メソッド1 問いを立てる2
「問い」は立てられましたか?
この「問い」の立て方には、やはりそれなりの制約やコツがあります。
まず、イエスorノーで答えられる問いを立ててもあまり意味がありません。
例えばコロナ感染対策のための休業補償を政府がしていないことを批判しようとしている文章(新聞コラムのようなもの)があるとして、その文章の冒頭あたりに「政府は休業補償をしなくていいのだろうか?」という「問い」の形をした一文が置かれていたとしましょう。これを今回の趣旨に合う「問い」として取り立てることには意味がありません。その「答え」が「よくない」であることは明らかだからです。イエスorノーで答えられる問いというのは、ほとんど反語のようなもので、その一文で意味が完結しているのです。
この文章の場合、テーマはたぶん「なぜ休業補償が必要か?」といったあたりになるでしょう。「答え」は、「休業した店の人が困るから。」でしょうか? 間違ってはいませんが、わざわざ文章が書かれるとしたらそんな結論は当たり前すぎて書かれる必要はありません。おそらく「休業補償しないと、その後の日本経済全体の落ち込みを回復させるために必要な経済対策の方が多額になるおそれがあるから。」くらいの言い方をしたいか、「休業補償してでも休業させないと感染防止効果が十分保障されないから。」といった主張をすると予想されます。
つまりこの文章での問題は「良いか悪いか?」ではなく、「なぜ悪いか(理由・根拠)?」なわけです。
したがって、この「問い」は、「何が」「なぜ」「どのように」のように疑問詞が入った問いの形にします。主張・結論の表現に合わせて適切な疑問詞を選んでください。
また、理解に資する「問い」と「答え」は、文章全体を包含するような組み合わせにすることが重要です。もちろん文章には部分的な、例えば段落内で完結する「問い」と「答え」の組合わせもあります。階層化された様々なレベルの「問題」と「結論」が構造化されて全体を構成しています。それらは必要に応じて考えるとして、まずは全体を捉えられる「問い」と「答え」を考えるというのが、この思考法を有益なものにするコツです。
ところで、要約課題で最初に取り組んだはずの「文系と理系の壁はあるか」は、題名がいきなり「問い」の形です。この「問い」はどうでしょうか?
もちろんこの問いはあまり有効ではありません。「ない。」という結論は読まなくとも予想できます。上記の「反語のような問い」に他なりません。「壁がある」ことは一般的な常識であり、わざわざ文章が書かれるとしたら、常識に反することを言いたいはずだと予想できるからです。
この文章の最後の段落には「なぜ物書きが、理系だから、文系だから、専門家だから、専門家じゃないから、と自分の視野を狭めるような枷をはめねばならないのか。」という、疑問詞の入った疑問形終わりの一文もあります。これは?
残念ながらこれもまた、「なぜ」という疑問詞で始まっているにもかかわらず、「いや、枷をはめなくてよい。」という主張に続く反語のようなものです。
でもこれをちょっと変形すると、有効な「問い」の形になります。たとえば「なぜ文系と理系の壁がない方が良いのか?」としてみましょう。この「答え」は?
上の一文中からも一つの「答え」が抽出できます。「視野を狭めることになるから。」です。また、文章全体の最後の一文から抽出するなら「もったいないから。」「(理系も文系も)同じ人間の営みだから。」あたりも抽出できます。つなげて言えば、この文章は「理系も文系も同じ人間の営みなのだから、視野を狭めるような枷をはめて区別するのはもったいない。」というような主張をしているということになります。
これで全体の「問い」と「答え」が対応しましたが、しかしまあこの文章ではこれで、なるほど! みたいな「認識の変容」がおとずれるというわけでもありません。この文章は最初からそれほどわかりにくいことを論じている文章ではないからです。上のような「答え」も、それはまあそうだろうけど、という感じでしょう。
というわけでこの文章を授業で取り上げることはなかったでしょうけれど、実際に授業で上のようなやりとりをしてみれば、それはそれでちょっとした頭の体操にはなるはずです。「問い」を立ててごらん、その「答え」を文中から探してごらん、そう言ってしばし考えさせ、隣の人と「答え」合わせをさせてみる。国語の学習としてはそれなりに有益で、かつ楽しいはずです。
そしてこの「答え」を、最後から二段落目から次のように探すことができた人がいたら、大いに誉めていたでしょう(誰かが次のように回答し、それに対し「やるねぇ! 素晴らしい!」などと応える、授業の、そういう瞬間はとても楽しい)。
「(科学の)成果を享受するのは私たちなのだから、私たちには技術を理解してその社会的な影響を考え、最終的な選択を行う責任がある」から
ところで、この文章で扱っているテーマについては題名に疑問詞を付しただけの「なぜ文系と理系の壁はあるのか」という問いも想定できます。この「問い」はどうでしょう?
でもこれはさっき無益だと却下した「なぜ物書きが、理系だから、文系だから、専門家だから、専門家じゃないから、と自分の視野を狭めるような枷をはめねばならないのか。」とほとんど同じように見えます。じゃあ取り上げる価値はないのでしょうか。
いいえ、両者は同じではありません。文中に書かれたこの問いは、「自分の視野を狭めるような枷」と、最初から否定的な形容がつけられているため、「枷をはめてはならない(壁があってはならない)」という結論が見え透いていて、それを本気で論じようとはしていないことが予想されます。そして実際にその予想どおり、この文章では「なぜ壁があるか」を論じているのではなく、「壁がない方が良い」という前提をそのまま結論づけているのです。
もちろん上の例と同じように「なぜあるのか」は「いや、ありはしない」という反語を意味することもあります。ですが「文系と理系の壁」問題の場合、「なぜ壁があるか」は、まず壁があることが前提ですから、その当たり前の前提に疑問を投げかける根本的な問題提起になるはずです(その分、当たり前の結論ならば書かれる意味のない文章になるおそれもあります)。
また「何が壁をつくっているのか」という言い方でも、同じように根本的な問題提起になりえます。
ですがその答えをこの文中から探すことはできません。これらの「問い」は、この文章の読解から派生した哲学的な「問い」であり、考える価値のある問題ではありますが、少なくともこの文章はそのような根本的な問題に踏み込んだ考察を行っている文章ではありません。したがってとりあえず国語の授業としての文章の読解からは、はみだしているわけです。
さて、取り上げるつもりのなかった「文系と…」について思いがけず長々と論じてしまいました。次回こそ「ホンモノのおカネの作り方」を読むための「問い」を立ててみましょう。
p.s
念のため。
読解のための教材として授業で取り上げるにはそれほど意義がない、と言っているのであって、この文章を読む意義がない、と言っているわけではありません。
「文系と理系の壁はあるか」を読む意義は、その主張を理解することよりも、筆者がそう主張するために取り上げた筆者の実体験を知ることにあります。そしていくらかは、わかってはいるとはいえ陥りがちな我々の思い込み、前提(文中の「枷」)をあらためて自覚することにあります。
読解のための「教材としての価値」は、読解に負荷をかけることにあるのであって、「その文章を読む価値」とは違うわけです。
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