果の関係は、必ずしも明白ではありません。どうなれば「わかった」ということになるか、それ自体は目に見える形にはなっていないのです。
要約は、それをしようとし、実際にできたことが目に見える形になります。時間がかかったり、あまり適切でなかったとしても、要約文を書くことはできます。
文章を要約する過程では、言語を用いたさまざまな思考が必要になります。文章の枝葉や幹を見分け、文章中の各部分を相互に関係づけることで有意味化し、文章全体の構造を把握したうえで、そのエッセンスをすっきりとわかりやすい文章にまとめる。国語力を高める練習として必要な要素の多くが一連の過程に詰まっています。
要約とは、「文章を理解する」という当面の目的のための一つの手段であり、ひいては「国語力を高める」という目的のための一つの有効な手段なのです。
では、授業の意義はどこにあるのでしょう?
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