前回お報せした通り、方法については検討していくとして、今回は「投稿募集」に応じたというわけではないのですが、反応を返してくれた生徒がいたので、本人の了承のもと、それを取り上げて、3回に分けて「対話」の試みをしてみようと思います。
まず要約です。
要約は、それをやろうと頭を使うだけで既に学習になっているのですが、もちろん書き上がった要約が適切なものであるかどうかの検討も必要です。
ところが、これは要約した本人には判断しにくい、という決定的な問題があります。
なぜかというと、ある理解に基づいて要約したわけですから、原理的に、そのような要約が適切かどうかをそのように理解した本人は判断できないということになるからです。「自分の理解」に基づいて「自分の理解」の適切さを判定しようというのですから、まるで自分を支えにして自分のバランスをとるような行為になってしまうわけです(わずかにできるのは、わかってはいるけれど上手く書けてはいないという感触を手掛かりに推敲する、くらいです)。
そう考えた生徒の一人が、私に添削を依頼してきました。ありがたい申し出です。これで対話が始められます。
送ってくれたのは以下のような要約文です。
ニセガネはホンモノでないものをホンモノに似せたものなのでホンモノになれない。ホンモノのおカネは「代わり」がホンモノに代わってホンモノになる逆説の作用を受けて作られ、「代わり」に対するホンモノでしかない。(101字)
必要な要素は揃っています。100字要約としてのバランスはとてもいい。
ですが一読したときに、最後の「『代わり』に対するホンモノでしかない。」の部分に引っかかりました。
2文目の主語は「ホンモノのおカネは」です。上記要約のように「に対する」というと「代わり」と「ホンモノ」は対立するものだと言っているように見えます。
ところが本文では、代わりのおカネがホンモノに「代わって」ホンモノになったのだ、と言っています。
つまり「代わり→ホンモノ」なのに、これでは「代わり≠ホンモノ」に見えるわけです。
…という指摘をしたところ、本人から次のような返信がありました。
教科書52ページ13行目〜15行目の「ホンモノのおカネとは、その時々の「代わり」のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく、それ自身もかつてはホンモノのおカネに対する単なる「代わり」にすぎなかったのである」を参考にしました。
なるほど! 本文が「ホンモノのおカネとは、その時々の『代わり』のおカネに対するその時々のホンモノでしかなく」と言っている! これは上記要約の「『代わり』に対するホンモノでしかない。」とほぼ同じです。
そのつもりで読もうとすると、なるほど、この要約で言っていることは間違ってないとも思えてきました。この要約はそういうことを言っているのだ、と読むことが可能であることに、私の方も今更気づきました。
なのになぜ最初に要約文を読んだ時には違和感があったのでしょうか。
これはとても興味深い問題であり、かつ説明がとても難しい。現時点で、これをわかりやすく書けるかどうか自信がもてないくらいに。それでも、やはりこの要約に感ずる違和感には根拠があります。
みなさんの中にも、同じように違和感を感じた人も、まるで感じない、これでいいではないか、と思った人もいるでしょう。違和感を感じた人、そのわけを考えてみてください。
そしてこれを書き送ってくれたあなた、どうぞ再考してみてください。もちろんさっき述べた理由で、本人にはこの違和感を感ずること難しいかもしれません。ですが「再考」することで、さっきまでの自分を客観視し、さっきとは違った「自分」として、かつての自分の思考に対する違和を感ずることは可能です。
p.s
この記事をアップしてから3週間ほど経って、後の記事の方でこの件について解説することができなかったので、ここに追記します。
上の要約の違和感は、記述内容の順番に拠るものです。説明のために色分けして引用します。
ホンモノのおカネは「代わり」がホンモノに代わってホンモノになる逆説の作用を受けて作られ、「代わり」に対するホンモノでしかない。この一文の主語「ホンモノのおカネは」に対する述部は、青字の「「代わり」に対するホンモノでしかない。」です。しかし逆に、この述部に対する主語は、正確に言うと「『ホンモノのおカネ』における『ホンモノ』とは」です。
ところがこの文章における重要な主語は、本当は「おカネは」であり、それに対する述部は、赤字の「代わり」がホンモノに代わってホンモノになる逆説の作用を受けて作られ、という内容の方です。
つまり内容的に、主要部分は赤字で、青字はむしろ付属部分です。
こういう場合、付属部分が先にきて、主要部分が後に、特に文末にくる必要があります。「~は」という主部は必ず文末と対応して完結するからです。
というわけで、例えばこういう順番であれば違和感はなかったでしょう。
ホンモノのおカネとはあくまで「代わり」に対するホンモノでしかなく、ある時点での「代わり」がホンモノになるという逆説の作用を受けてホンモノになる。予備校の要約文採点などでは、要約文の中の要素の有無で得点(減点)を計算したりしますが、実際には単純に要素の有無だけではその適切さを測れないというのがこの例でもわかります(だから予備校の要約指導や採点はあんまり信用できません)。ここでも、要約の適切さの判断の難しさについて、とても面白い例を挙げて論じられています。
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